おっとどっこい生きている 秋野家の朝は早い。 私はいつも、五時に起きている。習慣を変えるのは、気持ちが悪い。 隣の布団に寝ていた純也がむずがった。 「あー、おむつかな、ミルクかな」 大声で泣く純也をあやしてやる。 ゆうべ、一度はへそを曲げて、自分の部屋でゆっくり寝ようとしていた私だけど、あの赤ちゃんのことを思い出した。 そして、みんな酔い潰れているに違いない深夜に、こっそり降りて来て、純也を部屋に抱いて行ったのだ。 えみりにも承諾を得たけど、へべれけだったから、どこまでわかっていたものやら。 私はふぅと、溜め息をつく。 おむつを替えてやる。経験不足は補えないかもしれないが、私はおばあちゃんに似て、器用なのだ。こういう部分は、おじいちゃんやお母さんに似なくてよかったな。 それでも泣きやまない。 仕方ない。えみりに相談するか。 「うえー、頭痛い」 私が来たとき、開口一番、えみりが言った。 「お水ちょうだい。みどり」 「わかったわかった。それより、純也が何で泣いてるか、知ってる?」 「んー、この泣き方は、お腹がすいてんのね。すぐおっぱいやるから、水」 「はいはい」 私は台所へ行って、水を汲んで来た。コップを干して、おっぱいをやりながら、えみりが言った。 「この毛布、みどりがかけてくれたの? それとも駿ちゃん? 哲郎?」 「私よ」 哲郎は、壁に凭れたまま、毛布にくるまって眠っていた。雄也は、そんなもの吹っ飛ばしていた。 ブランケットを用意した人物の予想の中に、雄也が入っていないのが笑えた。 「ん? 何笑ってんの?」 「なんにも」 「みどりって、優しいのね」 「え?」 きつい性格だとはよく言われるけど、優しいって、言われ慣れてない。 「というか、面倒見がいいみたい。純也のこと、見てくれてありがとね。夜泣き、大変だったでしょ」 「ん、まぁ」 でも、えみりだって、毎日していることなんだから――多分――と思う。 母乳を飲み終え、純也は機嫌を直したようだった。えみりも、胸を服にしまう。とんとんと、子供の背中を叩いてげっぷをさせる。 「卵粥作るけど、えみりも食べる?」 私の提案に、 「わお! 卵粥大好き! 駿ちゃん、雄也、哲郎、起きて! 卵粥だって!」 えみりは子供のようにはしゃいでいる。 雄也の足元で寝てた兄貴も飛び起きた。 「おー、卵粥か! みどりの卵粥は絶品だもんな」 「また始まった。駿のシスコン。それに、まだこんな時間じゃないか」 「五時起きなんて、珍しくないわよ」 雄也の文句に、私は反発した。 「ジジババじゃあるまいし」 「雄也さん、失礼ね」 「そういえば、オレんとこのババァも、異常に早起きだったもんな。うん、似てるぜ。おまえとオレのババァ。気が合うかもな」 「ババァはよしなさいよ。あなただって、いくら何でも、母親目の前にしてババァなんて言わないでしょ?」 「オレは言うぜ」 「自慢にならないでしょ!」 「おいおい、おまえら、朝っぱらから喧嘩すんなよ。二日酔いに響くぜ」 兄貴がこめかみを押さえている。 「おう。確かに胃がムカムカするぜ。早く食べさせてくれよ。絶品の卵粥とやらを」 雄也がわざと怒らせるようにしか聞こえない台詞を言う。哲郎はまだ眠っていた。 「いいわよ。食べさせてあげようじゃないの」 その手の挑発に乗ってしまうのが私の悪いところ。あーあ。 「おっ、うめぇ」 一口頬張り、雄也が言った。 「だろう?」 私の言いたいことを、兄貴が上手く代弁してくれた。こういうときは、きょうだいなんだなって思う。 「みどり、いいお母さんになれるね。貧乳だけど」 えみりが言った。 「貧乳は余計よ」 「いい相手が見つかるね、きっと。好きな人、誰かいないの?」 えみりの言葉に、私は桐生将人の顔を思い浮かべた。 「あっ、赤くなった。誰か心当たりがいるのね」 「そ、そんなんじゃないってば」 兄貴は、昨夜とはうってかわって大人しく、お粥をすすっていた。 ごんっ。 鈍い音がした。 今まで、朦朧としていたらしい哲郎が、近くの柱に、頭をぶつけたのだ。 「もうー、何やってのんのよ、哲郎。朝ご飯、アンタの分まで食べちゃったわよ」 「ええっ?!」 「嘘よ。哲郎さんの分も、ちゃんと取ってあるわ」 えみりのちょっとした意地悪に、フォローを入れてやる。 「なぁんだ。良かった。僕だけ食いっぱぐれるかと思った」 「もう少し起きるのが遅かったら、そうなってたかもね」 皆でどっと笑った。 「それにしても、美味しそうだね」 「一口やっか。ほれ」 兄貴の匙から、哲郎がぱくんと魚のように食いつく。 「うんっ! ほっぺた落ちそう」 「味付けに、コツがあるのよ」 私もいささか得意になる。 「さ、哲郎さんの分もわけてくるね」 私が台所に向かおうとしたときだった。 「なぁ、駿。本当に、ずっとここにいていいんだな?」 という、雄也の恐ろしい問いが、後ろから聞こえた。 「ああ。好きなだけいたまえ。赤ん坊は、みどりが世話するようだしさ。ま、子供のことさえ片がつけば、俺としては構わないわけ」 「なっ、ちょっと……」 兄貴の口から発した、更に恐ろしい回答に、私は反論しようとした。 確かに昨日は私もこの二人を置いてあげようと言ったけどさぁ……あれは気の迷いっていうか、ものの弾みってもので……。純也があまり可愛かったから……。 「えみりも気に入ったみたいだしさ。ま、ババァみたいな奴がいるけど、若くて可愛いだけマシってもんさ」 雄也……それって、女性蔑視だわよ。女は可愛けりゃいいなんて、いつの時代の人間よ。 まぁ、私も、時代遅れって、呼ばれてるけどね。 「そうねぇ……みどりとはもうマブダチだしぃ」 誰がマブダチよ、誰が! 哲郎だけだって、困惑したというのに、その上厄介者が二人も! あ、純也は例外。赤ちゃんは、誰かに庇護してもらわないと、育たないもんね。 「わかった。その代わり、食費は入れてよね」 そう条件づければ、渡辺夫妻は、子供を連れて(それはちょっと残念だけど)、逃げ帰るかと思った。だが……。 「了解。アタシと雄也のバイト代は、必ず入れるから」 ええっ! そんなに簡単に、OKしちゃうの?! 「む……無理しないでいいのよ」 「僕、お金ないんだけどなぁ」 哲郎が間延びした、だけど、切実さを秘めた声で言った。 「おい、みどり! みんな俺のダチなんだ。哲郎の境遇は、おまえも知ってるだろ? 金に困ってるわけじゃないし、あるとき払いでいいんじゃないか?」 「ねぇ、聞いた。家賃はあるとき払いでいいって。こんな美味しい下宿、他に知らないわよ。ありがとね。駿ちゃん。ありがとう、みどり」 声に涙をにじませながら、えみりは、私達二人の手を取った。 「まぁ、上等の部類かな」 「良かったぁ。これで、毎日まともなものが食べられる」 男どもの勝手な意見を無視し、私はこう叫びたかった。 (もう、勝手にして!!) おっとどっこい生きている 10 BACK/HOME |