俺様の美技に酔いな 17

「じいちゃん……?」
 リョーマが南次郎の方に顔を向ける。
「正確に言うと、お前のじいちゃんだな。俺の父ちゃん」
 南次郎が答える。
「あっそ」
「手伝おうか?」
「――いらない」
 もう子供ではないのだ。精液で汚れた自分の洗濯物なんて――自分で洗える。
「今日は赤飯かぁ?」
 南次郎が際どい冗談を言うと、予想されているとは知りつつ、リョーマは「親父!」とムキになって怒鳴る。早く洗剤で洗って良い匂いにさせたかった。
「おはよう、おじ様。リョーマさん」
 菜々子の綺麗なメゾソプラノの声が聴こえた。
「あ、おはよ、菜々子さん」
「リョーマさん、それ、洗濯物?」
「そうだけど?」
「私が洗ってあげましょうか。今日はおば様がとても張り切ってて私、出番がないの」
「母さん、元気?」
「元気だったわ。いつもよりご機嫌だったかも。それ、渡してくれる?」
「ん?! いい! いい!」
 リョーマが急いで断って洗面所に入った。菜々子は驚いたかもしれない。けれど、リョーマにはリョーマなりの秘密があるのだ。
 下洗いをして洗剤を入れて洗濯機を回す。やはり体を洗い直すか――。リョーマはざっとシャワーを浴びる。体についていたあの匂いが取れたような気がした。
(俺、跡部さんのことを景吾って……)
 夢の中の話だからだろうか。自分の願望かもしれないが、リョーマは跡部より体が大きくなっていたような気がする。リョーマはふぅっと溜息を吐く。
(あの人は全然、俺のことなんか知りもしないのに――)
 それが、不条理なことのように思えた。こっちは相手のことを知っているのに、相手は自分のことを知らないなんて――。越前南次郎に息子がいるということは知っているかもしれないが。でも、跡部とはまだ正式に出会ってさえいないのだ。
(リョーマ……)
 思い出した美声にリョーマの背中はぞくりと戦慄く。
(跡部さん、いい匂い、してたかもしれない……)
 夢に匂いがあるのかどうかわからないが――。
(それに、すごい綺麗だったな――)
 あの綺麗な顔をぐちゃぐちゃにしてやったらさぞかし興奮するだろうな――跡部の幻影ですら、リョーマを昂らせたのだから。
(でも、俺様の美技ってああいうこと?)
 確かに「ご馳走様」と言いたい程、良い夢だったが――いやいや。再び服を着たリョーマはゴウンゴウンと回る洗濯物をじっと見ている。――母の声がした。
「リョーマー。ご飯よー」
「はーい」
 リョーマが洗面所から出ると、カルピンがついてきた。
「ん? 何だよ。カルピン。ご飯まだ食ってないの?」
「ほあら~」
「――満足げだね。もうお腹いっぱい? もしかして俺が心配でついてきた?」
「ほあら~」
 リョーマにはカルピンの言葉はわからないが、何となく察する。カルピンもリョーマのことを気にしているのだ。なんたって、飼い主のことだから。それに、一番遊んであげているのはリョーマであるから。
「――ありがと」
 リョーマはしゃがみ込んでカルピンの頭を撫でた。
「跡部さんのことばかり気にしててごめんね」
「ほあら~」
 気にしてないよ、と言いたげにカルピンは鳴く。カルピンをモフモフすると心が洗われるのがわかる。
「――愛してるよ、カルピン」
「ほあら~」
「ほうほう、リョーマの恋人はカルピンか」
 トイレから新聞と共に出て来た南次郎が言った。
「何? これからメシなんだけど」
「そうか。俺はもう食った。――つうか、早く食わねぇと時間やべぇんじゃねぇか?」
「あ、そうだ――!」
 リョーマはバタバタと食堂へ向かう。
「おはよう、リョーマ」
 倫子が鼻歌を歌いながらリョーマのご飯をわける。倫子はまた綺麗になったとリョーマは思った。これは、親父が手放さないのもわかるな、と思う程に――。
(親父も母さんも、昨日はお楽しみだったようだね――)
 俺と跡部さんも――勿論、夢の中でだが。
(何だかリアルな夢だったなぁ。まだ心の中がほわほわしている――)
