おっとどっこい生きている 私は思わず声が裏返ってしまった。 「ああ。昨日電話があっただろ。みどりが出かける直前に」 「昨日? なんでもっと早く言ってくれないのよ!」 「後で伝えようと思ったんだよ。俺だって、それどころじゃなかったし」 「大事な話じゃない!」 私はついつい大声を出してしまった。ダンッと机を拳で叩くと、お椀に入った味噌汁が揺れる。 落ち着け。みどり。ちょっと冷静になろう。 兄貴がお父さん達が帰省することを伝え損ねたのは、私が兄貴を怒らせたから? 怒りで我を忘れてたとか――もしかしてあんまり腹が立ち過ぎて忘れてたとか? ちょっと心がちくちくした。それを誤魔化す為に、口を開く。 「で、なんて話したの?」 「会いたいって話してたよ。お互いにさ。それから、哲や雄也の顔も是非見てみたいって」 お父さんはBBWの研究プロジェクトに参加していて、今トンガにいる。お母さんも一緒に。 ほんとにもう、年頃の男と女を置いて(兄と妹とはいえ)、海外行っちゃうなんて、非常識にも程があるわ。 まぁ、そのおかげで、私達は、いろいろな居候と過ごすことができたんだけどね。 そういう意味では感謝、かなぁ。 いつも忙しいだろうに、私達に毎日電話もかけてくるし。トンガでどういう仕事してるんだか、詳しくは聞いてないけど。 「やっと取れた休みだからって、嬉しそうにしていたよ」 「そっか」 「つーわけだから、ちゃんとご馳走作れよ。みどり」 「わかってるわよ」 「みどりくんの作る食事はいつもご馳走だと思うけどなぁ」 「ありがとう。哲郎さん。久々にうんと腕によりをかけて作らなくちゃ」 「頼んだぞ」 兄貴が言った。 「うん!」 リョウは、このこと聞いてたんだろうか。 「ねぇ、リョウ。私の両親が帰ってくること知ってた?」 「うん。一応聞いた」 私が知ったのはリョウよりも後か。ふざけてるわ。 「でも、駿サンは、秋野に直接話したかったみたいだからなぁ……」 「忘れてちゃ意味ないじゃない」 「秋野が駿サンに心配かけるからじゃないか」 リョウは、やけに兄貴の肩を持つ。リョウの言う通りなので、私は返答に詰まった。 リョウは、兄貴にずいぶん懐いている。多分、えみりさんの次にだ。 「で? お父さん達は来月のいつ帰って来るの?」 「第一週の月曜から金曜までだとさ」 「ふぅん」 「へぇ、五日間もご馳走続きか。いいねぇ」 雄也のいやしんぼ。そんな上手くいくわけないじゃない。 今だって、切り詰めながら生活してるんだから。雄也がバイト代入れてくれるようになったのは助かったけど。 「さ、もう食おうぜ。腹減った」 リョウがお腹を撫でながら言う。 「そうね――雄也さんは食べないの?」 「えみりが来るまで待ってる」 「そう。じゃ、私達は先に食べてるわね」 いただきまーす。そう言って、料理に箸をつけた。哲郎は、いつものようにお祈りをしていた。 学校に行くと、グラウンドで将人の姿を見つけた。彼は駆け寄ってきた。 「おはよう。秋野。風邪治ったか?」――私は頷いた。 「おはよう。将人こそ、指、大丈夫?」 「ああ。走るのだったら問題ないだろうって、田村先生が言ってたから、今こうやってランニング」 「将人って、努力家なのね」 「ああ、うん。それしか能がないからさ」 「そんなことないよ」 多分、天賦の才もあると思う。それに努力の磨きがかかれば、鬼に金棒だ。 「それにさ……俺、剣道を甘く見てたと思う」 「謙遜しなくてもいいのに」 私は以前から、将人のことを『よくやってるなぁ』と感心しながら見ていた。それを、『甘く見ていた』なんて言われちゃ、他の部員はどう思うだろう。 やっぱり、『そんなことない』と言うに違いない。さっき私が話したように。 「ほんとだよ。だから、あの時負けたんだ」 東条学園との試合の時か。 「川島道場とか見てるとさ、真剣さが違うんだ。迫力もさ」 なるほど。 私は、将人の懸命さは、知っていたつもりだった。けれど、私は、どこまで彼の必死さを知っていただろう。 そして今、彼は自分の壁を越えようとしている。私は残念ながら、見ていることしかできない。 「がんばってね」 私は将人の肩をぽんと叩いた。 「秋野」 背中に声がした。 「俺のこと、見ててくれよ」 私は振り向いて叫んだ。 「言われなくても見てるわよ!」 「青春ねぇ」 聞き慣れた声がした。はっとした。頼子だ。 「頼子ー。会いたかったー」 「私も」 私達はがしっと握手した。 「知恵熱はどうなった?」 頼子の言葉かけに、 「もうすっかり元気」 と返事した。 「でも、知恵熱ねぇ……」 頼子がにやにや笑った。 「え? 何?」 「知恵熱ってのは、子供が発するもんじゃないの?」 私は子供並みか?! 「ああ。気ぃ悪くしないで。本当のことを言っただけだから」 頼子の遠回しな皮肉に気付かぬほど、私は馬鹿ではない。だからといって、それで怒るほど子供でもない……はずだ。夢の中のあの子には怒ったけど。えっ? 充分子供だって? ほっといてよ。 「うちのお父さんも、気にしてたわよ」 松下先生か……。うちの学校の教頭で、話がわかると生徒の評判も高い。おまけにロマンスグレーのナイスミドルだ。 「わかった。ありがとうと伝えておいて」頼子は頷いた。 彼女に夢の話をしようかと思ったが、やめた。理由はなんとなくだ。それに、茶化されるのも嫌だった。 それにしても、この子もこんな時間にグラウンドにいるなんて……。 「頼子、アンタ、武田先輩見てたの?」 「あ……うん」 頼子が恥ずかしそうに俯いた。こういうところは恋する乙女なんだなぁ。 よし、恋する乙女同士、剣道部のランニングを眺めているか。私達はハンカチを敷いて並んでコンクリートの階段に座った。 爽やかな風がさらさらと鳴っている。梅雨は明けたのかもしれない。気象庁じゃないからわからないけど。 もう夏に入る。ひんやりした空気が、これから来る暑さの予感を潜めていた。 おっとどっこい生きている 95 BACK/HOME |