俺様の美技に酔いな 6

「菜々子さん、菜々子さん」
「あら――リョーマさん」
 南次郎ではないが、リョーマも菜々子の恋愛事情がふと気になったのだ。評判の美女で大学でもモテているらしい。それなのに浮いた噂ひとつ聞かない。
 菜々子は理想が高過ぎるのではないか。自分が完璧なものだから。
「あのさ――菜々子さんて、好きな人いないの?」
「うーん、いない訳じゃないんだけど……これはおじ様にもおば様にも内緒よ」
「何?」
「この間、すごく好みの人を見つけたの。すれ違っただけだけど」
 そして、菜々子はぽっと赤くなった。
「へぇー……」
 リョーマも跡部に一目惚れしたし、一目惚れしやすい血は確かに流れているのかもしれない。菜々子もあの南次郎の血縁なのだ。
 それはともかく、菜々子の好きな人だ。リョーマの滅多に動かない好奇心が疼いた。
「どんな人?」
「体がすっごく大きくて、黒目がちの小さな目で、茫洋としたって言うのかな――坂本龍馬みたいな、あんな感じ。あ、リョーマさんのことじゃないのよ」
「坂本龍馬ね。俺も好きだよ。俺の名前って、その人から取ったんだよね」
「そう。それで、大きなラケットバッグ二つ軽々持ってたの」
「へぇー……」
 それはかなりの力持ちに違いない。
「で、かっこ良かったの?」
「そりゃあもう!」
 菜々子は力説した。
「あ、どこの大学か訊いておけば良かったかしら?」
「流行りの逆ナン? 菜々子さん進んでんね」
「やだー。もう、リョーマさんたら!」
 菜々子はリョーマの背中をバシバシと叩いた。
「いて、いて」
「でも、気が付いた時にはいなくなってたから――」
 菜々子は遠い目をする。どこか色気さえも漂わせて――。
(不二先輩から見た俺も、あんな感じだったのかな)
 だとしたら、恋だって悪くない。問題は恋する相手だ。菜々子は無事いい恋を見つけたらしい。後は失せ者探しの要領だ。
(ラケバ二つ持っている大男――とすると結構絞られるかな)
 それにしてもわからない。どうして菜々子も自分も、ふと見かけた相手に恋することが出来たのだろう。遺伝、と言われればそれまでだが。
 取り敢えず、菜々子が恋した大男を探してみようとリョーマは思った。
「あ、ほんとにおじ様とおば様には内緒だからね」
 菜々子が小声で念を押す。
「――わかってますって」
 リョーマは共犯者の気分でにっと白い歯を見せてやった。その時、母倫子が現れた。
「リョーマ、宿題やったの?」
「風呂入ってからするよ、母さん」
「ダメよ~、アンタ、お風呂入ったら寝ちゃうんだから。宿題しないと先生に叱られるわよ」
「そんなんわかってるよ。先生なんて怖くないし」
「んもう、リョーマったら。昔はあんなに素直だったのに……」
「おい、青少年。母さんの言うことはちゃんと聞けよー」
 南次郎も廊下に出て来た。
「――はあい」
 まだまだ両親にはつい従ってしまうリョーマであった。
 仕方ない。今日は国語だけだ。三分の二までは不二とやっつけたから、後は自力でやってみよう。帰国子女のリョーマにとって、国語はあまり得意ではないのだけれど。
 ――そうだ。ノートに八百屋お七のことでも書いてみよう。国語の先生なら詳しいとも限らない。その前に――。
「ねぇ、菜々子さん。八百屋お七って知ってる?」
「有名よ。漫画にも載ってたもの。というか、その漫画から八百屋お七を知ったのよ」
「どんな漫画?」
 菜々子は有名な演劇大河漫画の名前を口にした。
「俺、それ名前だけなら知ってるっす。面白いっすか!」
「とっても面白いわよ! でも、まだ終わってないの。続き楽しみにしてるのになぁ……リョーマさんにも貸してあげようか?」
「――いらない」
 完結してない漫画読んだって、欲求不満になるばかりだ。例えそれがどんなに面白くても。続きが気になる漫画ならリョーマにもあるけど――。
 でも、漫画読むよりテニスしていた方が断然楽しい。ライバルも見つかったことだし。
「ところで、リョーマは八百屋お七をどこで知ったの?」と、倫子。
「部活の先輩から聞いた」
「八百屋お七。リョーマもすごいの知ってんのねぇ」
 倫子がリョーマの頭を撫でた。
