俺様の美技に酔いな 39

「あっ、いけね。そういやそろそろだ。――なぁ、越前。お前の大好きな英語の授業が待ってるぜ」
 堀尾がにやりと笑う。
「別に大好きって訳じゃないんだけど……」
「だよなー、お前、寝てたもんなー。それなのに英語の実力は高口先生もたじたじだったし。あれは見てて面白かったぜー。ちょっと驚いたけど」
「――ロスに何年かいたから……」
「うわー、自慢かよ。それ」
 堀尾は頭を抱えながらぶんぶんと首を振った。本人も結構テニススクールだの英会話教室だのと自慢をしていてもである。
「ロサンゼルスには行ったことあんだけどなー。旅行で」
 堀尾がまた自慢する。けれど、幸せな家庭に生まれたのであろう。本人は明るいムードメーカーのつもりでも、カツオやカチローには呆れられていたが。――けれど、堀尾のいないテニス部はどこか寂しいであろう。
 喉乾いたな――Pontaグレープ味の匂いが懐かしい。
 ――リョーマは堀尾のことを相手にしていなかった。大好物の炭酸飲料のことを考えていた。御飯のことばかり考えているカルピンと大差ない。Pontaは子供の頃から好きであった。例え体に良くなくても。
「俺、めぼしいヤツら呼んだから」
 勝手に堀尾はLINEに情報を流したらしい。
 ――その日、リョーマのスマホはLINEのせいでうるさく鳴った。英語教師の高口は怒った。そもそも授業中にスマホは校則で禁止されている。リョーマはマナーモードにするのを忘れていたのだ。
 リョーマはスマホを取り上げられた挙句、廊下に立たされた。
(悪いのは堀尾なのに……)
 マナーモードにしていなかったリョーマにも落ち度はあったのだが。しかし、堀尾を逆恨みしている訳でもなく、一人になれる時間はリョーマにとってありがたかった。友達とわいわい騒ぐのもいいが、一人で考えに耽っていたい時もある。
(まぁ、一年の英語なら、授業なしでも喋れるもんね……)
 リョーマはあくまでマイペースだった。
(カルピンがいるといいんだけど)
 あのモフモフの毛皮に顔を埋めたかった。猫特有の匂いを嗅ぎたかった。猫はあんまり体臭はしないのだが、カルピンの毛皮にはシャンプーの匂いも微かに混ざっている。
 ぽっかり浮かんだ雲を見ていると、テニスのことも関東大会のことも――跡部のことも忘れてしまいそうになる。
 リョーマはあくびをひとつした。
 平和だなぁ……。
 高口の声が聴こえる。隣のクラスからも、井村女史の声が響く。
(井村先生……ほんとにテニスに興味あんのかな?)
 だったら、いつも数学を教えてくれる恩返しにテニスを教えてもいいな、とリョーマは思った。
 尤も、数学とリョーマの相性があまり良くないように、井村とテニスの相性もあまり良くないのではないだろうか――人間得手不得手があるのだから。
(まぁ、テニス人口が増えるといいよね。……ちびっこだった生徒が強い敵に育ってくれたら楽しいし)
 それに――テニスのおかげで跡部に会えた。直接引きあわせてくれたのは岬先輩だったが。
(あ、跡部さんがいた……)
 強い敵。跡部景吾。お金持ち学校の生徒会長にして、テニス部の部長。
 跡部さん――あなたの美技を打ち破ります。例え、今回機会がなくとも、俺は必ずアンタと戦います。
 やはり自分は八百屋お七かもしれない――リョーマはそう考える。お七は放火して刑に処せられたが、リョーマはテニスで跡部を負かす。
 そして――いつか必ずあの人を手に入れる。
 例え望みは少なくとも――。
 俺だって、青学の柱になるんだ。
 どうして青学の柱に手塚が自分を選んでくれたのか、リョーマは知らない。ただ、青学の柱に選ばれたのは不二でも桃城でも海堂でもなく、この自分、越前リョーマだった。
 俺は――青学の柱の役割を全うしますよ。でなければ、跡部さん――サル山の大将に合わす顔がないもん。
 サル山の大将とはいえ、大将は大将だ。多分、氷帝の生徒の誰より偉い。
 そして――跡部はその器なんだ。
 あの時――。
 ストリートテニス場で見た跡部の目。燃えるような目だった。まるで、初めてリョーマが彼を見た時のように――。
『俺様の美技に酔いな!』
 そう言った跡部の目も燃えていた。
 しかし、あの時――というのは、初めて彼を見た時のことではなく、それは、ストリートのテニスコートでのことだが――跡部は平静を保っていたが、目が裏切っていた。
 跡部はリョーマの才能を見抜いたのだ。岬が教えてくれた、インサイト――跡部の持つ特殊能力で。
 二人の間には静かに火花が散った。そしてあの時、帰り際になんか言っていたが、要するに跡部は逃げたのだ。――それは正しかったと思う。リョーマと戦ったら、跡部もただでは済まないから。というか、リョーマがただでは済まさなかったから。
(……にゃろう)
