俺様の美技に酔いな 50

 リョーマはテニス部員達の焼肉パーティーの終わった夜のことを回想していた。アクシデントもあったのだが、それはそれで楽しかった。不味い汁を飲まされるのは勘弁だけど。おかげで焼肉の味がわからなくなった。
(竜崎……)
 ――跡部のことが頭から去ってから、リョーマは桜乃のことを思い出すようになっていた。今でもひょいと桜乃のちょっと困ったような顔が目に浮かんだのだ。
(乾先輩の甲羅、滅茶苦茶不味かったもんなぁ。今日のおにぎりは美味しかったけど……)
 おにぎりを不味く作る方が大変なんじゃない。
 桜乃にはそう憎まれ口は叩いたけれど、本当は嬉しかった。自分達の為におにぎりを差し入れしてくれて。梅、おかか、鮭……。食欲をそそる匂いがした。
 少なくとも、コンビニの味気ないおにぎりよりはずうっとずうっと旨かった。
(改めて礼を言った方がいいかな……あれでもスミレばあさんの孫なんだし)
 リョーマが考えあぐねていると――。
「おい、リョーマ。いるか?」
 南次郎がガチャッとリョーマの部屋の扉を開けた。
「何? 親父。ノックぐらいしてよね」
「それどこじゃねぇ! 行くぞ、リョーマ! 荷物まとめとけ! 母さんにお別れちゃんと言うんだぞ!」
「何? 離婚? 夜逃げ?」
「そうじゃねぇ。俺はお前と修行するんだ。お前、言ってただろう? 天衣無縫の極みって何かって」
「確かに言ったけど――修行って……どこ行くのさ」
「軽井沢だ!」

「親父、ここって……」
「ああ。俺のとっておきの場所だ」
 猪とか熊が出て来そうな森である。テニスに関係あるのだろうか。
「本当にここで修行するの?」
「ああ」
 南次郎は力強く頷いた。
「俺もこういうところでよく修行したもんさ」
「それって、ただ単に野生児の悪ガキだったってこと?」
「ほれ」
 南次郎がリョーマに投げて寄越したのは、木と石。今から『天衣無縫の極み』を教えてくれるのだと言う。だが、なかなか上手くいかない。テニスラケットに慣れているリョーマにとって、木の枝の急造ラケットを使いこなすのは不可能に近かった。
 南次郎はあんなに容易く打っているのに――。彼は言っていた。
(見えている外側を見ているようじゃ、まだまだだぜ――)
 親父……。
 やっとわかった気がする。天衣無縫の極み。少なくとも手掛かりは掴めた。翌日――。
 リョーマは流れる滝に向かって石を打っていた。
「おー、もう打てちゃうようになったのか……あ! あぶねぇ! リョーマ!」
 倒木が流れて来たのだ。南次郎とリョーマのコンビネーションで軌道は変えたものの、リョーマは大量の水を浴びて川に落っこちてしまった。
 意識を失ったリョーマを助けたのは南次郎だった。しかし――目が覚めた時、リョーマは父のことも、テニスのことも――そして、あんなに懐かしがっていた兄のことも全部忘れ去っていたのだった。

