俺様の美技に酔いな 45

「ふー……いい気持ち」
 シャボンの匂いが風呂場全体に溢れている。今度は恥ずかしいことにならずに済んだ。
「リョーマさん、髪も洗ったの? 乾かさなきゃ」
「え? いいよ」
「まぁまぁ。任せてくれる?」
 越前菜々子――この八歳上の従姉にはリョーマは逆らえない。
「そこに座って」
 菜々子は座布団を指差す。ドライヤーで髪を乾かしてくれる。優しい指。女の人の指というのは、皆こうなんだろうか。
 リョーマはだんだんうとうとして来た。同じ部屋で南次郎が咥え煙草で新聞を広げている(本当は何を読んでいるのかは謎だが)。
 菜々子がリョーマの髪を梳いてくれる。
「はい。いい男の出来上がり」
 菜々子が綺麗な笑顔を見せた。だから、リョーマもつい、
「どうも」
 なんて言ってしまう。
「おい、菜々子。そいつはまだガキだ」
「自分が俺にガキでいて欲しいだけじゃん」
 南次郎にリョーマが噛みついた。
「――違いねぇ」
 南次郎はわりとあっさりと引き下がった。菜々子は鏡を持ってきて、リョーマに見せてくれた。大きなアーモンドアイ。まぁ、可愛いんだろうな、とは思う。目つきは悪いかもしれないけれど。
(俺はまだガキだ――)
 大きな目は子供みたい。誰かに女顔だって言われたことがあるけれど、本当にそうだ。声変わりだってしていない。
(越前リョーマって可愛い顔してるよな)
 三年にそう噂されて怖気が走った記憶もある。
 だからかもしれない。殊更生意気に振舞うのは。レギュラー達も、一部の例外を除いて、可愛がってくれる。
(跡部さんはどうだったのかな――手塚部長の写真は見たことあるけど。……手塚部長も可愛かったな)
 ぷぷっ、とリョーマは笑った。南次郎がぎょっとした顔をした。
「あら、どうしたの? おじ様。さては、またエッチな本隠してたわね」
「う……どうしてわかった。……母さんには内緒だぞ」
「おば様もわかってると思うけどねぇ」
 菜々子が溜息を吐いた。別に南次郎が何を読もうと知ったことではないけれど。
(俺はエロ本よりテニスの方がいいや)
 テニス一筋のリョーマは、テニスとエロの二刀流の南次郎を本当に理解することは出来ない。けれど、多分南次郎の血だろうか。恋しい人のことを考えると、思わず反応しそうになる。
(俺、早熟なのかな――)
 でも、小五で精通を迎えたヤツだっているし、いつもエッチな話題で盛り上がってたグループもあったし――。
 自分だけがアブノーマルだなんて、考えるのよそう。
 そうだ。自分だけが跡部に惚れてるなんて――いつか跡部も自分に惚れさせてみたい。でも、こんな女顔じゃ……。
 リョーマは鏡を割りたくなった。実行には移さなかったが。
「菜々子さん、これ、片付けといて」
 リョーマは鏡を菜々子に渡した。
「はいはい」
 菜々子は居間を後にした。
「よう、今日は楽しかったな」
「――まぁね」
「跡部っていうヤツ、面白そうなヤツだったな」
「――そうだね」
 跡部の名前を不意に訊いても、驚きも挙動不審になりもしなかった。鉄壁のポーカーフェイスをリョーマは自分で称えたい。
「――お前、あいつを倒したいか?」
「勿論」
 今度は即答してやった。
「でも――関東大会では無理だろうな。――手塚というヤツがいるからな。俺の勘では、跡部は手塚と当たるだろう」
「…………」
「で、お前は補欠だな。バアさんも多分そういうオーダーにするだろう」
「――どうしてわかるの?」
「お前は一年だし――それに、手塚は強い。お前、あいつに敗けただろ」
「――何で知ってるの?」
 リョーマは手塚との試合の結果を南次郎に知らせていなかった。
「お前、ムキになってたもんなぁ。手塚が強いのは俺にもわかったしな」
(……にゃろう)
