俺様の美技に酔いな 30

「都大会優勝おめでとうー!」
 青学テニス部レギュラー陣――今この時点ではレギュラーでない乾もいたが――は彼らだけで河村寿司で打ち上げをやっていた。ジョッキに注がれたのはウーロン茶である。皆で乾杯をする。彼らには妙な団結力が生まれつつあった。
 リョーマが部屋でぼーっとしてたら、桃城から集合がかかったのだ。
「『でも、勝って兜の緒をしめよ』という諺もある通り――」
 眼鏡をくいっと上げながら話す乾の言葉など誰も聞いてはいなかった。
「あー、それ、俺のサーモン!」
「へへーんだ。早い者勝ちだもんねー、残念無念また来週~」
「あー、じゃ、俺はこっちの方を……」
「それっ! 大トロじゃないか! 狡い! おチビ!」
「早い者勝ちって言ったの菊丸先輩だもんね~」
「ははは……まだいっぱいあるよ……」
 手拭いを頭に巻いた河村隆は困ったように眉を下げた。
「おう! めでてーなめでてーよ。なんてったって都大会優勝だもんな!」
「フシュ~、うるせぇぞ桃城……静かにしろ……」
 はしゃぐ桃城に注意する海堂。
「都大会優勝で羽目を外すようでは困る……」
 凛とした手塚の声が響く。
「我々の目標は全国大会優勝だ。油断せずに行こう」
 一瞬しんとなったが、すぐに雄たけびが上がった。
「当然じゃねーの、なぁ、越前」
「ぶっ」
 桃城に思い切り背中を叩かれ、リョーマはお茶を吹いた。不二はにこにこしながらわさびの追加を頼んでいる。大石が、はは……と困惑したように小さく笑う。
 座敷の藺草の匂いのする店内で、リョーマは口元のお茶を拭ってまたもぐもぐと口を動かし始めた。
「タッカさ~ん。卵残しといてね」
「わかったよ。英二」
「ははっ。こいつも立派に成長して……チームメイトの寿司は自分で握らないと気が済まねぇなんていうもんだから今日だけってことで」
 河村隆の父親が感無量といった表情で息子の成長を噛み締めていた。リョーマが言った。
「ふぅん。修行中なの? それにしちゃ美味しいじゃん」
「あ、あは……親父の仕事見てたから……」
「こら、隆! あまり握り過ぎて寿司生温かくすんじゃねぇぞ」
「へい!」
 寿司屋の先輩がいて良かったなぁ……。リョーマがウニを堪能していると――。
「やっとるかね」
「竜崎先生! ――あ、隣の人は!」
 私服の竜崎スミレとあまり普段と変わり映えのしない越前南次郎がやって来た。
「おう。途中で竜崎先生と会ったぞ。そんでちょっとおデートしたって訳だ」
「こんなむさ苦しい男と並んで歩くのはごめんだったんじゃがな」
「すみません。竜崎先生。親父が迷惑かけて――」
 リョーマがぺこりとお辞儀をする。勿論、謝るふりである。
「そうじゃぞ。南次郎はそれはそれは悪ガキでのう……アメリカ行ったのもでっかい夢追っかける為かでっかいおっぱい追っかける為か途中でわからなくなる始末じゃ」
「先生~、それは言いっこなしって言ったじゃないっスか。昔のことっスよ」
「ふん、どうだか。アタシにとってはアンタも悪ガキの一人じゃよ。勿論、今でもな」
「いや~、参ったなぁ」
 頭をぽりぽり掻く南次郎にリョーマはくすりと笑った。大人連中も騒ぎたいらしい。
「母さんには遅くなるって言っておいたからな、リョーマ」
「うん」
 リョーマは食べるのに忙しい。そして追加注文する。
「次イクラ、エビ、ネギトロね」
「わかったよ。越前。他にはない?」
 こうしてみると、普段の河村は気の弱そうな、ごく普通の寿司屋見習い少年である。けれど、ラケットを握ると人格が変わってたちまち逞しいパワープレイヤーに変貌するのだから人というのはわからない。
「これも美味しいね」
「いやぁ、まだまだだよ……」
 一年のリョーマにも腰が低い隆である。
「ふむ……親父さんの味にだいぶ近づいたのではないか?」
「ありがとう手塚……」
「これからも河村寿司が繁盛する確率100%……」
