俺様の美技に酔いな 32

 リョーマの子供の時の記憶。
 菜々子はリョーマを連れ歩く度にナンパされ――子連れであるにも関わらず――その都度断っていた。
「もういいよ。菜々子さん、オレと一緒じゃない方がいいよ」
 そう言った時、菜々子は言ったものだ。
「あら、私、リョーマくんと散歩に行くのが楽しいのよ」
 髪はさらさら小夜子ヘアー。睫毛が長くて白い帽子の似合った菜々子。きっと菜々子は自分を好きだ。そう思っていたのに――。
「菜々子さん……もしかしてナンパ防止の為に俺を連れ回していたとか?」
 リョーマは自分がさぞ恨めしそうな表情をしているだろうと思った。菜々子が長い髪を耳にかける。その髪からはリョーマと同じシャンプーの香りがする。
「そうねぇ……そういう側面もあるかも。ごめんね」
 菜々子はぺろりと舌を出す。リョーマが溜息を出す。
「ま、いいけどね、それはもう――」
 リョーマにも跡部がいるから。菜々子の気持ちはわからないでもない。けれど――これは禁断の恋なのだ。いや、そこまでオーバーではなくとも、成就するのが難しい恋と言おうか。
「リョーマさんはあの人のことを何か知っているのね」
「う……」
 そんな寂しげな顔されては、言わずにおられなくなるではないか。
「でも、いいわ。理由がありそうだから」
 ――菜々子は越前家の皆のプライバシーを尊重してくれる。だから、一緒に住むことが出来るのだ。
 ひとつだけ、菜々子の抱いた謎を解いてやろうと思った。
「菜々子さん――あの人は樺地というんですよ」
「樺地さん……」
 菜々子はぽぽぽと赤面した。
 初々しいなぁ、とリョーマは思った。夢の中でも跡部を汚した自分とは正反対だ。
 それからもうひとつ。
「樺地さんはきっと菜々子さんより年下ですよ」
「それは――私、樺地さんが好きだから年齢なんてどうだっていいのよ」
「ふぅん……」
 言わなきゃ良かったかな――リョーマは後悔した。跡部に会う前のリョーマだったら、絶対言わなかったはずだ。
 菜々子にも、秘密を抱えるものの重さを味わわせてしまうことになる。でも、リョーマはこう言わずにはおれなかった。
「親父には、内緒にしといた方がいいよ。――それから樺地さん本人にも」
「――わかったわ。私は――想っているだけで幸せだから。愛情からでも、樺地さんに負担をかけたくないもの」
「じゃ、そろそろ行くね。ご馳走様」
「はぁい」
「あん……だめ、そこぉ……」
 南次郎の喘ぎが聞こえてくるが、リョーマは無視した。
「あら、あなた、リョーマが来るわ。部屋に行きましょ」
「そうだな。部屋でしっぽりと――愛してる、倫子」
 父が羨ましい。リョーマはそう思った。さっきはああはなるまいと思ったが。
(愛してる、跡部さん――)
 そう言って、腕を広げられればどんなにいいだろう。だが――。
「ほあら~」
 リョーマを待っていたのはすっかり両親達に存在を忘れ去られていたヒマラヤンのカルピンだった。リョーマは悲哀を込めてカルピンの頭を撫でる。カルピンだけは、自分を裏切らない。
「行ってくるね。カルピン。――ろくでもない大人どもはほっといて」
 だが、リョーマもそのろくでもない大人に育てられてきたのだ。それに、人それぞれに自由があることはいいことなのだろう。多分。
 越前家は些か自由過ぎるきらいもないではないが。
(後で跡部さんのこと、調べてみるか――)
 乾に訊くか――だが、藪蛇になっては困る。乾は決して汁だけの男ではない。データを元に真実を看破する力も持っているのだ。そんな乾に相談を求めるのは憚られた。
(とすると、後は不二先輩か――)
 不二周助。彼になら言ってもいいと思った。八百屋お七の秘密を知っている者同士。リョーマが一方的にそう思っているだけかもしれないけれど。
 ――その時、大きな声がした。「えちぜーん!」と。
「おはよう桃先輩」
「今日はランキング戦だぜ。腕が鳴るなぁ」
 桃城は張り切っていた。だが、彼に待ち受けていたのは、非情な運命だった。
 ――桃城は、レギュラーの座から落ちた。