 しかし、一方で怖くもあった。子供時代に築いて来た何もかもがガラガラと崩れ落ちそうで――。
 誰にも相談出来ないのは辛過ぎる。掘尾――はまだ子供かもしれないし、手塚は真面目一方。桃城には恥ずかしくて出来ない。誰か相談できる他の人――。
(不二先輩!)
 不二だって男だ。女と見紛う声と見た目であったとしたって、夢精ぐらいはしているのではないだろうか――。そこまで考えて、リョーマははっとした。この考えは不二を冒涜しているのではないかと。
 それは――いや、違う、そうじゃない。不二だって手塚のことを想ってい寝がての夜を過ごしたことぐらいはあるのではないだろうか。
 何となく、リョーマは不二のことを同じ悩みを持つ友人として見ていた。
 ――ていうか、こんなことで悩んでいるくらいだったらテニスしろって話だよねぇ……。
 リョーマは自分で自分に話しかけている。もう一人の自分に――。でも、テニスがなかったら跡部に会うこともなかったかもしれない。
 いや、あれは岬先輩が無理矢理――。
 と、そこまで考えて、岬に感謝と怒りの両方が沸き起こった。その間にもリョーマの鋭い食欲は食器を空にしていく。
 岬に跡部を紹介されたのは良かったのか悪かったのか――。
「母さん、お代わり!」
「あらあら、今日はよく食べるわねぇ。リョーマ。いいわよ。沢山作ってありますからね」
 倫子がくすくす笑う。
「『今日も』よ。おば様」
 菜々子が話に入る。倫子がまた笑う。
「それもそうだわねぇ。いっぱい食べてね。牛乳もあるから」
「げぇっ!」
「乾さんのお母さんから頼まれたのよ。あそこの息子さんがね、『越前に牛乳二本、毎日必ず飲ませてください』と伝言してって言われたって」
「乾先輩のお母さんねぇ……あの人お母さんいたんだ」
「とてもテニスに詳しいのよ。母さん、親しくなっちゃった」
「あの乾先輩に母親がいるなんて、物凄く想像しにくいんだけど――」
 そう言ったリョーマが想像する乾母は、黒ぶち眼鏡で分厚いレンズで光が反射してこっちからじゃ目が良く見えなくて――。つまり、乾貞治と同じ眼鏡をかけた中年女性を思い浮かべたのだ。
「くっ……ぷぷっ……」
 今、他に何も食べ物口の中に詰め込んでなくて良かった――と、リョーマは思った。もしそうだったら絶対吹き出したであろうから。そんな汚いことはしたくなかった。
「あら、なぁに? リョーマ」
「あ、あのね……」
「くぉら、青少年、学校はいいのか?」
「ほあら~」
 南次郎とカルピンが食堂に現れる。
「あ、そうだ! 朝練あったんだ!」
 都大会が近づいている。それに向けて青学も動き出す。このシーズンは、いつもより早く朝練が始まるのだ。
「もうすぐ桃先輩が来ると思う――」
「時間割は揃えたか?」
 南次郎は面白い物でも見るような目付きでリョーマを見る。
「もう小学生のガキじゃないよ! それぐらい揃えてるよ」
「そうだな、もうガキじゃないよな。な、リョーマ」
 南次郎がリョーマに向かってウィンクする。リョーマは何か言いたくなって南次郎を睨んだが、それも無意味かと思い直した。どうも、この越前南次郎という男には昔から敵わない。
 別段苦手という訳ではないが、南次郎はスケベな生臭坊主のくせに、人の心を掴んでしまう妙なところがある。そういうところはリョーマにはない、人生を正しく重ねて来た男の持つ余裕――人間的魅力というやつなのだろう。それが、以前はリョーマを苛つかせることもよくあった。
「はぁ……もういいよ」
 反論する気も失せた。大人になったら南次郎よりもいい男になってやると心に決めて、部屋からラケバを持って来る。牛乳も飲んだ。――その時、インターフォンの音がした。

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2019.05.13

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