おっとどっこい生きている
10
 ご飯も食べ終わって、身仕度も整えた私達は(一時間も化粧と朝シャンの為に、洗面所を占拠していたえみりのことを、私は忘れていない)連れ立って学校へと向かった。私は自転車を引いて行く。
 私の通っている白岡高校と、兄貴達の通っている大学とは、途中まで道のりが同じなのだ。
 私は、春休みだから、そんなに慌てなくてもいいんだけど、早く来てはいけないなんてこともないもんね。
 兄貴達もサークルの集まりとかで、どうせだったら、私と一緒に朝のうちから大学に行こうと決めたらしい。せっかく早起きしたのだからと。
 私は兄貴に訊きたいことがあった。
 純也は、当然の如く、浪人の哲郎に預けることにした。赤ちゃんを抱いた哲郎は、嬉しそうだった。尤も、彼はいつでも嬉しそうだけれど。
「はい、パパとママを、お見送りしましょうねぇ〜」
 哲郎は、まだ腫れぼったい純也の手を取り、バイバイと振って見せた。
 あの人、いいパパになれるかも……。
 自分の結婚相手に……と考えるのは、ふるふる冗談ではなかったが。
 もう浪人辞めて、結婚して、専業主夫に収まればいいんじゃないかと思った。
 しかし、私はそれどころではなかった。
「ねぇ、雄也さん、えみり、先行っててくれる?」
「え? いいけど、駿ちゃんに何か用事?」
「うん。ちょっとね」
 えみりの台詞に、私は口ごもった。
「駿。手ぇ出すなよ。近親相姦は犯罪だぞぉ」
「バカやろ。雄也。そんなことしか頭にないのかよ」
「結婚前にもアタシ相手に、すごい口説き文句連発してたのよ。この人。もう慣れちゃったけど」
 私が気色ばむと――多分、とても怖い顔をしてたんだろう――、えみりが笑いながら言った。
「じゃ、オレ達は行こうぜ。えみり。久しぶりに夫婦水入らずだな」
「そうね。最近なかなかなかったね。あんたのお母さんや、純也がいたもんねぇ」
 二人が離れて行き、もういいだろうという距離まで行ってしまうと、私は兄貴に尋ねた。
「どういう風の吹き回しなの? 昨日は、あんなに赤ん坊を家に連れてくるなって、反対してたじゃない」
「雄也とえみりだけ入居させといて、赤ん坊は放りっぱなしなんて、できるわけないだろう? それに、哲郎に言われたんだ。『トラウマを治すいい機会だよ』と」
「トラウマ?」
「赤ん坊嫌いになったトラウマさ」
 ちょっと荒療治だと、哲郎も言ってたけどさ、と、兄貴は、ちょっと辛そうに微笑する。
 ああ、私にも責任があるんだ。兄貴もこんな顔するなんて。
 私は、兄貴の笑った顔しか見たことないと思ってたけど、もしかしたら、それ以外の顔は、頭の中から閉め出していたのかもしれない。
 だとしたら、私は人の心がわからないエゴイストだ。
「兄貴! もし大変だったら、私に言ってね! 私、何でも手伝うから!」
「あ、ああ……。わかったよ」
 些かたじたじとなりながら、兄貴は返事した。
「あ」
 桜の花びらが一枚、風に乗ってひらりと舞い散る。
「春だなぁ」
 兄貴が感に堪えたように呟いた。私も同じ気持ちだった。
 ふと、兄貴と心が通じ合ったような気がした。それは、ずっと昔、私が幼い頃以来だった。
 おじいちゃんとおばあちゃん……二人も桜の花が好きだったっけ。
 おじいちゃん、おばあちゃん、私達、少しは成長したかな。
 縁側で、おじいちゃんは、
「まだまだじゃのう」
と言い、おばあちゃんは黙ってお茶をすすっている。そんな光景が、目に浮かんだ。
 厳しいところもあったけど、私が友達に泣かされて帰ってきたとき、
「おお、おお。泣くな泣くな。よしよし、おじいちゃんが面白い話をしてあげよう」
と私を膝に乗せ、昔話を――桃太郎や、猿蟹合戦や――語って聞かせてくれた。
 私が日本の文学に興味を持ったのは、それがきっかけだったのだろうと思う。
 ただ、私は、桃太郎にやっつけられた鬼が可哀想だと言い、更に泣いて、おじいちゃんを困らせたようであるが――。
「ん? 何笑ってんだ? みどり」
「ちょっと昔を思い出してただけ」
「――そっか」
 兄貴は間を置いてから、また口を開いた。
「俺なぁ、ほんとはじいちゃんに怒られたかったんだ」
 そう、ぽつりと。
 しょっちゅう怒られてたじゃない――そんな言葉が、危うく喉まで出かかった。
「もう、みどりも知ってるよな。哲郎が、あのこと言ったって、教えてくれたから――俺が子供の頃、過失起こしたとき、俺、本当におまえが死んじゃうんじゃないかと思ってさぁ……じいちゃんに謝ったんだけど、じいちゃん、黙って聞いてて、俺が話し終わると、頭、ぽんぽんと撫でてくれて……怒られるよりも心苦しかったよ」
 わかる。その気持ち。
 兄貴にも、そんなプライドがあったんだ。ということは、兄貴も、おじいちゃん――秋野正造の血を受け継いでいるのだ。
「そんなに反省しているんだからさ、もう同じようなことは起きないって。いつまでも自分を責めてないで、私達も純也くん可愛がってやろうよ」
「そうだな」
 兄貴が洟をすすった。
「あ、もしかして、兄貴、泣いてるの?」
「馬鹿ッ! これは花粉症だッ!」
 嘘が下手だね。兄貴。健康優良児のくせにさ。
 きょうだいの絆を確かめ合ったところで、私達は十字路で別れた。

 私は、ご機嫌で学校の廊下を通って行った。
 朝の廊下って大好き。特に春はね。
 窓から入る日差しが、暖かく感じられる。
 今日は何読もうかなぁ。
 そろそろ作品も書かなくちゃいけないんだけど、今日は早く来たんだから、好きな本を読もう!
