おっとどっこい生きている
92
「溝口さんと兄貴はお似合い♪ 溝口さんと兄貴はお似合い♪ 溝口さんと兄貴はお似合い〜♪」
 しおりは、調子っぱずれな声で歌っている。
 うーん、確かにしおりの言う通りかもね。
「これで、ライバルが一人減った〜」
 まだ溝口先輩は、焼けぼっくいに火がついたわけでもあるまいに。しおりったら、煽ってその気にさせるつもりだな。
「よせよ、しおり」
 見かねた麻生が、妹を窘める。
「だぁってぇ、兄貴がしっかりしてないから、溝口さん、桐生さんに目移りしたんだよ。今度こそ、ちゃんと繋ぎ止めておかなくちゃ」
 しおりはウィンクをした。……んじゃないかな。暗くてよく見えないけど。
「おまえはお節介なんだよ」
「兄貴には溝口先輩とうまくいってほしいもん」
「妙子の気持ちが問題だろ」
「わ、私は……」
 今は将人が好きなのよね。わかってるよ。
 将人が知ったらどう思うかな。
 こんな綺麗な人に好かれたら、悪い気はしないだろう。私はお払い箱になったりして。
 いや、将人はそんな人じゃない!
 私はぶんぶんっと首を振った。
「どうしたの? みどりさん」
「べ、別に……」
「ねぇ、みどりさん」
 しおりは耳元でこう囁いた。
「桐生さんのこと、諦めてないからね」
「わかってるわよ」
 でも、私だって将人と別れる気はない。たとえ、居候の男性陣に何を言われようとだ。
 麻生牧師の教会に着いた。
 チャイムを鳴らす。麻生牧師が出て来た。
 しおりは、麻生を背中からぐいっと押した。
「親父……」
「清彦」
 麻生は、父親から視線を逸らす……いや、逸らしたんだと思う。横顔のシルエットが、家の電灯の逆光で浮かび上がる。
「た……ただいま」
 牧師は、しばらく間を置いてから、言った。
「お帰り」
 牧師の奥さんが玄関にやってきた。
「おふくろ……わっ!」
 牧師の奥さん――確か明江さんと言った――は、麻生のところに駆けつけて、抱き締めた。裸足のままだった。
「ママ……」
 しおりは、感極まったような声を出した。
 麻生は、抵抗しなかった。ただ、明江さんのなすがままになっていた。
(良かった……)
 麻生も根っからの悪い人ではない。この両親を見ればわかる。麻生も愛されているのだ。もちろん、しおりも。
 それは、神の愛というより、親の愛かもしれないけど――。
 麻生は、見守られてきたんだなぁ……。
 そりゃ、親達は、やきもきしてたかもしれないけどね。
 麻生は変わるかもしれない。変わらないかもしれないけど。
「妙子さん、みどりさん、ありがとう」
 牧師が礼を言った。
「い、いえ。私達は何も……」
「そうです。かえって余計なお世話だったかなぁ、と……」
 私と溝口先輩は、ほとんど同時に言った。
「溝口さんもみどりさんも、あたしに協力してくれたんだよー」
 しおりは得意そうだった。
「しおり、いい友達に恵まれて幸せだな」
 うん。麻生はともかく、しおりちゃんは友達だ。
「ねぇ、ママ。お腹ぺこぺこ。何か作ってくれない?」
「そうね。妙子さん達も食べてく?」
 麻生の頭を撫でながら、明江さんが申し出た。
「いえ、私、もう帰らないと……」
「私も」
 そう。早く帰らないと。兄貴達が待っている。兄貴は心配しているかもしれない。ちょっと私も自棄になっていたかもしれないけど――それっていけないことだよね。
 結局私は、溝口先輩と一緒に帰ることになった。
「じゃあねー、妙子さん、みどりさん」
 しおりは、私達が見えなくなるまで手を振っていた。私は置かせてもらっていた自転車を引いていく。
「ねぇ、誤解してるんじゃないならいいんだけど――」
 二人きりになると、溝口先輩が口を開いた。
「麻生くんね、悪い人じゃないのよ」
「うん。わかってる」
「本当はまっすぐなのね。素直過ぎるのよ。だから、一旦曲がると、修正が難しいのよね」
 溝口先輩は、端正な横顔を見せた。
「でも、あんなにいい家族がいるんだから」
「そうね。それに賭けましょ」
 ――麻生がちゃんと更生するには、どのぐらいかかるか――それは神のみぞ知る。
 溝口先輩――妙子さんは、私を家まで送ってくれた。
 お礼を言ってさよならし、自転車を止めて、わたしは玄関の扉を開けた。
 ドンドン、と足音が響いた。低音って、割と響くのね。
 現われたのは、兄貴だった。
 私が言葉を紡ごうとすると――
 バシッ!
 いきなり殴られた。幸いグーではなかったが。
「このバカ! こんな時間まで何してた!」
 えー、この場合、何と言えばいいのだろう……。これは、私が悪いんだろうな。やっぱり。
「詳しく説明しろ。どこ行ってたか!」
 ――私は、兄貴に、今までの経緯を明らかにした。
「ふぅん。じゃあ、もうそいつらには巻き込まれるな」
 巻き込まれるどころか、もうどっぷりその事情にハマっちゃってるんですけど……。
「心配だったんだぞ。バカみどり」
「ごめん……」
 バカと言われて、いつもなら怒るところだけど、今は引け目を感じて、何も言えなかった。
 兄貴と一緒の家にいたくない、なんて思った時もあったけど、麻生の家族見てると何となく懐かしくなって、早く帰りたくなってきたんだよね。
「哲郎に、なんか作ってやれよ。もう熱下がったろ」
 そうね。熱はないみたい。まだ少しだるいけど。おじやなんてどうだろう。私も食べたいから二人分。
「あ、そうだ。みどり」
 兄貴が呼び止めた。
「俺も……おまえの手料理が食いたい」
 わかった。三人分ね。
 そして――闊達な兄貴らしくもなく、逡巡しているようだったが、やがて、顔を背けて呟いた。
「――……俺のせいか?」
 何が『俺のせい』なんだろう。私はもう全然、そんなこと思ってないのに。でも、兄貴が特別自意識過剰というわけでもない。兄貴のおどけた仮面の下に、私の知らないものがあった。それが気になるといえば気になる。
 とりあえず私は黙って首を横に振る。

おっとどっこい生きている 93
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