俺様の美技に酔いな 55

 リョーマはシャコシャコと鏡を見ながら歯を磨いていた。歯磨き粉はミントの味がする。爽やかな香りなので嫌いではない。
(跡部さんと竜崎が――)
 でも、可能性がないとは言えない。男と女なのだから――。嫌だけど――俺が文句言える筋合いじゃないよね。
 跡部は女好きだ。橘杏とかいう可愛い女の子に声をかけたこともあるらしい。
(それでも俺は――嫌だな)
 リョーマの自惚れでなければ、竜崎桜乃はリョーマのことが好きなのであろう。
 リョーマはペッと唾を飛ばすと蛇口を捻って水を流した。
「ああ、おはよう。リョーマ君」
「――おはよ、おじさん」
 コーヒーの香りたつリビングのソファでケビンの父が新聞を広げていた。
「もうすぐ朝ごはんだよ」
「そうみたいだね。――いい匂い」
「今日は君が日本に帰る日だからね。ワイフも張り切ってるよ。――君の好きな和食だそうだ」
「……ありがと」
 ケビンの母は料理が得意だ。リョーマがこの家に来た時に、早速和食を覚えて、レパートリーも増やしたらしい。ケビンの母の和食は味がなかなかに繊細で、リョーマの口にも合った。一番好きなのは菜々子の作る味噌汁だけれど。
「おっす、リョーマ」
 ケビンがやって来た。リョーマより遅く目が覚めたらしい。ケビンはあくびをして目を擦る。
「ケビン――もう起きて来たの? いつもは遅いのに」
 リョーマが目を瞠りながら言った。
「なんだよ、俺がいつもねぼすけみたいじゃねーか」
「否定できないでしょ。アンタは」
 ケビンの母が言う。ケビンはきまり悪そうに頬をぽりっと掻いた。
「そりゃ、まぁ……でも、リョーマの見送りには行ってやりたいしさ。いいだろ? 親父」
「リョーマ君が『Yes』と言えばな」
「俺は構わないよ」
「リョーマ……日本に帰っても元気でな……」
 ケビンが言葉に詰まったようである。リョーマが言った。
「ケビン……泣いてるの?」
「泣いてねぇよ。……日光が、目に染みただけだ」
「目の擦り過ぎじゃない? ティッシュで拭いた方がいいよ」
「うん……ありがと……お袋、ティッシュ貸してくれ」
「はいはい。それにしても我が息子ながら素直じゃないわねぇ。リョーマが帰るのが寂しいならそういえばいいのに――」
 ケビンは涙目をティッシュで拭った。鼻も啜った。
「お前さぁ、俺のこと忘れんなよ」
「わかってるって」
 ケビンが不意に子供に見え、リョーマはケビンの頭を撫でた。
「おい、ガキ扱いすんな。――お前だって嫌だろ。そういうの」
「――そうだね。人による」
 例えば母倫子や従姉の菜々子にだったら素直に感情を出すことも出来ようが――。
 後、もう一人。
(誰だったかな――)
 リョーマは記憶を手繰り寄せた。ロサンゼルスの陽光とオレンジ。――そして、とても大切な人。
(リョーマ……)
 少し低めの声がリョーマの脳内で再生された。リョーマが記憶の中の人に尋ねる。
(あ、アンタ、誰……)
(お前がテニスを続けていたら――)
 その時、突然風が舞った。
「おい、リョーマ! 大丈夫か? リョーマ――」
 リョーマはケビンに揺さぶられる。
「う、うん……」
「突風だったな」
「ああ――」
 ケビンの父も頷く。リョーマがケビンの父に言う。
「――電話、借りていい?」
「いいけど? 親父さんにでも連絡するのか?」
「当たり」
「それはいいが、もうすぐ朝食だぞ。食べてからの方がいいんじゃないのか?」
「――ん、そうだね。お腹空いた」
 テニスの時のリョーマは身長は低いながらも相手を威圧するが、今のリョーマは年相応の表情になっている。やはり、ケビン母の作る料理が楽しみだから――母親の作る料理には敵わないとしても。
「卵豆腐、好きだったよな。リョーマ」
「うん!」
 リョーマはこくこくと首を縦に振った。ケビンの母の作る卵豆腐も結構美味しい。
「それから、アボガドのサラダ――って、これは日本にはねぇんだよな」
「ケビンの母さんの作る料理はどれも美味しいよ」
 これは、決してお世辞ばかりでもなかった。それに、和食はともかく、洋食は倫子の作るものよりケビンの母の作る料理の方が美味しい。
「別に気ぃ使わなくてもいいんだぜ。居候だって言ってもさぁ……」
「ケビン、馬鹿なこと言わないで。リョーマはいい子ね。ケビンの遊び相手になってくれてありがとうね」
「違う! リョーマは俺のライバルなんだ! そうだよな、リョーマ!」
「うーん。遊び相手でいいんじゃないの? テニスだって楽しいからやってるんだし」
「そうだぞ。テニスは楽しいからやるのが一番だ」
 ケビンの父がうんうんと頷く。新聞を広げながら。リョーマは、この人は親父とウマが合いそうだな、とこっそり思っていた。ケビンの父もリョーマの父南次郎とはライバル同士だったらしいが、それだけに共通点もあるだろう。
「御飯出来たわよ。どこで食べる?」
「俺、外で食べたい!」
 ケビンが手を挙げる。ケビンの父が渋い顔をする。
「でも、今突風があったばかりだしなぁ――」
「あ、そか……」
「俺はどっちでもいいよ」
「じゃ、テラスで食べよう。あそこには屋根があるからな」
 ケビンの父が意見をまとめた。

「ハーイ、ケビン、リョーマ、おじさんにおばさん」
 金髪のポニーテールの女性が手を挙げた。時々ケビンの家に遊びに来る人だ。大きなゴールデンレトリバーも一緒だ。リョーマはいつまで経ってもこの女性の名を覚えることが出来ない。
「おう、こっち来いよ。――よぉ、ロブ」
 ケビンが笑いながらひっくり返ったロブのお腹を撫でた。名前は覚えていなくても、動物好きに悪い人はいないのはわかる。ロブはいい匂いのする犬だ。飼い主が世話好きなのだろう。ロブがリョーマの傍に来て、舌を出しながら「撫でて」とでも言うように見つめている。リョーマはロブの頭を撫でててやる。
(みんなにカルピンのことも紹介したいな)
 まず、どうやってアメリカまで猫を連れて来ればいいのか、リョーマにはすぐには思いつかないのだが――。
 あ、そうだ。写真――。
「俺ん家では猫飼ってるんだよ」
「あら、猫。素敵ね」
「リョーマは猫派なんだ」
 ケビンが口を挟む。リョーマは犬だって好きなのに、こう決めつけられては面白くない。
「何だよ。犬派だの猫派だの、誰が決めるんだよ。そんなもん」
 リョーマは反抗的になった。いつものとげとげが生えて来た。
「そうよねぇ。私もそう思ってるの。リョーマ、私と気が合うね」
「――そうだね。ところで、アンタ、何ていう名前だっけ」
「んもう。忘れたの? ジェシカよ」
「ありがとう。ジェシカさん」
「ジェシカ。今日はリョーマが日本に帰る日なんだ」
「あら?! そうだったの?! ごめんなさい……何も用意してなくて――」
「気にしないでよ。ジェシカさん……だっけ? 俺だってアンタの名前忘れてたんだから――おあいこでしょ?」

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2020.07.23

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