俺様の美技に酔いな 18

「桃先輩だ!」
 リョーマが言った。果たして、その通りだった。
「ウィース、越前!」
 ガラガラと扉を開けて入って来たのは、桃城武であった。
「おはよ、桃先輩」
「おー、桃城。うちの悪ガキが世話になってんなぁ」
 ひょこっと南次郎も出て来た。
「悪ガキって何だよ、悪ガキって……」
 ぶつくさ言うリョーマに、ぷぷっと吹き出しそうになっている桃城。いつもの通りのいつもの朝――。薫風がリョーマを包む。こんな生活が続けばいい、とリョーマは思った。
「おい、越前。お前、親父さんにはまだまだ敵わねぇんじゃねぇの?」
「うっさいっスよ、桃先輩」
「相変わらず生意気だな。でも、お前のそういうとこ、嫌いじゃねぇぜ」
 桃城が白い歯を見せて笑った。見るからに健康優良児だ。しかも、桃城は頭が回る。文武両道なのだ。――まぁ、『文』より『武』の方が得意みたいではあるが。
「さ、行こうよ。桃先輩」
「そうだな。手塚部長達も待っているかもしれないからな。――遅刻したら乾汁だ、なんて乾先輩が言い出しても困るし」
「げぇっ! それはやだ!」
 リョーマの背中にぞーっと悪寒が走った。
「それが嫌だったら早く乗れよ」
「う……うん……」
 乾汁はいやだ、乾汁だけは……。
 あれを美味しいというのは不二だけなのだから――。不二は味覚がおかしいなんて言われるのもっともだなとリョーマも思った。
「おい、リョーマ。震えてるぞ」
 大丈夫か、と気づかわしげに桃城がリョーマの肩を叩く。
「――乾汁の恐怖を思うと……」
「あー、わかる。不味いよな、あれ」
「飲んだ人はみんなトイレに駆け込んで行くっスよね。平気なのは不二先輩ぐらいでさ」
「気が知れねぇぜ。――やっぱり、遅刻したら乾汁なんて罰ゲームはないだろうな」
 それはないとは言い切れなかった。だって、あの竜崎スミレ顧問の束ねる男子テニス部なのだ。スミレは勝つ為だったら何だってやる。そして手塚部長も――。
「ところで越前、牛乳飲んだか?」
「うん。――昨日は夜飲んだけど」
「なんだ。『お前は牛乳より乾汁の方が好きみたいです』と手塚部長に言ってやろうと思ったのに」
「地味な嫌がらせ止めて欲しいっス! 乾汁より牛乳の方がマシっス!」
「冗談だっての」
 桃城がクックッと肩を揺すらせて笑う。
「もう!」
 リョーマは膨れた。しかし、これでも桃城は頼りになる先輩ではあるのだ。
「さ、乗れよ」
「うん!」
「行って来い、リョーマに桃城」
 南次郎がふらふらと外に出て手を振る。
「行ってきまーす」
 リョーマが笑いながら答える。
「南次郎さんて、越前に似てないようで似ているな」
「えー、そうかなぁ」
「何かさぁ……全体の雰囲気は似てないんだけど、さすが、サムライJrだって思うことあるよ。お前のこと」
「むむむ……複雑だな……」
 桃城の自転車には後ろに荷台がないのでリョーマは立ち乗りしている。
「そんな乗り方してたら危ねぇぞぉ。兄ちゃん達」
 通りすがりの善意のおじさんが注意してくれた。
「ははっ。いずれ言われると思ってたよ」
 桃城が言う。――それはリョーマも思っていた。でも、この乗り方を辞める気はない。だって、風が気持ちいいから。
 桃城の整髪料の匂いがする。石鹸のいい匂いも漂って来る。
(桃先輩もいつもいい匂いがするんだな――)
 少し意外な感じもするが、桃城も人を惹きつける匂いがする。跡部はどうなんだろう。
(――って、跡部さんは関係ないよね)
 例え、あんな夢を見たって……しかも、自分が跡部を抱く方に回るなんて……。あまり覚えてないけど、いい匂いがしていたような気がする。夢に匂いがするのかどうかわからないけれど。
 タッタッタッ。
 自転車がフードを被った少年――いや、青年かもしれない――とすれ違った。
「ん?」
「どうした? 越前」
 前を向いて運転しながら桃城が尋ねる。
「いや……何でも……」
 リョーマは打ち消した。――そうだよね。こんなところに跡部さんがいる訳ないよね。ちょっと似てたような感じがしたけど。
 跡部はあんなダサい格好をしているはずがない。それに――こんなに泥臭い努力をしている訳がない。実力を保つ為にと言ったって――。
(俺、病気だ――)
 きっと誰を見ても跡部に見えるに違いない。でも、あの少年は――。リョーマは振り返った。もう少年の姿はなかった。
 リョーマは自分は桃城の自転車に乗っているとはいえ、あの少年も結構足が早いな、と思った。
 リョーマは地道な努力は嫌い。けれど、強くなる為には効率良く、しかも努力しなければならないのだ。
(――もしかして、やっぱり跡部さんだったのかなぁ……あの少年は……)
「ねぇ、桃先輩。跡部さんて、強いの?」
「つえぇよ。そう聞いてる。でも、跡部って、この間はゲームに加わらなかったし」
「そうなんだ……」
 でも、リョーマには跡部の実力がわかる気がした。
『俺様の美技に酔いな』
 ――なんて恥ずかしい台詞、余程自分に自信がなければ言えやしない。――と、まぁ、そんなことを前にも思ったことはあるかもしれない。跡部景吾はおそらく実力にも相当自信を持っているのは明らかだ。――跡部と対戦した相手は負けていた。
(まぁ、あんまり強い人じゃなかったっぽいけどね――あの時の跡部さんの対戦相手)
 けれど、跡部はおそらく全国区のプレイヤーだ。
(でも、跡部さんは俺が捻じ伏せて見せる!)
 リョーマの心は燃えていた。いつもはクールだ、涼しい顔して凄い、と評判のリョーマがだ。このリョーマを堀尾辺りが見たら、
(お前をこんなに本気で怒らせたヤツ、可哀想だな)
 ――とか言うかもしれない。別にリョーマは怒っている訳ではないのだが。
「着いたぜ、越前――と」
 桃城が目を見開いた。そしてこう続けた。
「サムライがいる――」
「え?」
「ああ、いや、気にしないでくれ。俺の気のせいだと思うから」
 サムライ――か。それがリョーマの父親、越前南次郎の現役の頃の二つ名だった。
(成る程ね。言われて悪い気はしないね)
 サムライと呼ばれるのも少し恥ずかしい気はしたが――。リョーマがにやりと笑った。
 部室に向かう途中、桃城が言った。
「なぁ、やっぱりお前、南次郎さんに似てたわ」
「そう?」
 リョーマが首を捻って振り向く。
「お前、サムライの息子だぜ」
「ふふん」
 リョーマは鼻で笑って答えると部室の扉を開けた。
「桃におチビ、おはよ~……って、おチビの雰囲気、いつもと違くない?」
 都大会に向けて張り切っているダブルスプレイヤー、菊丸英二が訊いた。菊丸も空気を読むのには長けている。
「ここ数日、なんか変なんだよな。こいつ」
 桃城がリョーマの頭をこつんと小突く。リョーマは「やめてくださいよぉ、桃先輩」と答える代わりに、謎めいた笑みを浮かべた。菊丸が首を傾げた。跡部と会ってから――急に大人びて来たことがリョーマは自覚してもいた。それは、やはり恋の力というものなのだろうか。

次へ→

2019.05.27

BACK/HOME