俺様の美技に酔いな 59

 リョーマは風呂上がりでほわんとしていた。髪からはシャンプーの匂いが漂って来る。――気持ち良かった。
「リョーマさん、はい」
 菜々子が牛乳を差し出した。リョーマは顔をしかめたが、結局一本一気に飲んでしまった。
(コーヒー牛乳の方がいいんだけどな――)
「あら、リョーマさん、不満?」
「――ん。コーヒー牛乳の方がいいなって」
 銭湯といえばコーヒー牛乳! これだけは譲れねぇぜ――と、堀尾が言っていた。リョーマも同感である。銭湯は好きだ。以前南次郎に連れて行ってもらったことがある。そこでのコーヒー牛乳が美味しかった。
「まぁまぁ、我慢してくださいね」
 菜々子はにこにこ笑いながら言う。本当に菜々子はいい女だ。――恋人がいないのが勿体ないくらい。昔からナンパはよくされていたけれど。
「親父は?」
「おう、ここだ。リョーマ」
 居間で南次郎が新聞を読んでいた。――今回は本当に新聞を読んでいたらしい。新聞にグラビアを挟んで眺めているのはいつものことだったが。そして、倫子に怒られることもしょっちゅうだったが。
「――真面目な話があって来たんだけど」
「おう、何だ?」
「俺も――U-17合宿に参加したい」
「ああ。話は聞いたよ。凄腕の高校生達が集まってるんだってな。今回は中学生も」
「ウィッス」
「まぁ、アメリカで武者修行もして来たことだし――大抵の高校生ならお前なら蹴散らせるだろ」
 南次郎はリョーマの力を知っている。リョーマは鼻の下を擦った。
「勿論、まだ俺には敵わねぇがな。チビ助」
「だから、誰がチビだと――」
 リョーマは反駁しようとした。その時だった。リョーマの頭の中に一陣の風が吹き過ぎて行ったのは。
(チビ助――)
(俺は、まだ、大切な人を忘れている――)
「ねぇ、親父。俺、まだ記憶喪失の後遺症残ってんのかな」
「そう思うんだったら、医者に行くことだな」
「そんな暇ないよ! 合宿は明日だよ!」
「そうだな――まぁ、お前が帰ってからおいおい考えるとしよう。日常生活には支障は来してないんだろ?」
 リョーマはこくんと頷いた。だけど、気にはなる――。
「手塚とかいうヤツには話したのか?」
 リョーマは今度は首を横に振った。こんな時に、心配をかけたくない。――手塚や跡部には。
「お前の言う通り、U-17合宿にお前も参加すること、話しておいたからな」
「ウィッス」
「リョーマ――合宿の前に家に帰って来てくれてあんがとな」
「そんな……親父の為じゃないよ」
 照れ隠しにリョーマは言った。
「母さんにも会いたかったし、菜々子さんの顔も見たかったし」
「はいはい。おめーも素直じゃなくなったなぁ……」
「だって、親父無茶苦茶なんだもん。木と枝でテニスとか、軽井沢で武者修行とか――」
「今回の合宿だって、もっと無茶苦茶だって聞いてるぜ。まぁ、噂だけどな」
「…………」
 リョーマは黙ってしまった。
「どうした? 怖気づいたか?」
「冗談!」
 リョーマは少しの間を置いて、にかっと笑った。
「よーし、いつもの生意気さが戻ったな。ガキは生意気さが身上だぜ。特にお前はな」
「どういう意味だよ……」
 南次郎がリョーマの頭を撫でた。リョーマは好きにさせておいた。きっと合宿に行ったら、しばらくは戻って来られないだろうから。――それに、この感触が懐かしくもあった。
(まぁ、親父には言わないけど)
「リョーマ、茶わん蒸し食べる?」
「うん。母さん」
「リョーマは母さんには素直だな」
 南次郎の台詞に倫子はクスクスと笑った。
「だって――私は菜々子さんと一緒にリョーマのご飯作ってるんだもの」
「飯で釣られてたって訳か。リョーマは」
