俺様の美技に酔いな 53
「うぅうっうっ、えっえっえっ……」
リョーマが日本に帰ると聞いて、黒人のジェイコブが泣いている。
「泣くなよ、ジェイコブ……寂しいのはみな同じさ」
リーダー格のボビーが言う。リョーマと初めて会った時、彼らはジェイコブを虐めていた。リョーマにテニスで敗れ、心服すると、リョーマのアドバイス通りジェイコブに謝った。
「ねぇ、ジェイコブ。リョーマはのっぴきならない事情で帰ることになったのよ」
サリーが慰める。何となく、リョーマの良心が疼いた。
(まさか、コイントスで去就を決めたとは言えないし……)
リョーマは帽子のつばをいじる。けれど、ジェイコブにはボビーやサリーやテッドがいるから大丈夫だろう。
「そりゃ、俺も寂しいけどね――でも、アンタら、テニス続けるんでしょ? テニス続けてたら、また会えるよ」
「本当に?」
ジェイコブが縋るような目つきで言う。
「ほんとさ」
その時、リョーマは何かを思い出しかけたが、すぐに忘れてしまった。
(俺にはまだ、よみがえっていない記憶がある)
けれど、多分思い出すだろう。――時期が来れば。
「ジェイコブ、サリー、ボビー。テッド……テニス教えてくんない?」
三人は目を丸くして、それから大声で笑った。
「ムリムリ。あたし達の方がリョーマに教わりたいくらいだって」
サリーがきゃはははと笑いながら手をひらひらさせる。冗談がうけたので、リョーマもくすっと笑った。飛行機が空を飛んで行った。
「お帰り、リョーマ。ストリートの連中とは別れを告げて来たかい?」
スミス家に入ると、ケビンが駆けて来た。
「――ジェイコブに泣かれた」
「そりゃ泣くさ。ジェイコブはリョーマが恩人だって言ってたし」
「けれど、ボビー達がいるから……」
「――ほんとはさ、俺もアンタにゃ帰って欲しくない」
ケビンの手が震えていた。リョーマは早まったかなと思った。もう少し、ここにいたくなった。けれども、日本にも大切な人々がいるのだ。
「あ、そうだ。お袋がクッキー焼いてるんだ」
――道理でいい匂いがすると思った。ケビンの母の作るクッキーはリョーマの大好物だ。
これが食べられなくなると思うと寂しいけれど――。
コイントスでコインの裏側が出て来たこと。これが、跡部が自分を呼んでいるしるしだ。思い込みかもしれないが。
「チョコチップクッキー?」
「当たり。――リョーマが帰ると聞いて落ち込んでたけど……ほら、今は鼻歌うたってるぜ」
確かに、古き良き時代のアメリカの流行歌が聴こえる。リョーマには古過ぎて何の歌かわからない。
「ま、良かったらまた遊びに来いよ。今度は親父ももう少し時間取れると思うからさ」
「――ありがとう」
本当に、この家族を捨てて日本に行くのが正しいのか――リョーマは自問自答した。
けれど、これだけ騒いで、実はアメリカに残ります、なんて、かっこ悪いじゃないか。跡部がいなかったらどうしていたか知らないけれど。
「ありがとう、ケビン」
「ばーか。二度も言わなくていいぜ」
リョーマとケビンはお互いに肩を叩き合った。
「んで、お前、日本に帰ってどうすんの?」
「まずは、家族に会うよ」
「リョーマの親も大変だな。リョーマみたいなフラフラしたガキの面倒見てな」
「う……」
リョーマは黙った。同い年のケビンに子ども扱いされるのは癪だったが、確かにその通りなのだ。母倫子がリョーマのアメリカ行きへ反対するのへ、南次郎が、
「いいじゃねぇか。かわいい子には旅をさせよと言うだろ」
と、言って、倫子を黙らせたのだった。菜々子さんも少し心配していたらしい。――スミス家はとてもいいところだと家族に告げると、倫子も菜々子もそれはそれはほっとしたらしい。
リョーマにとって、家族と離れて暮らすのは初めてだったから――。
いや、初めてじゃない。頭の片隅でそう告げるものがある。確か、自分には兄弟がいたはずである。南次郎がこっそり教えてくれた。
(お前、覚えてないみたいだけどな――お前には兄がいるんだぞ)
自分には兄がいる。そうわかっただけで、生きていく希望も湧いてくるというものだ。兄のことを忘れるなんて、己の記憶力を疑ったりしたものだが。
