おっとどっこい生きている
9
 話は前後するけれど――
 秋野家の朝は早い。
 私はいつも、五時に起きている。習慣を変えるのは、気持ちが悪い。
 隣の布団に寝ていた純也がむずがった。
「あー、おむつかな、ミルクかな」
 大声で泣く純也をあやしてやる。
 ゆうべ、一度はへそを曲げて、自分の部屋でゆっくり寝ようとしていた私だけど、あの赤ちゃんのことを思い出した。
 そして、みんな酔い潰れているに違いない深夜に、こっそり降りて来て、純也を部屋に抱いて行ったのだ。
 えみりにも承諾を得たけど、へべれけだったから、どこまでわかっていたものやら。
 私はふぅと、溜め息をつく。
 おむつを替えてやる。経験不足は補えないかもしれないが、私はおばあちゃんに似て、器用なのだ。こういう部分は、おじいちゃんやお母さんに似なくてよかったな。
 それでも泣きやまない。
 仕方ない。えみりに相談するか。
「うえー、頭痛い」
 私が来たとき、開口一番、えみりが言った。
「お水ちょうだい。みどり」
「わかったわかった。それより、純也が何で泣いてるか、知ってる?」
「んー、この泣き方は、お腹がすいてんのね。すぐおっぱいやるから、水」
「はいはい」
 私は台所へ行って、水を汲んで来た。コップを干して、おっぱいをやりながら、えみりが言った。
「この毛布、みどりがかけてくれたの? それとも駿ちゃん? 哲郎?」
「私よ」
 哲郎は、壁に凭れたまま、毛布にくるまって眠っていた。雄也は、そんなもの吹っ飛ばしていた。
 ブランケットを用意した人物の予想の中に、雄也が入っていないのが笑えた。
「ん? 何笑ってんの?」
「なんにも」
「みどりって、優しいのね」
「え?」
 きつい性格だとはよく言われるけど、優しいって、言われ慣れてない。
「というか、面倒見がいいみたい。純也のこと、見てくれてありがとね。夜泣き、大変だったでしょ」
「ん、まぁ」
 でも、えみりだって、毎日していることなんだから――多分――と思う。
 母乳を飲み終え、純也は機嫌を直したようだった。えみりも、胸を服にしまう。とんとんと、子供の背中を叩いてげっぷをさせる。
「卵粥作るけど、えみりも食べる?」
 私の提案に、
「わお! 卵粥大好き! 駿ちゃん、雄也、哲郎、起きて! 卵粥だって!」
 えみりは子供のようにはしゃいでいる。
 雄也の足元で寝てた兄貴も飛び起きた。
「おー、卵粥か! みどりの卵粥は絶品だもんな」
「また始まった。駿のシスコン。それに、まだこんな時間じゃないか」
「五時起きなんて、珍しくないわよ」
 雄也の文句に、私は反発した。
「ジジババじゃあるまいし」
「雄也さん、失礼ね」
「そういえば、オレんとこのババァも、異常に早起きだったもんな。うん、似てるぜ。おまえとオレのババァ。気が合うかもな」
「ババァはよしなさいよ。あなただって、いくら何でも、母親目の前にしてババァなんて言わないでしょ?」
「オレは言うぜ」
「自慢にならないでしょ!」
「おいおい、おまえら、朝っぱらから喧嘩すんなよ。二日酔いに響くぜ」
 兄貴がこめかみを押さえている。
「おう。確かに胃がムカムカするぜ。早く食べさせてくれよ。絶品の卵粥とやらを」
 雄也がわざと怒らせるようにしか聞こえない台詞を言う。哲郎はまだ眠っていた。
「いいわよ。食べさせてあげようじゃないの」
 その手の挑発に乗ってしまうのが私の悪いところ。あーあ。

「おっ、うめぇ」
 一口頬張り、雄也が言った。
「だろう?」
 私の言いたいことを、兄貴が上手く代弁してくれた。こういうときは、きょうだいなんだなって思う。