 南次郎も釣られて笑う。リョーマは不本意ながらも、その通りなので、敢えて言い訳はしなかった。
「リョーマさん、牛乳、もう一本飲む?」
 菜々子が牛乳瓶を持って来た。仕方ない。リョーマは牛乳瓶を受け取った。
「あらあら、食前にそんなに飲んだら、お腹が痛くなっちゃうんじゃないの?」
「大丈夫だろ。そんぐらい。リョーマは大食らいだからなぁ。俺と似て」
「まぁ――おかげさまで胃腸は丈夫だね」
 南次郎の台詞にリョーマが応酬する。丈夫な体は父と母からもらったものだ。そして――いるとしたら神様から。リョーマはこの環境に感謝をした。だが、リョーマは再び旅立つ。
(跡部さんも来るんだろうな。きっと――)
 跡部と会えたことも、感謝だ。彼のおかげで、テニスの楽しさを取り戻したのだから。そして、沢山の仲間達。
 跡部には悪いことしたかな、と改めて思ってみる。けれど、跡部は小さなことにはくよくよしない質らしい。例え、自慢の髪を剃られても――。
(ありがとう、皆。ありがとう――)
「お、いい顔してんな。リョーマ」
「あ、えへへ……人って一人じゃ生きられないんだなぁと思って……」
「何だよ」
 南次郎はリョーマの頭を小突いた。
「ほあら~」
 カルピンが寄って来た。そうか。このカルピンとも、またお別れしなければならないのだ。――ごめんね、カルピン。俺、薄情な飼い主だね。でも、カルピンはいつでも俺を待っていてくれたね。
「ほあら~」
「カルピン……元気でね」
「ほあら~」
 カルピンはリョーマの膝の上に座った。そんな愛猫をリョーマは撫でた。カルピンはまた、リョーマとの別れを予感したのであろう。けれど、カルピンは悲しまない。それは、少しは寂しくは思うかもしれないが。
「カルピンのことだけは心配だな……」
「なぁに。猫は人につかず、家につくって言うだろ? ――カルピンはお前がいなくたって、何とかやっていくよ」
「それはそれで複雑だな……」
「おい、リョーマ!」
 南次郎はリョーマを抱き寄せた。
「無事に帰って来い。それから、良かったらあいつのことも――思い出してやれ」
「あいつ?」
「ああ――まぁ、思い出さない方が辛くないかもしれねぇがな」
「何だよ、親父! 何か隠してるね!」
「おう、当たり前さ。親は子供に隠し事するもんさ」
「何無茶なこと言ってるんですか」
 母倫子が言った。
「全くだよ。ねぇ」
 リョーマも倫子に同意を示すように頷いた。
「ちぇっ。やっぱり母さんもリョーマの味方か」
「当たり前でしょ。父さんは普通と違うんだから」
「だって――俺はサムライ南次郎だぜ。グランドスラムも夢じゃないと言われた――そんな男が普通な訳ないだろ。俺はアメリカに夢を掴む為に出て行って、お前とリョーマに会えたんだぞ」
「越前家は仲良し家族ですものね」
 菜々子も笑いながら話題に入った。南次郎が言う。
「そんな仲良しか? 俺ら。嬉しいぜ。菜々子。まぁ、俺ら家族も人並みにいろいろあるんだけどな――」
「ええ――」
 菜々子は顔を背けて長い睫毛を伏せた。どうしたというのだろう。倫子も儚げな顔をして、それでも笑顔を作っている。
 越前家には秘密がある。
 けれど、まだ、それは明らかになる段階ではないのかもしれない。それに――リョーマはどんなにテニスが上手くとも、まだ中学生なのだ。この間、記憶喪失にもなったばかりだし。あまり刺激しないように南次郎も考えているのかもしれなかった。

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2020.09.18

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