猫獣人たかお 59

「楽しかったね、はなちゃん」
「うん!」
 葉奈子が満面の笑みを浮かべた。オレも――葉奈子に酷い目に遭わされたことのあるオレでさえ、可愛いなと思う、そう、ぐらりと来るような笑顔だった。
 葉奈子は本当はもうれっきとした大人で――。でも、その精神との幼さとのアンバランスさが妙に魅力的に見えて来た。
 真ちゃん、浮気する訳じゃない、浮気する訳じゃないんだけど――やっぱりみーくんの気持ちもわかるようになった。
 監禁生活を送っていた時、オレは、何度か逃げ出すチャンスを見つけた筈。それでもその時逃げなかったのは心惹かれていたからだろうか。
 うーん……。
 一介の獣人であるオレには難しいことはよくわからない。真ちゃんはいっつも難しいことを考えているようだけど。難しい本もよく読んでいるし。
 で、でも、オレだって頭使うことあるよ。――たまにだけど。
「あっ!」
 葉奈子は風船から手を離した。このままだと風船は飛んで行ってしまう。
 その時――みーくんも青い風船を手放した。みーくんの風船ははなちゃんの風船に追いついて糸が絡まり合う。
「僕の風船とはなちゃんの風船は一緒だよ」
 みーくんは葉奈子に笑いかけた。かっこいいなぁ。くっそう。
「そ……そうだね……」
 赤くなりながら葉奈子はオレの方をちらちらうかがう。
 葉奈子としても複雑な気分だろうな……みーくんは在りし日のみーくんではなく、たかおかずなりという全く赤の他人の体に憑依している存在だし。
 真ちゃんは見ない振りをしているようだった。

「ただいまー」
 オレ達は病院に帰ってきた。院長が振り向く。
「お帰りなさい。どうだったい。葉奈子ちゃん。デートは」
「とても楽しかったです!」
 葉奈子ははきはきと子供のように明るく言った。実際子供だもんな。今のはなちゃんは。――オレまではなちゃん呼びになってしまった。誰にも聞かれていないんだから葉奈子は『葉奈子』と呼んでいいのに。
 あ、みーくんが聞いてるか。でも、みーくんはそんなこと気にしていないようだった。
(ありがとう、たかお君)
(いやいや)
(――ちょっと我儘、いいかな)
(何?)
(はなちゃんが眠りにつくまで――手を握ってあげてていいかな)
(うん!)
 そういうことだったら大喜びで協力させてもらおう。
「はなちゃん、はなちゃん。――僕、手を握ってあげるよ」
「ありがとう」
 葉奈子は手を差し出した。暖かい手だ。みーくんは葉奈子の手を両手で優しく包んだ。真ちゃん達は部屋を出た。
「楽しかった……」
「うん、そうだね」
 葉奈子の言葉は次第に途切れ途切れになっていく。睡魔が襲ってきたのだろう。
「ねぇ、みーくん、お願いがあるの」
「何だい?」
「――キスして」
「うん」
(いいかな、たかお君)
(いいよ。……というか、もうキスしたじゃん)
(あは。それもそうだね)
(はなちゃん……美人になってた)
(そだね)
 この、『そだね』という言葉はオレが最近傾倒している新井素子先生の本の中の台詞だ。確か、カーリングでも『そだねー』が有名になった。
 尤も、葉奈子、美人になったと言っても、オレにとってはおっかないなと思うことが多々あった訳だが――今の葉奈子は文句なく美人だ。美人というより、可愛い。
 みーくんマジックかな。
「みーくん……」
「葉奈子……」
 お互いの唇が近づいたと思うとくっついて離れた。
 オレみたいにもう大人のキスを知っている者からしてみれば、ただ軽く触れるだけのキス。でも、みーくんと葉奈子の間には確かに何か起こったのだ。
「電波が走ったわ」
「電波?」
「うん。はなちゃんとみーくんの間にしか存在しない電波。はなちゃん達しか知らないの」
 そう言って葉奈子はふにゃんと笑った。――いつかはオレも真ちゃんと……。
 真ちゃんは――うん。オレには真ちゃんしかいない。真ちゃんはかけがえのない存在だ。可愛くて、気難しい優しい真ちゃん……。
 ぼろっ。
 涙が出て来た。これがたかおかずなりとしてのオレの涙なのか、雨園みきおの涙なのか、オレにはわからない。
「お別れの時が来たようだよ」
 みーくん――雨園みきおが軽くはなちゃんの頭を撫でた。
「行かないで――みーくん」
「でも……行かないと。約束だから。大丈夫。僕、たかお君から沢山のこと学んだ。僕も猫の天国――それとも獣人の天国かわからないけど――で、君のこと、見てるから」
「みーくん……」
 葉奈子が笑った。神々しさすら覚える表情だった。
「私……山田葉奈子に戻る。今までの『はなちゃん』はみーくんと行ってしまったから……」
「うん」
 やがて――てっちゃん神様が現れた。てっちゃん神様の姿は葉奈子には見えないらしい。
「気が済みましたか? みきお君」
「はい」
 みーくんは敬虔な、神様にお祈りするようなポーズを取った。
「さよなら、たかお君」
 みーくんの意識はオレの体から離れていった。
「さよなら、みーくん」
 楽しかったよ。今日は。
 そして、これは真ちゃんには内緒なんだけど――オレははなちゃんに恋をした。
 そう、葉奈子ではなく、はなちゃんに。
 ――みーくんの意識は光となって溶けてしまった。オレは葉奈子の顔を覗き込んだ。
「たかお君……私、山田葉奈子に戻ります」
 しっかりと、高らかに葉奈子が宣言した。

「葉奈子が――はなちゃんではなく、山田葉奈子に戻る? どういうことなのだよ、それは」
 院長が好意で自宅部分にオレと真ちゃんを泊まらせてくれた。尤も、ここでははしたない行為をしてはいけない。どうして愛の行為がはしたないのか、オレにはよくわからないんだけど。そう考えるのはオレが元猫だったからだろうか。
「大人になって自分の行動に責任を取るということだよ」
「ふぅん……」
 真ちゃんは何か考えていたようだが、やがて言った。
「それで? 大人になった山田葉奈子は具体的には何をやるのだよ」
「う……」
 そこまでは聞いてなかった。
「何を……やるんでしょうねぇ……」
「はぁ。――お前はお人好し過ぎるぞ」
「オレ、猫だもん」
「茶化すな。――自首して罪を償うつもりか? あの女は。いや、それより裁判があるか……」
「葉奈子のお父さんはどうなるの?」
「全力でオレ達の邪魔をしに来るだろうな。山田三郎は難敵のようだぞ。話を聞いた限りでは」
「アニマルヒューマン保護機構のこともあるしね」
「やれやれ。オレ達の立ち上げる組織『獣人の権利を守る青年の会』はしょっぱなから前途多難だな」
 オレと真ちゃんはいろんな話をして――やがて眠ってしまった。起きたのは、朝になって院長が来た時である。

2018.07.19

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