 乾がぼそっと言った。
「ありがとう、みんな。――先生に南次郎さん。ご注文は?」
 河村は格好だけ見れば、もう立派な寿司職人である。けれど、これからまだまだ修行しなきゃいけないのだ。――南次郎とスミレは座敷席に座る。
 ――時が止まってしまえばいいのに。
 リョーマが願う。関東大会で青学は氷帝に当たるかもしれない。氷帝と戦いたい。でも、今は嫌だ。この騒ぎの中に沈んでしまいたい。この惑乱の気配を潜めた歓喜の季節の中で。
「そうだな。まずビールでも飲もうか」
「そうじゃな」
「ビールって苦いよ」
 菊丸がつい舌を滑らせた。
「ということは飲んだことあるんだな、英二~。飲酒はあれだけダメだって言ったじゃないか~」
「うわっ、タンマタンマ大石~」
 大石秀一郎に揺さぶられて菊丸は悲鳴を上げる。スミレは出されたジョッキを傾けてから言った。
「まぁ、今のは聞かなかったことにしておくよ」
「だとさ。良かったな、英二。竜崎先生が寛大な教師で……」
 大石が掴んでいた菊丸の胸倉を離した。
「うわ~ん。大石怖いよ~。もうビールなんて一生飲まないも~ん。ばか~」
 よほど怖かったようで菊丸が泣いている。菊丸と同じクラスの不二が近づいて肩をさすってなだめようとする。普段大人しい人物ほど怒ると怖いのだ。河村然り大石然り。
「まぁなんだ? お前ら頑張ったそうじゃねぇか」
 南次郎は涼しい顔してビールを喉に流し込む。リョーマが南次郎に文句を言う為立ち上がる。
「中トロひとつな」
「ここは今日は関係者以外立ち入り禁止だよ。親父なんてかっぱ巻きで十分じゃん。何もしてないんだからさ」
「おや。お前の練習に毎日付き合ってやったのはどこの誰か忘れたのか?」
「う……」
 リョーマは思わず絶句してしまった。
「でも、強くなったよ、リョーマ。流石我が息子」
「当たり前じゃん。俺達は一人じゃないもん」
「おっ、おチビの口からそんなセリフが聞けるなんて~」
 ――菊丸が嬉しそうに言う。こういうのを今泣いた烏がもう笑っているというのだろうか。南次郎も笑顔でリョーマを見つめている。
「なぁ、リョーマ――テニス、楽しいか?」
「んな決まりきったこときかないでよ」
「ならいいんだ。いや、この先どんな辛いことが待ち受けていようと、それを忘れないようにしろよ、と言いたかったのさ。絶対、テニス魂、捨てんじゃねぇぞ。お前にはサムライの血が流れてんだからな」
「――ウィッス」
 意外とまともな意見だった為、リョーマもそれに返事をした。そして座敷席に上がってコハダに手を伸ばす。「これ!」とスミレが制止しようとした。南次郎が無精髭だらけの顎を撫でる。
「なかなか通になって来たじゃねぇか。リョーマ。え?」
「だって、河村寿司の寿司、旨いし――あ、河村先輩、美味しいお寿司ありがとうございます」
「ありがとう、越前」
「隆、お前はこの親父を超えてみろ」
「うん。父さん」
「河村さんはいいこと言うな。リョーマ、お前もいつか俺を倒せよ」
「わかったよ。親父。絶対次は負けないから」
 そして、跡部景吾と対戦する時が来ても――。
(跡部さん、俺は絶対あなたを倒す)
 そして、その重たそうなキングという衣装を引っぱいでやるのだ。彼を見たのは一度しかない。けれど、その一度で充分だった。リョーマは既に跡部の美技に心掴まれていたのだ。強く、強く、心の臓近くを――。
 俺様の美技に酔いな――酒を飲んで酔うことは出来なくとも跡部の美技には酔っているリョーマであった。その事実を彼のチームメイトは、そして父の南次郎もまだ、知らない。

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2019.10.16

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