 リョーマは密かに毒づいた。リョーマの心に点った、それは小さな怒り。
 俺は関東大会でアンタを倒す!
 跡部さん、いや、サル山の大将! アンタは関東大会で俺達青学を完膚なきまでに倒すと言ったが、倒されるのはアンタらの方だ!
 そして――そして……。
 リョーマはそれを認めるのが密かに怖かった。けれど、認めないのは、もっと、怖い。
 越前リョーマはいつも、いつでも己に忠実に生きてきた。だから、認めよう。
 アンタの美技に――酔いたい。
 あの戦いの時――岬に連れられて行った時には、正直、あの台詞と燃える目しか印象に残らなかった。だから――アンタと戦いたかった。だのに、アンタは逃げた。
 戦ってよ! 俺をただの一年だと思っていたら大間違いなんだからね!
 俺は――青学の柱なんだから!
 そりゃ今は手塚部長にも敵わないけど――俺は、全身全霊をかけて、アンタを倒す!
 リョーマはぐっと拳を握った。
 アンタのその命、背負っているもの、俺が――貰う。
 リョーマが密かに決意した時だった。
「大変大変」
 パタパタと花沢先生がリョーマの前を走って行った。
「……花沢先生?」
「あら、越前くん」
「どうしたんですか?」
「国語のプリント忘れてて――『チグリスとユーフラテス』に関する」
「『チグリスとユーフラテス』?」
 花沢は国語の先生だったはず。何で歴史用語が? 地理用語でもあるけれど。
「ああ。新井素子の小説よ。越前くん知ってる? 新井素子」
「え、ええ、まぁ。名前だけは」
 ――確か少女小説家だったかSF作家だったか。それが国語の授業と何の関係が?
「私ね、新井素子のファンなの。で、その小説を題材に授業しようと思ったんだけど、恐ろしく深くって。――で、何とかまとめたんだけど、そのプリント、職員室に置いて来てしまって」
「あっそ。頑張ってね」
「うん。――あのね、越前くん……君が出したお七に関するレポート、面白かったわよ」
「……読んだんだ」
「うん。お七には……命を賭けられる対象が吉三しかなかったのね。お七の情熱が江戸の町を焼いたのよ。――で、越前くんの意見を読んだ時に、何かに似てるなぁって。情熱――生きがい――いや、違うわ。そう……命を賭けられるものを見つけ出す前の、ルナちゃんに似てるなぁって思って」
「――ルナちゃん?」
「ああ。『チグリスとユーフラテス』……長いなこの題名――に出ていた主人公のお話よ。皆で三日間、ルナちゃんの成長について考えようと思って。これは勿論、教科書には載ってない。だから、いわば特別授業よね。そんなことより受験や塾の勉強を優先したい人はどうぞご自由に。――自力で図書館で勉強してもらうことになるわね。まぁ、自習と同じなの。それでも授業にはちゃんと出たことにするからって」
「――職権乱用」
「あはは、違いない。でも、私にとってはとてもやりたい授業なの。それを思いつくことが出来たのは越前くんのおかげ。だから、ありがとうね」
「いいえ……」
「越前くんにはテニスがあって良かったわね」
 そう言って花沢はにこっ。もういい歳だろうに、少女の面影が、その女性教師の笑みにはあった。そういうところでは、少し井村女史に似ているかもしれない。井村は怒ると怖いと評判だが。
「あ、じゃあ、テニス頑張ってね。じゃあ、また」
 花沢に置いて行かれ、リョーマはぽかんとしていた。
 廊下に立たされていること、訊かないんだ、花沢先生。
(全く――うちの女性教師は読めない人ばかりだよ)
 リョーマは帽子を直そうとして、それがないのに気づく。トレードマークの帽子は、今は部室に置いてきてある。流石に授業中に帽子もないだろうから。
(まだまだだね。俺)
 少し、花沢の登場で動揺したらしい。まぁいい。仕切り直しだ。
 青学は、関東大会で優勝する!
 それには、神奈川の立海大にも勝たないといけないけれど――まずは氷帝戦だ!
 昨年都大会決勝で青学は氷帝に負けている。今年は何としても勝ち星を取りたいところだろう。
(バアさんもやたら張り切ってるしね)
 そして、リョーマも柱としての責任を全うしたい。例え今は手塚部長に敵わなくても、いつかは追い越してみせる。
 今はすっかり落ち着いた雰囲気になってしまった手塚部長。年齢を詐称しているんじゃないかとまで噂される、青学の頼りになる部長も、まだ経験不足で自分の未熟さを自覚することがあったはず。それは『若い』ということだ。今だって十分若いけれど。
 中一の頃の手塚はどうだったのか――いずれスミレや不二に訊いてみたいとリョーマは思った。

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2020.02.03

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