 私は、いそいそと図書室(先に部室と書いたけど、文芸部の部室は、図書室なのだ)に足を運ぼうとした。
 桐生将人と行きあったのは、そんなときだった。
 私は目礼をした。学年も違うし、そんなに親しいというわけでもなかったからだ。せいぜい、すれ違ったり、遠くから見ていた程度で。
 だから、私は、ろくろく彼と会話を交わしたことはなかったのだ。名前を知っていたのは、強くて優しいって有名だからだ。あと、剣道部の部長で知名度もあるし。そうでなかったら、私には彼は、時折姿を現す、憧れの君で終わっていただろう。
「あの――」
 桐生将人が声を発した。
 え? 今、私に何か言おうとしてる?
 自分が自意識過剰でないのは、他に通行人がいないことから見てもわかった。
「秋野――みどりさんだよね」
「はい。そうですが――」
 こら。静まれ、心臓。
 私、電話で応対するような声出しちゃった。
 それにしても、彼が私を知っていたのは驚きだ。
「朝、早いんだね。君も」
「き、桐生先輩こそ――」
 私はどもりながら答えた。『桐生先輩』だって。いつもは、心の中でとはいえ、『桐生将人』と呼び捨てしてたのに。
「僕のこと、知っていてくれたんだね」
「先輩の方こそ――」
 私達は、顔を見合せて、くすっと笑った。
「僕達、いつも朝練してるから」
「そうなんですか」
 たゆまぬ努力を重ねているんだ。彼も。だから、強いんだ。彼の、名声の陰で流す汗を、私は知らない。知っているのは、剣道部の部員くらいだろうか。あ、そういえば、同じ組の剣道部の山中が、桐生将人は、部員の誰にでも公平に接してくれる、と喋っていたのを耳にしたことがある。
「今から部活?」
「う――うん」
 私は、つい下を向いてしまった。けど、顔を合わせないのは失礼だろうと頭を上げると、相手の頬に、ぱっと朱が飛び散った。
「もし、良かったら――部活、終わってからでいいから、僕達の練習、見に来ないかい?」
 え?
 もう一回――私は、桐生将人の台詞をリピートする。
『僕達の練習、見に来ないかい?』
 そ、それって、もしかして――
 はっ、何意識してるんだろ、私。
 ただの、部活の勧誘かもしれないじゃない。私は一年生じゃないし、威勢の割には、運動音痴で非力だけど。
 でも、なんで、桐生将人が私を知っているんだろう。
 そのまま、沈黙が流れていった。私も桐生将人も、一言も発さない。
 そこでいたたまれなくなったのは、私の方だった。
「ご――ごめんなさいッ!」
 私は走って桐生将人の傍をすり抜けた。
 彼がどんな表情をしているか、私にはわからなかった。

 図書室に着いた私は、ぼーっとしながら本をひもといていた。しかし、一分とて頭に入らなかった。
(惜しかったかなぁ……やっぱり)
 僅かながらでも好意を抱いていた相手に、あの態度はなかったかなぁ、と思わないでもなかったけれど。
 わたしが考えていたのは、「惜しかったなぁ」ということだけだった。
 お近づきになれるチャンスだったのに、とか、いくらかっこよくても、相手は生身の人間。幻滅するところだったかも――とか、いろいろ頭にそんな言葉達が、舞っては消えた。
 そして、私は、はたと気が付いた。私が、桐生将人の人格を無視していたことに。
 桐生将人は、私の憧れの対象だったのだ。
 でも、本人のことは、全然、これっぽっちもわかっていない。
 それは、相手に失礼なことなのではないか。
 私は、桐生将人本人のことを知りたくなった。
 彼が何を考えているか、どうして、剣道に青春を賭けているのか、などを。
 私は、本を閉じて、――いささか勇気を鼓舞しながら――図書室を出て行った。

 数分後、私は、剣道部の部室にいた。
 うちの高校は、剣道が強いので、剣道部専用の部室が与えられている。顧問は田村先生。こっちを見ている。
「お。文化部が珍しく、見学か? それとも、さしものカタブツも、桐生に惹かれてやってきたのか」
 田村先生はからかったが、私は、この先生が、少なくとも嫌いではない。情に厚く、どんな生徒も分けへだてしない。ただ、ちょっとデリカシーがないのが玉に瑕だけれど……。
「はい、そうなんです」
 私も負けてはいなかった。
「ふふふ。近頃の女生徒ときたら――桐生は、練習中だぞ」
「はい。わかってます」
「今、ちょっと呼ぶからな。桐生! 桐生!」
 桐生将人が顔を覆っていた防具を取った。精悍な顔が現われた。
「ほら。少し休んでいいから、彼女と話して来い!」
 田村先生が彼に近寄って行って、肩をどやした。
「秋野さん、来てくれたんだね」
「うん。――迷惑じゃなかった?」
「はっきり言って。君は僕の誘いを一度は断ったわけだしね」
 そう言うと、桐生将人はにっと笑った。子供めいた彼を覗いた気がした。
「やっぱり……ちょっと練習見てみたかったからかな。ほら、私、小説とか書いてるから、そういうの見るの、取材になるかなぁと思って」
「文芸部って、小説とかも自分で書くんだね。そうそう。僕、君の小説読ませてもらったよ」
 桐生将人が、私の作品を読んでくれてた?
