おっとどっこい生きている
93
「馬鹿っ!」
 私に言ったその子はどこか頼子に似ていた。
 私、こんな子に馬鹿と言われるほど馬鹿なの?
 冗談じゃない!
 私が飛び起きたのは、見慣れた自分の部屋だった。目の前にはセーラー服がかかっている。
 夢か……。
 でも、今回はまたちょっと違う。
 夢に出てきた子が頼子似だったことはおぼろげながら覚えている。
 それは現実じゃないことはわかっている。
 小さい頃ならともかく、今は頼子は私に向かって「馬鹿」とは言わない。冗談めかして言う時以外は。
 なんだったんだろうな、結局。ま、ただの夢だから、気にしなくていいか。
 時計に目を遣ると、四時三十分だった。
 まだ、時間あるな……。
 私は降りて行って、洗面所に向かった。
 スイッチを入れて、鏡を覗く。いつも通りの自分の顔だ。
 黒いおかっぱ頭。顔立ちは、まあ整っているだろう。黒い瞳。大きな目。長い睫。肌は、そう汚くない。ニキビひとつないのが自慢だ。
 自分ではまあまあ美人な方だと思う。けれど、溝口先輩のような、本物の、掛け値なしの別嬪さんと比べると……。
 いけない……自信喪失してしまう……。
 以前の私だったら気にしないところだったけど。
 今は、将人と付き合っているところだから(キスもまだだけど)。
 将人と溝口先輩なら、きっと似合いの一対になるだろうな……美男美女で。
 ああ、また凹んでしまう。
 第一、私は美人と言うキャラクターではないのだ。はっきり言って。
 美人と言えば、えみりは結構美人だ。最初、どこのキャバ嬢かと思ったけど。彼女は日に日に美しくなっていく。
 夫の雄也も、そんな彼女を慈しんでいる。
 それにしおり。巨乳で顔立ちにはあどけなさが残っていて可愛い。ロリコン君にはたまらないだろうな、と思わせる少女だ。
 幸いにして、将人にはロリコンの気はないみたいだが。
 奈々花も一時期将人を好きだったんだよねー……。
 将人は、なんでもっと美しい娘や優しい娘を選ばずにこんな生意気な私を選んだんだろう……。
 なんだかむしゃくしゃしてきた。もう顔を洗ったら、適当に髪をとかしてここを出よう。
 時間に余裕があるので、私は部屋に戻ると、今まで届いたメールを開いた。一度見たメールばかりだが、友達からのメールは心を和ませる。
 ああ、携帯でコミュニケーションを取っている人達を今まではさめた目で見ていたが、こうやって使ってみると、便利さがよくわかる。
 それは、なかなかわるくない。
 昨日のメールを読み返す。頼子からは、
「大丈夫? 早く元気な姿を見せてね」
 と言うような文が、最後に絵文字入りで書かれていた。
 うん。やっぱり、頼子は思いやりのある子だ。
 さっきのは夢なんだ。
 忘れよう。頭の中から追い出そう。
 五時になったので、朝ご飯の支度をしようと、トントンと階段を下りて行くと、
「おはよー」
 間延びした声に呼び止められた。リョウだ。
 彼はトイレから出て来たようだった。
「おはよう。リョウ」
「なに? 秋野。いつも早いな」
「アンタも早起きね」
「『早起きは三文の得』って言うじゃねぇか」
「アンタ見てると、とてもそうは思えないけど」
「なんだよ。バカにしてんのか?」
「でも、アンタもそういう諺知ってんのね」
 これも皮肉。だけど、リョウはそれには反論しなかった。代わりに、
「ん。ばあちゃんが言ってた」
 と、横顔を向けながら答えた。
「アンタのおばあちゃん?」
「そう――とっくの昔に死んだよ。家族のことは好きじゃないけど、ばあちゃんだけは好きだった」
「あ、じゃあ、私とおんなじだ。私もおばあちゃん子だったもの」
 リョウは、正面を向いて、ふ、と笑った。
「オレなぁ、奇妙な気がすんだけど、ここに来て初めて、自分の家族というもんができた気がする」
 そう言えば。
 リョウは、ストリートミュージシャンで、駅でライブやっていたところを、えみりに拾われてきたんだっけ……。
 なんか、家族にも恵まれていないような話だったけど……。リョウも、そのことについてはあまり詳しく喋ろうとしないし。
 えみりや雄也には、なんだかいろいろ心を開いて話し合っているようだけど。この家が、少しでもリョウの安らぎになったなら、それはそれで私は嬉しい。
「なぁ、秋野」
「なに?」
「――俺、もうちょっとここにいていいかな?」
「もちろんよ」
 私は請けあった。
「――『どうして?』とか、訊かないのか?」
「場合によっては」
「――場合によっては、か。でも、確かに、意味もなく根ほり葉ほり訊かれるよりは、辛くねぇな」
 リョウは、満面の笑みを浮かべた。
 へぇ。案外可愛く笑うじゃない。つられて私も笑う。
「あ、そうそう。駿サン、話があったみたいだよ」
「兄貴が?」
「そう。もうちょっと待てば起きてくると思う。あの人、時々遅いけど」
「そうねぇ。注意しなきゃ」
 私は腰に手を当てた。
 台所に行って、お気に入りの紺のエプロンをつける。
 今日はご飯とお味噌汁、冷蔵庫にしまっていたサンマの梅煮の残り、ズッキーニの油炒め、卵焼きだ。あまり品数はないが、量は多い。
 支度ができると、わやわやと人が集まって来た。
 哲郎は、コップの水を一杯飲み干す。
 えみりがふわーあ、と、ネグリジェ姿であくびをしている。
「えみりさん!」
 私が怒った声をあげても、えみりは、
「なに怒ってんのー?」
 と、ちっともこたえていない。
「男の人達もいるんだから、さっさと着替えてきなさい! でないと、ご飯食べさせないよ!」
「ケチー。みどりが寝込んでた時、アタシが代わりにご飯作ってたこと、知ってるでしょ?」
「それとこれとは別問題!」
「チェー。鬼。元気になった途端にこれなんだから」
 捨て台詞を残してえみりは去った。部屋に戻ったのだろう。
「なに余計なこと言ってんだよ、秋野。せっかくのえみりさんのネグリジェ姿が」
 リョウは残念そうに言う。
「なんだよ、小僧。俺の目の前でそれを言うか」
 雄也がリョウの胸ぐらを掴む。脅かしているつもりらしい。
「少しくらいいいじゃん。えみりサンは雄也サンのものなんだし」
「え? あ、うん。そうだな。あはは」
 雄也は、ぱっとリョウを解放し、嬉しそうに頭を掻く。単純と言うか、無邪気と言うか……。
「あ、そういえば兄貴。私に話って何?」
 私は既にここに来ていた兄貴に尋ねる。またあの問題を蒸し返すつもりじゃ……。だが、それは杞憂だった。
「ああ。来月、親父達が帰ってくるってよ」

おっとどっこい生きている 94
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