李下に冠を正さず 1

「何やってんだ! 高尾!」
 裕也サンの声が聞こえた。振り向いたオレは……。
「え……?」
 拾ったカッターナイフを握って立ち尽くしていた。

 オレは高尾和成。高一。秀徳高校バスケ部部員。スタメン。
 この時、オレは、愚かしい笑いを浮かべていただろう。
 李下に冠を正さず。昔の人は何と素敵な言葉を残してくれていたのだろう。――もう何の役にも立ちゃしないけどな。
 ロッカーが荒らされて、扉が凹られて、バスケ部の部員達のユニフォームが切られて――そしてオレはカッターを持っている。
 ――どんなに声を上げても、言い逃れは出来そうにない。
「おい……マジかよ……」
 裕也サンが目を剥いている。
「冗談じゃねぇぞ。そりゃ、オレの兄貴は轢くぞ切るぞとは常々言ってたけどなぁ……まさか、本当にユニを切るヤツがいるだなんて……しかもそれがお前だなんて……」
「違うんです! 裕也サン!」
「オレもお前を信じてぇよ! だが……」
 裕也サンがごくんと息を飲んだ。
「全ての状況が、お前を犯人だと指している」
「…………!」
「まぁ、これだけだとまだわからないがな」
「オレは……部室に来たらこんな風になっていて――」
「どうした? 宮地。――!」
 後から来た二年生の田村サンが絶句した。無理もない。
 しかも、部員達が申し合わせたようにぞろぞろとやってくる。
「うわっ! 何だこりゃ!」
「ひでぇ……」
「誰がやったんだ?!」
「高尾がやったらしいぞ」
 ひそひそ、ひそひそ。陰口が波紋のように広がっていく。
 オレは、情けないことながら、
(真ちゃん、早く来て――!)
 と、願わずにはいられなかった。
 すると。
 緑色の頭が見えた。
「たかお……!」
「真ちゃん!」
 我が秀徳高校バスケ部のエース。緑間真太郎。キセキの世代と言われ、天才シューターの名を恣にしている。
 そして――オレの相棒だ。
 オレはカッターを捨てた。
(真ちゃん。真ちゃんなら、わかってくれるよね)
 瞳にそう期待を込めて真ちゃんを見つめる。真ちゃんは――。
 真ちゃんは、オレから、目を、逸らした。
 そこで、もうオレの敗北は決まったようなものだった。
「あは、あは、あはははははは……!」
 オレは狂ったように笑い出した。人間、とんでもなく悲しいことが怒ると、笑いが出てくるものなんだな。
「こえー」
 と、チームメイト達は呟いていた。

 今のところ――。
 オレの味方は、木村信介サン、大坪泰介サン、宮地清志サン。そして――。
 宮地清志サンの弟、バスケ部新主将宮地裕也サン。カッター持ったオレを初めに見つけた人でもある。
 意外だった。裕也サンはてっきりオレを犯人だと決めつけているものとばかり思ってたのに。裕也サンは一度は疑いながらも、考えてみればお前がこんなことやるわけねぇもんな、と、オレを信用してくれたんだ――。大坪サンみたく優しくなくても、いい主将になれるよ。
 中谷監督はすぐ結論を出さなかった。
「このことは私の胸先三寸にしまっておく。いいな。高尾」
「はい」
「だが――私はどうしても君がやったとは思えない」
「え?」
「教師としての勘だがな――お前がこんなことをやったとはどうしても思いにくい。こんな、陰湿なことを――」
「マー坊!」
「えーい、誰がマー坊だ! また走らされたいか!」
「いけね!」
「まぁいい。そういう明るさがお前の良いところだ。何も後ろ暗いところがないなら、あまり悲観するんじゃないぞ」
 そう。オレは無実だ。そのことを、皆は後でわかってくれるだろうが、今は、それどころじゃなく――。
「さっきも言ったように、このことは私の心の中だけに留めておく。もし部員達の中に犯人がいたとしても――彼らにも将来はある」
 中谷監督は、バスケ部で騒動を起こしたくないのだ。当然だろう。オレだって、そのぐらいの忖度はできる。しかも、監督はバスケ部の部員達、そして、オレのことを思って――。
 監督は、保身の為に動くような人ではない。もしオレが真犯人だったとしたら、思いっ切り叱りつけその後全力で庇ってくれるだろう。――心を入れ替えたらの話だが。尤も、これはオレのマー坊贔屓かもしれない。
「高尾……これからお前は辛い想いをすることになると思う。それは、私の責任だ」
「はい……」
 これだけで、監督がオレを疑っていないことがわかった。
 そして、真ちゃん。
 こいつがわからなかった。
 オレを疑っているのか。
 オレを信じてくれているのか。
 オレ達は試されている。そう感じた瞬間だった。
 けれど――真ちゃんは逃げた。オレから逃げた。
「真ちゃん……」
 監督が責任を負ってくれたことよりも、真ちゃんが信じてくれる方が嬉しいのに――(監督には悪いけど)。
 そして、チームメイト達に陰口を囁かれるより、真ちゃんがオレから逃げたことの方が悲しかった。
 真ちゃんは――オレを疑っている。それが、何よりも悲しかった。
(秀徳の全員が、いや、世界中の人間がお前の敵になっても、オレはお前の味方でいる!)
 オレの誕生日での騒ぎの時に、そう宣言したのは嘘だったの?
 ――いや、真ちゃんは、きっと動揺しているのだ。
「それから……高尾、緑間を、許してやってくれ」
 涙と共に、監督が言った。
「え? 何?」
「あいつは――お前を疑っている。いや、違う。どうしていいかわからない、と、私に相談してきた。私は何も――言わなかった。私のことは許さなくていい。ただ、緑間のことだけは許してやってくれ」
「え? どうして、オレが緑間を許さなくちゃいけないんですか?」
「無実の者を疑うことも、立派な罪だからだよ」
 ――監督がオレのことを無実の者と言ってくれた。状況はどう見てもオレが犯人だと名指ししているようなもんなのに。
「監督。緑間に何も言わなかったというのは、嘘ですね?」
「いや……あいつには何も言えなかったよ。ただ、『高尾を信じろ』としか――」
 監督に言われて、はいそうですかと従う真ちゃんではない。監督が間違っている時は。
 だが、この道が正しいと思い込んだら、とことんまで追及する。それが真ちゃん。
 その点では、びっくりするほど頑固なんだ。伊達におは朝鬼畜占いのラッキーアイテムにこだわってねぇな。
 そこで、つぅんと鼻の奥が痛くなった。おは朝占いは信じるくせに、オレのことは信じてくれないんだ。
 オレは――あることに気付いた。
 それは、真ちゃんに見捨てられても仕方のない言動をしていたこと。オレは――緑間真太郎を憎んでいた。入学当時は。
 しかし、なんだかんだありながら、やっと真ちゃんの相棒になれたと思ったのに。真ちゃんとわかり合えたと思ったのに。
 そう思っていたのは、オレだけだったということか。
 でも、仕方ない。オレの場合は、自業自得だ。
 はは、のんきだね――と鼻歌を歌いながら家路に着いた。妹ちゃんが、「元気だね、お兄ちゃん」そう言ってくれた。その方が有り難い。それに――なんだかんだ言っても監督が信じてくれたのが嬉しかった。


2016.3.10

次へ→

BACK/HOME