俺様の美技に酔いな 5

「手塚部長、話があります」
「何だ、越前……」
 手塚は一見普通通りに見える。けれど、ほんのちょっとした異変を桃城は嗅ぎ取ったのだ。野性の勘と知恵で。
(桃先輩、意外と凄いかも……)
 リョーマの中で桃城に対する新たな尊敬の念が芽生えた。
「さっきの図書館のことですけど……気にしないでください。あれは、俺が気持ちを昂らせていたのを不二先輩がなだめてくれただけだから――」
「そうか……」
 今度はリョーマにもわかる。手塚は明らかにほっとしたようだった。リョーマはにっと笑った。
「ですから、俺のことをライバルだなんて思わないでください」
「――部員同士はライバルだろう? ランキング戦があるからな」
「わかりましたっす」
 リョーマは被っていた帽子を整えた。
「さぁ、アップ終えた者からランニング行くぞー」
「手塚。ランニングでビリになった者は新作乾汁。どうだ?」
「良かろう」
「うはー、勘弁」
 リョーマ達は皆閉口した。しかし、どうして乾貞治という男は、乾汁作成とデータ収集に命を賭けるのだか。データはともかく。
「おい、早くしろ」
 ふしゅ~、と息を吐きながら海堂薫が言う。「はーい」と一年生達が返事をした。――アップを終えたリョーマはいつも通りマイペースで走って行く。
 今日こそ抜かしてやるとばかりに二年の荒井将史がムキになってリョーマの後を追う。――無理しても疲れるだけなのに、と密かにリョーマは思う。実力は誰がどう見ても荒井よりリョーマの方が上だ。
(ま、いっか。頑張ってくださいよ。先輩)
 リョーマは心の中で舌を出しつつも刺激しないように淡々と走る。いつもの自分に戻ってきたような気がする。そういう意味では荒井に感謝だ。
 それにしても、手塚と不二が両思いとは――いや、両片思いか。周知の事実ではありそうだが、お互いに気付いていないなら放っておこう。いつか、お互いに告白する時期が来るまで――。
 これでもリョーマなりに応援はしているのである。それに、リョーマ自身も自分のことで大変なのだ。
 テニスでは敵なしと言われるスーパールーキーも恋に対しては免疫がないのだ。
「八百屋お七、か――」
 リョーマがぼそっと呟く。精々、お七の最期のことだけは肝に銘じておこう。そして、不二の言う通り、後でネットで調べてみようと思った。