記憶喪失になった拍子に、兄の記憶が抜け落ちたらしい。南次郎に訊いてみようかと思ったけれど、南次郎はあまり喋りたくない様子だった。――それもやはり、時期が来ればわかるだろう。
時の流れに乗って、リョーマはどんどん成長していく。背も少し伸びた。アメリカで大人になった部分もあると、思う。
(跡部さん――竜崎)
この二人が、リョーマにとって気になる人物だった。他にも友達やらライバルやらいっぱいいるが、この二人が最重要人物である。
二人に会うだけでも、日本に帰る甲斐はある。
(それにしても、俺って浮気性なのかな――)
何で竜崎桜乃だけで我慢が出来ないのだろう。――そりゃ、三つ編みは長すぎるしテニスは下手だし、方向音痴だけども――そんなところすら可愛いと思える。
尤も、リョーマの桜乃に対する感情は、親鳥が雛鳥を見る時に感ずるそれであろうけれど――。
(竜崎は俺がきっかけでテニス始めたって言ってくれたよな――)
それは嬉しい。だが、時にその想いは鬱陶しい。感情が錯綜する。
俺も、似たようなものだろうか――跡部さん。
跡部にとって、自分もウザがられているのではなかろうか。跡部に対する淡い恋を表に出したことはないけれど、インサイトで見抜いていたりして――。
跡部はライバルの一人なんだ――リョーマはそう言い聞かせる。自分にとって、真田や金太郎と同じ程度の存在でしかないのだ。
けれど、彼を無視することは出来ない。何人たりとも、跡部を無視することは出来ない。例え、いい感情が浮かばなかったにしても。
(リョーマ――)
低い美声が脳の中でリョーマを呼ぶ。
ここにいるよ。跡部さん。――リョーマは心で返事をする。それで、これからアンタの近くに行くよ。そんで、アンタを倒すよ。
――リョーマは拳を握った。
「ん? どうしたんだ? リョーマ」
「ケビン――」
皿のクッキーはいつの間にかなくなっていた。リョーマは寡黙なキャラで通していたので、考え事をして無口になっていたとしても、誰も何も疑わない。
「打ち合い、しない?」
「おっ、いいな。――お前と打ち合いする機会は滅多になさそうだからな。これから」
「そうかな――」
そして、その後、ケビンの予言が当たったことをリョーマは思い出すことになる――。
夕食をしたためていると、チャイムが鳴った。続いて、ノックの音。
「おやまぁ、誰かしら」
ケビンの母がおっとりと言う。
「俺、見に行ってくる」
ケビンは立ち上がって様子を見てくる。また戻ってきて、リョーマを呼ぶ。
「リョーマ。ダチどもだぜ」
「えっ?」
まさか、ジェイコブ達が? でも何で?
「ほら、早く来いよ」
ケビンがリョーマの腕を引っ張る。リョーマは半ば引きずられるままにしている。――抵抗するのが面倒くさかった為だ。
予想通り、ジェイコブ他三人が玄関に突っ立っている。緊張しているのだろう。ジェイコブが汗をかいている。
「あ、リョーマ……」
ボビーやサリー達が後ろで、(おら、早くしろ)とか、(あれ、あげちゃえば)とか、小声でジェイコブに発破をかけている。いったいどうしたというんだろう。
「リョーマ、これ、俺の初めてのバイト代で買った――」
それは、二個のテニスボールの入った容器だった。
「ジェイコブ、バイトしてんの?」
ジェイコブはこくこくと頷いた。
「ジェイコブはねぇ、子供にテニスを教えるのが上手いのよぉ。まぁ、あまりお金にはならないようだけどね……もっともらえるように交渉してもいいのに」
サリーが言った。
「俺は充分過ぎるくらいもらってるよ。――それもリョーマのおかげだ。ありがとう」
「こちらこそありがとう。大事に使わせてもらうよ」
リョーマの口元に笑みが浮かんだ。サリーがボビーやテッドとハイタッチしている。騒々しい友人達だが、悪い奴らではない。リョーマは反射的に小坂田朋香のことを思い起こした。
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2020.07.17
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