「桃ちゃん先輩。もう三日も来ないよ」
「そうだな。テニス部もう辞めたかも」
「堀尾くん! 言っていいことと悪いことがあるよ! そんなにへらへら笑って――」
 カチローは、父親が佐々部の親父に筋をびしっと通したのを見てから、何だか強くなりつつある。
「だって――桃ちゃん先輩がいなくなれば、俺の分もレギュラーの座が――いえすんません……」
 堀尾が急いで謝ったのは、大石がぎろりとこちらを睨んだからだ。大石は桃城のことを心配しているのだ。――優しい、先輩なのだ。
「ね、リョーマくん。桃ちゃん先輩、帰ってくるよね」
「さぁね」
「り、リョーマくん……あんなに仲が良かったのに」
 仲が良かったからこそ、リョーマはこう言う。
「ほうっとけば?」
 きっと、桃城にとってそれが一番いいはず。桃城はレギュラージャージを畳んだと聞く。だが、それで諦めるようなタマじゃない。
 青学のくせものの名は伊達じゃない。
(それに――桃先輩も化け物だからな……)
 乾のデータテニスの前に敗北したが、それで終わる男ではないのだ。桃城武という男は。
(ほっとくのが一番だね)
 リョーマは悠々と部活のテニスコートに入って行った。
「あ、井村先生」
「やっほー。リョーマくんの雄姿、撮りに来たわよ。その後勿論、練習で汗を流してテニスの勉強をする」
 人のことだとは思いながらも、いつ授業の準備するんだろうとリョーマは思った。校長から目をつけられないだろうか。
「でも、桃城くんがいないのは寂しいわねぇ。あのムードメーカーが」
「――ますよ」
「え?」
「そのうち帰って来ますよって言ったんです!」
 断言するリョーマに井村は瞳を輝かせた。
「じゃあ、リョーマくんは信じてるのね。桃城くんのことを」
「桃先輩のこともそうですが――テニスを一度知ったらやめられなくなると思いましてね」
「――いい子ね。越前くん」
 井村はリョーマの頭を帽子越しに撫で繰り回す。
「でも、乾くんは頑張ったわよねぇ。――レギュラー全員のデータ取って何倍もの練習でしょ? よく続くわねぇ」
「――井村先生も正直しつこいと思います。俺、テニスやらない方がいいって忠告したのに」
「ふふ。そういえば言ったわね。越前くん。でも、私、あれで火が点いてしまったのよ。スミレ先生にでも習おうかと考えていたところよ」
「――竜崎先生は忙しいでしょう」
「そうね。どうしようかしら……花沢先生も誘おうかしら。先生達でテニス同好会作って――越前くん?」
 リョーマは井村を置いてすたすた歩く。みんな心配のし過ぎなのだ。――そう思うのは、リョーマが桃城の行き先を知っているからである。
 桃城が今時分行くところと言ったら、あそこしかない。ダブルス専門のストリートテニス場――。
 何であそこしかないと思ったのか――それは、リョーマが桃城であっても、そこに行くはずだとわかっていたからである。
(でも、結局サボりっスね――)
 リョーマがはぁ、と吐息をついた。
「ま、仕方ないから桃先輩の相手でもしますか」
 帽子をぐい、と直したリョーマは、いつもの生意気な少年に戻っていた。
「おーい、桃先輩サボりっスか~?」
 リョーマが桃城を呼ばわる。いたのは桃城とおかっぱのなかなか可愛らしい女の子。確か橘杏と言った。そして――。
 ――どくん。
(何で……なんでアンタがここにいるんですか。跡部さん……!)
 だが、リョーマは動揺を表に出すタイプではない。かえって跡部の登場で闘志を漲らせて――微笑った。

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2019.11.08

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