俺様の美技に酔いな 10

「嫌味なんかじゃないよ。球拾いだって立派な仕事だよ。カチローとカツオだって真面目にちゃんとやってんじゃん」
 リョーマが珍しく力説する。
「うう……俺だってちゃんとやってるってば」――と、堀尾がこぼす。
「球拾いがちゃんとしてあるからこそ、俺達レギュラーは頑張れるんだからね!」
「うう……縁の下の力持ちというのは性に合わねぇんだよ……」
(縁の下の力持ち……ね)
 それはリョーマの最近覚えた諺だった。なるほど。確かに面白い。縁の下の力持ちは性に合わないと言いながら、結局そうでしかあれないヤツ。跡部景吾のようなスター人間。手塚部長のような実直リーダー。
(いろんなヤツがいるから、テニスは面白いんだよね)
 縁の下の力持ちだって、黙々と作業していればいつかは努力が昇華されるであろう。――リョーマだってまだ中学一年生。そんな神話を信じるぐらいには純粋であれるのだ。
 自分はどんなタイプのプレイヤーなのか。リョーマは時々考える。
 ダブルスは性に合わない。己の自我が強過ぎるのだ。それが他に自我が強い選手と組み合わされると――これはもう、負けしかない。ダブルスは強さだけでは勝てないのだ。
 リョーマは泥だらけになって汗の臭いがジャージに染みつく程練習に打ち込んでいる。時には乾汁の恐怖と戦いながら――。何だかんだ言って、テニスは楽しいのだ。一旦勝利の味を知ってしまうとやめられない。野球だって、バスケだってそうだろう。
 今は竜崎スミレもいる。頼りになる顧問のバアサンだ。
 堀尾とリョーマは職員室の前に立った。結局堀尾も来たのだ。
「越前、宜しくな。俺、職員室はどうも苦手でな――」
「わかったよ」
 リョーマはトントントンとノックした。
「失礼しまーす」
 そう言ってからりとスライド式の扉を開ける。コーヒーと煙草のやに臭さがする。
「よぉ、南次郎・Jr.」
「その言い方はやめてください。森原先生」
 体育担当の森原の言葉にリョーマは口をへの字に曲げる。堀尾がぷっと吹き出したので、リョーマはそちらを睨んだ。
「あ、リョーマくん、ちょうどいいところへ来た」
「井村先生……」
「テニスのこと、勉強してるんだけど、ちょっと質問していいかしら」
「いいっスよ」
「じゃあ行くわね。テニスにおけるストロークってどういう意味?」
「ああ、それはですね……」
「それからボレーのやり方わかる? 前衛と後衛の違いは? ミクスドってやったことある? ロブってどういう意味?」
 嵐のようなマシンガントークにリョーマが口を差し挟めないでいると――。
「あ、そうそう。サーブってどういう意味?」
(そこから――!)
 流石のリョーマも些か閉口してしまった。掘尾の方を見ると、彼も呆れたように眉尻を下げていた。きっと井村聖子はシングルスとダブルスの区別さえつかないに違いない。
「ねぇ、井村先生……先生テニスやらない方がいいっスよ。向いてると思えないもん」
「えー」
 井村は数学は得意なのだろうが、テニスに関しては初心者だ。いくら先生の頼みとはいえ、無駄な時間を使う程リョーマはいい人ではない。
「越前くん」
 国語教諭の花沢女史が話しかけてきた。
(助かった……)
 と、リョーマは思った。井村はテニス教本を見ながらうんうん唸っている。ちょっと気の毒になったリョーマは言った。
「井村先生。テニスは実践が大事っスよ」
「実践か――よし、まずはラケットとボールを買って……お給料で足りるかしら……」
 ぶつぶつ言っている井村のことはさておいて、リョーマは花沢の方に向き直った。
「何すか? 花沢先生」
「ああ――ええとね……君の着眼点面白いと思って。八百屋お七の話だけど」
「はい」
「――その前に堀尾くん、この次はちゃんと宿題をしてくるように」