「みどり、いいお母さんになれるね。貧乳だけど」
 えみりが言った。
「貧乳は余計よ」
「いい相手が見つかるね、きっと。好きな人、誰かいないの?」
 えみりの言葉に、私は桐生将人の顔を思い浮かべた。
「あっ、赤くなった。誰か心当たりがいるのね」
「そ、そんなんじゃないってば」
 兄貴は、昨夜とはうってかわって大人しく、お粥をすすっていた。
 ごんっ。
 鈍い音がした。
 今まで、朦朧としていたらしい哲郎が、近くの柱に、頭をぶつけたのだ。
「もうー、何やってのんのよ、哲郎。朝ご飯、アンタの分まで食べちゃったわよ」
「ええっ?!」
「嘘よ。哲郎さんの分も、ちゃんと取ってあるわ」
 えみりのちょっとした意地悪に、フォローを入れてやる。
「なぁんだ。良かった。僕だけ食いっぱぐれるかと思った」
「もう少し起きるのが遅かったら、そうなってたかもね」
 皆でどっと笑った。
「それにしても、美味しそうだね」
「一口やっか。ほれ」
 兄貴の匙から、哲郎がぱくんと魚のように食いつく。
「うんっ! ほっぺた落ちそう」
「味付けに、コツがあるのよ」
 私もいささか得意になる。
「さ、哲郎さんの分もわけてくるね」
 私が台所に向かおうとしたときだった。
「なぁ、駿。本当に、ずっとここにいていいんだな?」
という、雄也の恐ろしい問いが、後ろから聞こえた。
「ああ。好きなだけいたまえ。赤ん坊は、みどりが世話するようだしさ。ま、子供のことさえ片がつけば、俺としては構わないわけ」
「なっ、ちょっと……」
 兄貴の口から発した、更に恐ろしい回答に、私は反論しようとした。
 確かに昨日は私もこの二人を置いてあげようと言ったけどさぁ……あれは気の迷いっていうか、ものの弾みってもので……。純也があまり可愛かったから……。
「えみりも気に入ったみたいだしさ。ま、ババァみたいな奴がいるけど、若くて可愛いだけマシってもんさ」
 雄也……それって、女性蔑視だわよ。女は可愛けりゃいいなんて、いつの時代の人間よ。
 まぁ、私も、時代遅れって、呼ばれてるけどね。
「そうねぇ……みどりとはもうマブダチだしぃ」
 誰がマブダチよ、誰が!
 哲郎だけだって、困惑したというのに、その上厄介者が二人も!
 あ、純也は例外。赤ちゃんは、誰かに庇護してもらわないと、育たないもんね。
「わかった。その代わり、食費は入れてよね」
 そう条件づければ、渡辺夫妻は、子供を連れて(それはちょっと残念だけど)、逃げ帰るかと思った。だが……。
「了解。アタシと雄也のバイト代は、必ず入れるから」
 ええっ! そんなに簡単に、OKしちゃうの?!
「む……無理しないでいいのよ」
「僕、お金ないんだけどなぁ」
 哲郎が間延びした、だけど、切実さを秘めた声で言った。
「おい、みどり! みんな俺のダチなんだ。哲郎の境遇は、おまえも知ってるだろ? 金に困ってるわけじゃないし、あるとき払いでいいんじゃないか?」
「ねぇ、聞いた。家賃はあるとき払いでいいって。こんな美味しい下宿、他に知らないわよ。ありがとね。駿ちゃん。ありがとう、みどり」
 声に涙をにじませながら、えみりは、私達二人の手を取った。
「まぁ、上等の部類かな」
「良かったぁ。これで、毎日まともなものが食べられる」
 男どもの勝手な意見を無視し、私はこう叫びたかった。
(もう、勝手にして!!)

おっとどっこい生きている 10
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