おっとどっこい生きている
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 そして――私達はまた、いつもの朝を迎える。
 兄貴と私は、まだ少しぎくしゃくしたままだが、お父さん達が帰ってくる頃には、良くなっているだろう――多分。
 変わったのはリョウだ。フクのおかげで。少しの間で、彼は明るくなった。
「さぁ、ご飯だぞー」
 自分の分の食事から、フクに餌をあげる。まぁ、大した食事ではないけどさ。
「ニャー」
 フクは嬉しそうにがっつく。
 うーん。せっかく見た目が貴公子みたいなんだから、もうちょっと上品に食べてくれないかなぁ……。だが、そんな不満も、フクの満足そうな顔を見ているうち、消えていった。
「やっぱ、キャットフードの方がいいかな? なぁ、秋野」
「いいんじゃない?」
「じゃあ、俺、大学から帰る時、買ってくるわ」
 請け負ったのが、兄貴。
「駿サン、ありがとうございます」
「おう。だってリョウ、おまえ、金ねぇだろ」
「そうです。すんません……」
「謝るこた、ないさ。学生ってのは、金がねぇもんだから」
「オレも買ってくるか?」
 雄也が言った。
「雄也サンもありがとうございます!」
「けれどねぇ……あんまりあっても、腐らすだけだろ」
 キャットフードって、腐るっけ? まぁ、缶のは、開けてからあんまり間を置くと、悪くするだろうけど。
「じゃ、雄也はこの次だ」
「合点!」
「それにしても、本当にこの子って、可愛いわねぇ」
 えみりがフクの頭を撫でた。
「どこかの飼い猫ってことはない?」
「他の家から逃げてきたとか」
 私も言った。
「そうだなぁ……そうだよなぁ……こんな可愛いんだもんなぁ……他に飼い主、いるかもなぁ……」
 リョウが心配そうに呟いた。
「でも、首輪ついてないしなぁ……」
「アタシ、ポスター作ろうか」
 と、えみり。
「えみり、ポスター作れるの?」
 私の疑問に、
「こう見えても、昔は美術部だったのよ」
 との返事が返ってきた。
 へぇ……意外……。えみりが絵を描いたりしているところ、見たことなかったもん。
 でも、そういえば、結構器用なんだよね。彼女。
「絵なんかより、写真の方がいいんじゃねぇか?」
「それもそうね」
 雄也の提案にえみりが同意した。えみりの絵も見たかったような気がするけど……。
「んじゃ、オレ、デジカメ持ってくる」
「雄也さん、デジカメなんて持ってたの?」
 これも意外な気がした。
「ああ。この間、買ったんだ。オレも働き始めたことだし」
 今の職場は、デジカメ関係ないと思うんだけど。
「バイト代もらったしよぉ。それに、親父からも金届いたし。だから、オレの懐は、今あったかなのさ」
「ああそう。あんまり無駄遣いしないでね」
「これぐらい、無駄遣いのうちに入んねぇよぉ」
 雄也のバイト先『輪舞』は、働き始めだから、あんまり給料は払ってもらってないんじゃないだろうか。
 私は密かに案じた。
 まぁ、どんなところでも頼子から借してもらったマンガ、『PAPUWA』の特戦部隊よりはマシだろうけど。
 なんたって、あそこは十円ですからね。働いてもらった金額が! 十円て……今時チ○ルチョコも買えないじゃない!
 あ、話が脱線。
「そういうわけだから、ポスター作りはオレ達に任せていいぞ」
 雄也が得意げに胸を張った。
「それはいいけどさ……おまえら、大学は?」
「後で行く」
「ダメだ!」
 兄貴が怖い顔で雄也達を睨みつける。
「せっかく親父さんから金頂いてるんだぜ。ちゃんと勉強しなきゃダメだろが」
「えー、でも、純也の面倒もあるしぃ」
 えみりが語尾を伸ばして兄貴に媚びる口調になる。兄貴の怒りに火がついた。
「ダメだダメだダメだ! いつもは哲郎に任せっきりのくせして。大体、今のペースじゃ、留年決定だろ!」
「だから、いつも哲郎に世話になりっぱなしで、悪いと思ってるぜ、これでも」
「あ、僕は別にいいよー」
 なんだ、哲郎、アンタいたの……というのは、冗談だけど。
「アタシも雄也と同じ気持ち。哲郎だって、浪人生なんだからねぇ」
 えみりが立ち上がった。どこか気だるげだ。今まで自分を撫でてくれた手が離れてフクは、いささか不満げに「にゃん」と鳴いた。
 虚を突かれたような顔をした兄貴は一拍置いてから、ぽん、と手を叩いた。
「ああ、そうか。哲郎、浪人生だったな」
「兄貴! 忘れてたの?」
「いやぁ、あんまり便利な存在なんで、ついな……」
 さっきの怒りもどこへやら。決まり悪げにしている兄貴を見て、私は呆れてものも言えなかった。 今のはわざとか、素で忘れていたか……。わざとの方だと信じていたいが、兄貴のことだから、『素』かもなぁ……。
 しかし、哲郎と雄也父とでは、あまりにも扱いに差があるんじゃないだろうか。
「これからは、あんまり片手間に勉強してる場合と違うんじゃねぇか? 哲郎は」
 雄也が、珍しく正しいことを言った。
「まぁな……」
「だから、僕は大丈夫だって……」
「おまえは大丈夫でもなぁ、世間様はそう見てくれねんだよ。なんだよ、あんな勉強量で、予備校にも行かず、東大法学部目指すなんて、ふざけてるって思われても、しかたねぇんだぞ!」
 ムキになった雄也が、皆に聞こえないようにちっと舌打ちしたのを、私の耳は拾った。正直、自分のことは棚に上げて……って思ったけど。
「渡辺くんの言い分はわかるけど、僕、自分が東大に行けるなんて、あんまり思ってないから」
「えっ?!」
 哲郎の台詞を聞いた私達は同時に声を上げた。
「だって……今までだって駄目だったんだもの。半ば諦めているんだよね」
 哲郎が、受験について、こんなこと言ったの、これが初めてじゃなかったっけ? 前にもあったかな? よく覚えてないけど。
 だけど……そっかぁ。ということは、本当に半分諦めているんだな。こう口に出す限りは。
「……哲郎。じゃあ、どうするつもりなんだ? おまえ。将来については」
 兄貴が哲郎の肩を捕まえる。やはり、兄貴も実は気になってたんだな……。
「将来か……やっぱり牧師になろうかな、と考えてるんだけど」
 哲郎の決意表明に、兄貴はしばらく考えていたようだったが、やがて、ふぅっと息を吐いた。
「おまえが受験をそのように軽く考えるようになるなんて――」
 兄貴は肩を震わせている。
 ま、また怒るの? 私が他人事ながら身構えた時だった。
「はっきり言って、俺は嬉しい!」
 兄貴は先刻とはうってかわった態度で、祝福するように乱暴に哲郎を抱き締めた。私はつんのめりそうになった。
「そうだよ! 哲郎! 受験なんてどうだっていいんだよ! ああ! もっとそういう風に考えられるようになれればなぁ! でも、牧師も大変だぞ」
 覚悟の上だよ、と、哲郎は真面目な顔で頷いた。
 結局、ポスター作りは、雄也とえみりが大学から帰ってきてから、ということになった。リョウも参加したがっていたけど。

おっとどっこい生きている 98
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