 南次郎にはお見通しという訳か。伊達にリョーマの父親はやっていないらしい。リョーマがなんと答えたらいいか考えあぐねていると――。
「まぁさ――お前、強くなってるよ。どんどん。中学生っつーのは成長が早いな」
 南次郎がリョーマに近づき、肩に手を置いた。煙草の煙がリョーマの目に染みる。
「親父――けむい」
「おー、悪かったな。でも、いつか煙草の味を知る日も来るぜ。お前にも」
 そんな日は来なくてもいい、とリョーマは思った。
「駄目よ。父さん。リョーマにそんなこと教えちゃあ」
「ははは、悪い悪い」
 南次郎はどこまで行っても妻に敵わないらしい。
「夕食の時間よ。――菜々子さん、いつも手伝ってもらって悪いわね」
「はい。リョーマさん。いっぱい食べてね」
 菜々子はいつの間にか台所に行っていたらしい。まぐとろ丼と味噌汁と水菜のおひたしが運ばれて来た。南次郎がぎゅっと灰皿に煙草を押し付ける。
「おー来た来た。いただきまーす!」
 南次郎は女好きなだけでなく、大食漢というやつでもある。リョーマも大食いの自覚はあるが、乾汁だけは勘弁と思っている。南次郎がぱきっと割り箸を割った。
 とろろのかかったマグロ。そして、うずらの卵が乗っている。リョーマと南次郎は好きなだけ醤油をかけた。
「このとろろの食感がうめーんだよな」
「べたべたの口で話さないでくれる?」
「お前こそ」
 南次郎とリョーマが言い合う。
「おじ様もリョーマさんも人のことは言えないと思うわ……」
 菜々子は些か呆れ顔だ。リョーマは一旦飲み込んでから、菜々子の方に顔を向けた。
「そういえばさ、菜々子さんて、いつからか『リョーマさん』て呼ぶようになったよね。俺のこと。何でなの?」
「リョーマさんが大人になったからよ。それに、おじ様とおば様の息子ですもの」
「ふぅん……」
 そういえば、今まで気にも留めていなかったが、菜々子は昔は『リョーマくん』と呼んでいたのに、いつの間にか『リョーマさん』に変化していた。
 ――まぁ、どうでもいいや。丼をかきこんで、リョーマは夢中で咀嚼する。
「うめぇな。母さん」
「ありがとう。あなた」
 倫子も嬉しそうに笑う。
「菜々子さんが仕上げをやってくれたのよ」
「おば様が殆ど作ったんだけれど――。花嫁修業として、これからもおば様にお料理習わせてもらいますね」
「菜々子さんはいい子ね。本当に父さんと同じ遺伝子があるのかしら」
 越前菜々子はリョーマの父方の従姉である。
「うん。俺、菜々子さんは母方の家の人間だと思ってた」
「おいー。母さんにリョーマ。それはないだろう。それに、若い頃の母さんは結構おはねだったんだぜ。『死にさらせ!』とか叫んで」
「あなたがセクハラするからでしょう!」
 南次郎と倫子がぎゃあぎゃあ言う。倫子も怒ると怖い。菜々子は、二人の痴話喧嘩を眺めながら苦笑していた。
(菜々子さんは、本当に父さんの姪なんだろうか……)
 けれど、菜々子は嫌な顔ひとつせず、自分達家族に付き合ってくれている。結構神経は太いのかもしれない。それに、ああ、この人も確かに越前家の血を引いている――そう思うこともある。
(跡部さんには菜々子さんは紹介したくないな――)
 だが、菜々子を取られる心配はしなくていいのだと気が付いた。菜々子はきっと跡部より樺地の方が好みだろうから。
 でも、思わず気になってしまう。菜々子がいい女過ぎるのが悪いのだ。――相手が樺地でも跡部でも、菜々子を取られるのは嫌だ。菜々子はずっとリョーマの姉代わりだったのだから。

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2020.04.14

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