 ヘリを飛ばして軽井沢へ向かったのは、跡部景吾だった。忍足と桃城がついて来た。忍足は跡部に無理矢理連れて来られたようだが。
「あの……どなたですか?」
「何だ、越前。俺様を坊主頭にしといてもう忘れちまったのか?」
 ――跡部が被っていたかつらを脱いだ。
「あ……」
「どうだ? 思い出したか?」
「あなたは――すごく澄んだ目をしていますね」
 リョーマの台詞に、跡部は苦笑する。
「そうかい。ありがとよ」
「それから――髪型も似合ってます」
「お前がこんな風にしたんじゃねぇか。……まぁ、誉め言葉として受け取っとくぜ。どんな髪型にしても、俺様は俺様だからな」
「滝もこんなヤツ庇おうとすることなかったんや。気持ちはわかるけどな」
 忍足侑士がこつんと跡部の頭を叩く。
「おまけに樺地まで坊主頭や」
 リョーマは少しムッとした。
「――あなた、誰ですか?」
「俺は忍足侑士。こいつにナビゲーターとして連れて来られた」
 リョーマはじーっと警戒心を剥き出しにして忍足を見つめた。
「――あなたは嫌いです」
「はぁ? 何言っとるんや。俺、何や嫌われるようなことしたか?」
「いいえ――だけど、嫌いです」
「おい、桃城、助けてくれ。こいつの三白眼怖いんやけど」
 おろおろする忍足に桃城が吹き出した。
「俺は――桃城武だ。俺のことは覚えているかい?」
「いいえ。でも、あなたはとても感じの良い人に見えます」
「ほんとかー。こう見えても俺は青学のくせものって呼ばれてるんだぜ」
「ほんとですか?!」
「ちぇっ。ええなぁ……跡部も桃城も。越前に好かれて……。俺だけぼっちやで。ああ、世間の風が寒い……」
「何落ち込んでんだよ。らしくもねぇ。行くぞ。忍足」
「忍足さん、そんなにしょげないでください。越前に嫌われたぐらいで」
「お前さん方、嫌われてないからそんなこと言えるんやで。俺は仲間はずれなんや……」
「あの……僕はこれからどこへ……」
「決まってるだろ」
 跡部が答えた。
「お前に一番相応しいところへ連れて行くのさ」
 ――それが、全国大会の開催場所であったという訳である。

 テニスを見ても、リョーマの記憶喪失は治らなかった。
 記憶を失ったリョーマは素直だし、謙虚だし――およそ、今までのリョーマが見せていた性格とは真逆のキャラクターである。
 けれど、皆は、記憶を喪失する前のリョーマが好きだし、生意気な言動にも拘わらず、人に愛され続けていた。
 桃城は、今のリョーマを見かねたらしい。
 越前リョーマはテニスは上手いが態度はでかい。けれど、どことなく可愛げがあって、生意気が信条。それが、皆のテニスの王子様。
 リョーマの元に、かつての対戦相手達が駆けつけて来た。――真田弦一郎、そして跡部も。
「リョーマ、記憶を治すの、手伝ってやるぜ!」
 美声が響く。この声は――どこかで聞いたような気が……。いや、先程も聞いたけど。
 何だろう……懐かしい、慕わしい声。
「跡部さん?!」
「ん? 何だ?」
「跡部さんもテニスプレイヤーだったのですか?」
「あー、そうだよ」
 一気にどっと疲れが出たのか、跡部はおざなりに答えた。
「今、あの生意気だった王子様に戻してやるよ。素直ないい子の越前なんて越前じゃねぇ」
 さらっと失礼なことを言われた気もするが――。リョーマは頷いた。
「はいっ!」

 結果から言うと――越前リョーマは立海大附属の幸村精市に勝った。全国大会は、青春学園の優勝で幕を下ろした。皆はリョーマを胴上げした。ちびだから軽いとかそういう理由ではない。青学優勝の立役者だからだ。
 リョーマは純粋にテニスを楽しんだ。それが『天衣無縫の極み』だと、南次郎は言う。小さい頃は楽しくて仕方がなかったテニス。だが、いつからかミスを恐れて安全なテニスを選ぶようになる。天衣無縫を恐れるようになる。けれど、本当は誰だって天衣無縫になれるのだ。
「リョーマくん……」
「竜崎……さっき何か言いかけたよね」
 リョーマは幸村との試合前、竜崎桜乃にも会っていた。その時は倒したいヤツがいるから後にしてくれと言ったのだ。
「うん……でも、忘れちゃった」
「ふぅん」
 リョーマは遠くに目を遣った。その様は海の向こうの彼方の国でも見晴るかすかのようであった。その三日後、リョーマは跡部に連絡先を教えてアメリカへ旅立ってしまうのである――。

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2020.06.13

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