 子供扱い、しないでよ――。
 だが、何となく言う気になれなくて、リョーマは黙って母の好きにさせていた。
「部活の人って? 桃城さん? あの人もリョーマと同じでテニスしてる方が好きみたいなイメージがあったんだけど」
「おー、俺もだ」
 南次郎もちゃっかりリョーマの頭を撫でようとする。リョーマは南次郎の手だけは振り払った。
「――不二先輩っス」
「ああ、あの綺麗な人」
「男にしとくにゃ勿体ねぇ美形のあんちゃんだな」
 不二が聞いたら何と言うだろう。――嬉しそうににこにこしている顔しか思い浮かばない。でも、複雑な思いは抱くのではあるまいか。不二は女顔だが女々しいところはひとつもないから。むしろ、メンタルはそこら辺の男より遥かに強いから。
 手塚に恋した時、不二は自分のことをどう思っただろう。
 お七が吉三と恋仲になった時、お七はどう思ったのだろう。
 不二が八百屋お七を知った時、彼はどう考えただろう。
 お七と吉三は、状況が許せば祝福されて、子宝にも恵まれるに違いない。だが、手塚と不二は? ――あの二人は男同士だ。二人とも互いに結ばれるなんて夢物語、信じちゃいない。
 しかも、手塚も不二も頭が良いと来ている。それぞれに悩みもしただろう。
 ――俺は?
 リョーマは跡部景吾という存在さえ知らなければ、普通の、ちょっと生意気なだけの普通の少年として生きていけたはずだ。
 跡部が、リョーマの少年の季節を奪ったのだ。あの人は燃え盛る太陽。自分はイカロスのように羽根を焼かれるだけ――。
 いや、イカロスは跡部の方かもしれない。お前の羽根は人間の小賢しい知恵によって、蝋で固めただけだと、知らしめてやりたい。跡部を、堕落させたい。
(――何思ってるんだ! 俺は!)
 完璧な美しさを目の前にして、リョーマは跡部のきらきら光る金茶髪の髪を刈ることを夢見てバリカンも買った。八百屋お七のことも調べた。――そして、自分の心の醜さも知った。
(何だ……堕落してるのは俺じゃん……)
 悪魔は元は神の寵愛する美しい存在だったと聞く。――そうか。あの人は悪魔だったんだ。
 岬先輩もよくやるよ。さながらメフィストフェレスか。自分をファウストになぞらえる気は毛頭ないけれど。
 俺は、まだ恋など知りたくなかった。桃先輩とテニスをして遊んでいたかった。堀尾達と馬鹿話をして、それで満足したかった。
 でも、それでは物足りなくなった。跡部がリョーマを変えたのだ。たった一つの呪文によって。
 ――俺様の美技に酔いな。
 わかってるよ。跡部さん。初めから勝負はついてたんだ。俺は負けている。俺は――女になりたかった。跡部を見て騒いでいるだけの女の子になりたかった。
 勿論、それ以外は男であることで満足している。跡部は彼自身に熱を上げている女生徒達を雌猫呼ばわりしているらしい。それでも良かった。リョーマは跡部の雌猫になりたかった。
 抱いて欲しかった。――いや、それ以上に、彼を、抱きたい。
 彼を抱いて、魂の飢え渇きを満たしたい。今生も、来世も、ずっと――。
 跡部は、自分を見たらどう思うであろうか。運命の恋人同士みたく、一目で恋に落ちるだろうか。
 それではつまらない。跡部を焦らして焦らして――自分の物にしたい。自分の腕に抱き止めたい。
 リョーマは自分の中でパッションが迸るのを感じた。ここがどこかなんてすっかり忘れてしまっていた。――ここはいつもの越前家である。
 跡部を称える言葉だったら、幾らでも出て来そうな気がする。それを紙に書いて印刷したらリョーマは作家になれただろう。
 跡部と跡部を愛する自分をひっくるめて――。
 リョーマは一筋の涙を流した。リョーマは永遠の孤独の中で、自分が泣いていることさえ自覚してなかった。
「か、母さん、リョーマがおかしい――」
「――え?」
 うるさいな。声が遠くでわんわん鳴っているのが聴こえた。

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2019.01.12

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