「――あら、リョーマさん、お帰りなさい」
 菜々子が出迎えてくれた。
「ただいま、菜々子さん」
 リョーマは被っていた帽子を外す。ちょっと目立つようにといつも被っている白い帽子だ。
「菜々子さんもさぁ、家政婦じゃないんだからもっとくだけた言い方でいいのに」
「あら、リョーマさんたら、面白いこと言うわねぇ」
 ふふっ、と菜々子が笑う。ダメだ。この人、天然だ。
「――まだまだだね」
「リョーマさん、御飯が出来てるけど」
 そういえば、帰りがちょっと遅くなってしまった。宿題もあるけど後回しにしよう。
「サンキュー、菜々子さん、母さんにも宜しく」
「はいはい」
 ――まだまだだね。俺も菜々子さんには気を使っているし。そう、リョーマは思った。
「カルピン、帰ったよ」
「ほあら~」
「じゃ、俺、部屋に戻るから。御飯は後で」
「わかったわ」
 菜々子が頷いた。
「おう、青少年、久しぶりに勉強か?」
 ――久しぶりには余計だ。
「テニス、やらねぇか」
「――そうだね。忘れてた」
「何だ? テニス馬鹿のお前さんがテニスを忘れるだなんて――やっぱり、恋をしたってのは本当か?」
 見抜かれたような気がして、リョーマはドキッとした。
「そ、そんな、恋したからって……」
「相手が男でも、父さん気にしないぞ。これでも理解はあるつもりなんだから。――まぁ、お前は母さんみたいないい女には滅多に巡り合えないと思っていたが。――そうだ。スミレばあさんの孫をどう思う?」
「どう思うって……竜崎はただの友達だし……」
「ばあさんに似ず、可憐な大人しい子って噂だぞ。気にしてる奴も随分いるとか」
「詳しいね」
「まぁ、そこは、母校のことだからな。実はばあさんに聞いたんだ。『桜乃はあたしに似ず引っ込み思案だから彼氏が出来るかどうか心配だよ。結構モテんのにねぇ』って。でも、お前といる時には明るい顔をしてたそうじゃないか」
「そうなの?」
 リョーマは桜乃のことを全然知らない。再会した時だって、当初は忘れていたぐらいだ。それ程まで、桜乃には自己主張というものがなかった。確かに三つ編みは長過ぎるくらい長いけど。
(ああいうの、好きな男もいるんだよな)
 リョーマには全然ピンと来なかった。
 桜乃と付き合った方が幸せかもしれない。跡部のことなんか忘れて――。桜乃は可愛いし。でも、周りの男が放っておかないだろう。このまま行って竜崎スミレ――テニス部顧問のばあさんに似てしまわないとも限らない。
「もう、おじ様ったら!」
 菜々子が叫んだ。
「リョーマさんは勉強があるの。そうでしょ? リョーマさん」
「うん。――でも、後ででいいや。親父、付き合ってやるよ」
 テニスで倒したい相手も新たに見つかったことだし。
「おう、そう来なくっちゃ。勉強も大事だが、恋のレッスンやテニスで体を動かすことはもっと大事だぞ」
 恋のレッスンは果たして関係あるのだろうか。命短し恋せよ乙女とか何とか言いたいのだろうか。
「命短し恋せよ乙女って、なぁ――おっと、お前は野郎だったな。菜々子とかは好きな相手いるのか?」
「わ、私? 私は全然――」
「なっさけねぇなぁ、どいつもこいつも。おら、菜々子。お前はいい女なんだからもっと自信持て」
「か……簡単に言わないでくださいよぉ……」
「たく、誰に似たんだか。恋に縁遠い奴らばっかだな。俺の若い頃は女なんてとっかえひっかえ――おっと、これは母さんには内緒な。今は母さん一筋なんだからな。これでも」
「あら。おじ様ったら、エッチな本はよく読んでるじゃありませんか」
「アメリカ時代の巨乳ちゃんを思い出すとよぉ、やっぱりこう――欲求不満がな……」
「――母さんに言ってやろうっと」
 リョーマはぼそっと呟いた。勿論本気ではない。南次郎のことで母が怒るとリョーマ達にもとばっちりが来るのだ。冗談じゃない。――菜々子は案外平気みたいだが。
 女は図太い。菜々子のような大和撫子のような女性であってもだ。
 リョーマが溜息を吐いた。
「ま、とにかく、今はテニスに付き合ってやるから外出よ」
「ハンデは?」
「いらない。――とにかく強くなりたいからね」
「おっ、ライバル出現か?」
「まぁね」
「そいつが恋の相手じゃねぇだろうな」
「――勝手に言ってれば」
 南次郎も案外鋭い。本人は冗談半分に言ったつもりだろうが、実は真実を突いている。跡部景吾に勝たなければ――リョーマの頭の中はそれしかなかった。

「ふぅん。八百屋お七って実際にあった事件が元なのか――」
 テニスを終え、食事を済ませたリョーマはパソコンの前に陣取る。デスクとお腹の間にカルピンが丸まっている。越前家のアイドルのヒマラヤンだ。海堂が密かに狙っている(?)猫でもある。
 八百屋お七は歌舞伎や浄瑠璃にもなっている。昔の人も何故か惹きつけられたのだろう。
 叶わぬ恋と知りながら――。
 不二も、恐らく惹きつけられた一人だ。それは決して故ないことではない。テニスと手塚への恋心の狭間で不二も苦労しているのだろう。
「不二先輩に、話してみようかな――」
 カルピンが「ほあら~」と鳴いた。
「今は、止めた方がいいか……」
 リョーマはからりと窓を開けた。涼しい風が入って来る。気持ちいい。
 ――都大会も近付いて来ていた。決して、跡部にだけは負けたくないと、リョーマは強く強く願った。例え、今日も南次郎に負けてしまっていたとしたって――南次郎も選ばれたテニスプレーヤーであったのは伊達ではないのだ。そして、リョーマの最終的な目標でもある。サムライと呼ばれた男、越前南次郎は。

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2018.12.09

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