「で? どうだった?」
 平常心を失った私は、勢い込んでそう尋ねた。
「ううん。稚拙なところも否めないけど、全体的に、よく書けてると思う。何よりも、描写が良いね。君、将来作家になるの?」
「――よくわからない」
「秋野さんでもそうなんだ。あんなに自分を持っていて、何でもわかっていそうなのに」
「そりゃ、将来のことはよくわからないわよ」
「でも、見込みはあると思う。これからも頑張ってね」
 桐生将人は、的確な論評を、私にくれた。それは、誰かに言って欲しかった言葉だった。こんな感想が咄嗟に出てくるとは、彼も相当本を読んでいるということだ。それこそ、まさしく文武両道だ。
「ねぇ、桐生さんは、どうして私のことを知ってたの?」
 白岡高校はマンモス校だ。学力水準は決して低くないが、いろいろな人がいる。同じ学年でも、名前も顔も知らない人間がいるくらいだ。
「あはは。君、案外自分のことわかってないね。この白岡高校一の論客を、知らない人なんているものか。君が生徒総会で、一斉に罵声を浴びせかけられたことも知ってるよ。その一週間、君は文句の矢面に立たされていたね。それでも、凛としているところに、僕は好感を覚えたけどね」
「え?」
「君は、君が想像してるより、遥かに有名だってことさ」
 それを言うなら、桐生将人だってそうだと思うけど――
「さぁてと。そろそろ竹刀が恋しくなってきたな。秋野さん、どうだい? 見ていく?」
「うんっ!」
 桐生将人が、面頬をかぶる。
 練習試合が始まった。
 相手の防具を、竹刀が打つ。
 掛け声がいくつも辺りでするが、私は桐生将人の姿を目で追うのに忙しく、周りの喧騒など感じなかった。
 戦い方が流れるようで美しい。
 品格、とでもいうのだろうか。桐生将人には、他の人間にはない「何か」があった。それが、威厳を感じさせる。
 私は剣道のことについては門外漢だが、それでも、彼の実力が他の部員より水際立ったものだというのがわかる。
 やがて、試合は終わった。私は、終わったことにも気付かなかった。
「秋野」
 田村先生が、私の肩を叩いた。
「どうだ? 桐生――あんたの彼の戦いぶりは」
「はい。とても綺麗でした」
「綺麗、か」
 田村先生は私から離れ、溜め息を吐いた。
「あのままじゃ、あいつは駄目だな」
 私は首を傾げた。どこが悪かったんだろう。
「おっと、こいつは聞かなかったことにしてくれ。おまえさんには、関係ないことだからな」
 先生は、耳の後ろを掻きながら、他の生徒のところへ向かう。
 部員達も、熱心に剣道に打ち込んでいる。それを思うと、急に、桐生将人しか見ていなかった自分が恥ずかしくなった。
 だが、ついつい桐生将人の方に目が行ってしまう。最初の頃は、慌てて他の方に視線を移すのだったが、いつしか、桐生将人の姿に引き込まれる自分を許すようになった。
 私は、『面』と『胴』と『籠手』しか知らない。桐生将人がいなかったら、剣道は退屈なだけであった。
「ああ、いい汗かいた。なんだ。秋野、待っててくれてるの?」
「まぁ、そんなとこ」
 桐生将人は、私のことを『秋野』と呼び捨てにした。
 言葉遣いもフランクなものに変わっていき、今日一日で、私達は、君僕の関係になっていた。
 そして、私は桐生将人のことを――ますます好きになっていった。

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