「はあい」
 リョーマの斜め前の堀尾が肩を竦めた。
「先生。掘尾も八百屋お七のことを知りたいんだそうです」
「そうそう。俺も気になっちゃってさ」
「そうよね。あなた方の年頃って燃えるような恋に憧れるのよね。私も昔は――って、そんな話じゃなかったわね」
「はい」
 リョーマが正直に答える。掘尾がまた吹き出す。
「吉三は普通の寺小姓だったに違いない……まぁ、ここら辺は私も考えたことあるんだけどね。越前くんはお七の方が気になるって言ってたわね」
「はい」
「お七の年齢は諸説あるんだけど、越前くんは十代のいずれかと考えたのね」
「はい」
「何で十代なの?」
「そうとしか思えないからっす」
 そんな台詞がリョーマの口から滑り出した。
「それから――吉三よりお七の方がよっぽど魅力あるって書いてあるけど」
「だって燃えるじゃないっすか。一人の女を狂わす程の恋の話って」
「そうだよな。俺もそう思う」
「ここからは私の想像なんだけど――越前くん、恋してるの?」
「は……」
 何と言ったらいいかわからない。下手なことを言ったら堀尾や花沢にツッコまれそうで。――堀尾が言った。
「いいなぁ。身を焦がす激しい恋。俺もしてみてぇ」
「――と、昔の人も考えた訳ね。だから八百屋お七は生き生きと人々の心の中で恋に狂って生き続けるという訳」
「ええ」
「放火の原因は実は吉三への恋ではなかったと。お七にしかわからない狂気だったと」
「はい」
 人を狂わす程の情熱は何故か人を惹きつける。馬鹿だと笑われようと、変だと罵られようと、死に急ぐ程の狂気は止まらない。一旦憑りつかれたら死ぬしかないのだ。あの赤い靴を履いた少女のように踊り続けるしかないのだ。
「中一でここまで恋の狂気を言い表した子は――いないとは言わないけど珍しいわね。あ、我が校にも一人いたか」
「だ――誰っすか!」
 リョーマは息を飲む。掘尾も黙っている。掘尾が黙っているのはさっきからだが。
「不二くんよ」
 やっぱり不二先輩か――リョーマは不二に同族意識を持った。不二は手塚のことを考えていたに違いない。不二は菊丸と同じクラスだが、菊丸と恋の狂気は結び付かない。
「不二くんも叶わぬ恋をしているらしいけど――越前くんもそうなのかなと思って。そうなの? 越前くん」
「いえ……」
 リョーマは嘘を吐いた。
「八百屋お七の話を読んで――それで興味を持っただけです」
「そう……」
 花沢はリョーマの肩に手を置いた。
「これは君のアドレステーマよ。何かわかったらまた先生に教えて頂戴」
 花沢の香水の匂いが微かに漂う。上品な匂いだ。そういえば、跡部はどんな匂いがするのだろう。
 匂い――今まで特に気にしてはいなかったもの。けれど――皆持っている物。いい匂い、惹きつけられる匂い、人を酔わす匂い、嫌な匂い。
 そうだ。跡部だって生きている存在である限り、匂いは確かに持っているのだ。
(跡部さんの匂い――か)
 匂いはひとりひとり違う。不二なんて部活でいくら汗をかいても人を惹きつける爽やかな香りしかしない。
「おい、越前」
 担任の高口がやって来た。
「お前、図書委員だろ?」
「ウィース」
「この花沢先生がな、不要になった本とか持ってって欲しいと言ってたんだよ」
「あ、あらあらそうだったわ。越前くん、放課後に図書室に来て頂戴」
「いいけど、報酬は?」
 リョーマは言ってみた。
「Pontaグレープ味――でどうかしら」
「乗った! 言ってみるもんだね」

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2019.02.24

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