おっとどっこい生きている 私の通っている白岡高校と、兄貴達の通っている大学とは、途中まで道のりが同じなのだ。 私は、春休みだから、そんなに慌てなくてもいいんだけど、早く来てはいけないなんてこともないもんね。 兄貴達もサークルの集まりとかで、どうせだったら、私と一緒に朝のうちから大学に行こうと決めたらしい。せっかく早起きしたのだからと。 私は兄貴に訊きたいことがあった。 純也は、当然の如く、浪人の哲郎に預けることにした。赤ちゃんを抱いた哲郎は、嬉しそうだった。尤も、彼はいつでも嬉しそうだけれど。 「はい、パパとママを、お見送りしましょうねぇ〜」 哲郎は、まだ腫れぼったい純也の手を取り、バイバイと振って見せた。 あの人、いいパパになれるかも……。 自分の結婚相手に……と考えるのは、ふるふる冗談ではなかったが。 もう浪人辞めて、結婚して、専業主夫に収まればいいんじゃないかと思った。 しかし、私はそれどころではなかった。 「ねぇ、雄也さん、えみり、先行っててくれる?」 「え? いいけど、駿ちゃんに何か用事?」 「うん。ちょっとね」 えみりの台詞に、私は口ごもった。 「駿。手ぇ出すなよ。近親相姦は犯罪だぞぉ」 「バカやろ。雄也。そんなことしか頭にないのかよ」 「結婚前にもアタシ相手に、すごい口説き文句連発してたのよ。この人。もう慣れちゃったけど」 私が気色ばむと――多分、とても怖い顔をしてたんだろう――、えみりが笑いながら言った。 「じゃ、オレ達は行こうぜ。えみり。久しぶりに夫婦水入らずだな」 「そうね。最近なかなかなかったね。あんたのお母さんや、純也がいたもんねぇ」 二人が離れて行き、もういいだろうという距離まで行ってしまうと、私は兄貴に尋ねた。 「どういう風の吹き回しなの? 昨日は、あんなに赤ん坊を家に連れてくるなって、反対してたじゃない」 「雄也とえみりだけ入居させといて、赤ん坊は放りっぱなしなんて、できるわけないだろう? それに、哲郎に言われたんだ。『トラウマを治すいい機会だよ』と」 「トラウマ?」 「赤ん坊嫌いになったトラウマさ」 ちょっと荒療治だと、哲郎も言ってたけどさ、と、兄貴は、ちょっと辛そうに微笑する。 ああ、私にも責任があるんだ。兄貴もこんな顔するなんて。 私は、兄貴の笑った顔しか見たことないと思ってたけど、もしかしたら、それ以外の顔は、頭の中から閉め出していたのかもしれない。 だとしたら、私は人の心がわからないエゴイストだ。 「兄貴! もし大変だったら、私に言ってね! 私、何でも手伝うから!」 「あ、ああ……。わかったよ」 些かたじたじとなりながら、兄貴は返事した。 「あ」 桜の花びらが一枚、風に乗ってひらりと舞い散る。 「春だなぁ」 兄貴が感に堪えたように呟いた。私も同じ気持ちだった。 ふと、兄貴と心が通じ合ったような気がした。それは、ずっと昔、私が幼い頃以来だった。 おじいちゃんとおばあちゃん……二人も桜の花が好きだったっけ。 おじいちゃん、おばあちゃん、私達、少しは成長したかな。 縁側で、おじいちゃんは、 「まだまだじゃのう」 と言い、おばあちゃんは黙ってお茶をすすっている。そんな光景が、目に浮かんだ。 厳しいところもあったけど、私が友達に泣かされて帰ってきたとき、 「おお、おお。泣くな泣くな。よしよし、おじいちゃんが面白い話をしてあげよう」 と私を膝に乗せ、昔話を――桃太郎や、猿蟹合戦や――語って聞かせてくれた。 私が日本の文学に興味を持ったのは、それがきっかけだったのだろうと思う。 ただ、私は、桃太郎にやっつけられた鬼が可哀想だと言い、更に泣いて、おじいちゃんを困らせたようであるが――。 「ん? 何笑ってんだ? みどり」 「ちょっと昔を思い出してただけ」 「――そっか」 兄貴は間を置いてから、また口を開いた。 「俺なぁ、ほんとはじいちゃんに怒られたかったんだ」 そう、ぽつりと。 しょっちゅう怒られてたじゃない――そんな言葉が、危うく喉まで出かかった。 「もう、みどりも知ってるよな。哲郎が、あのこと言ったって、教えてくれたから――俺が子供の頃、過失起こしたとき、俺、本当におまえが死んじゃうんじゃないかと思ってさぁ……じいちゃんに謝ったんだけど、じいちゃん、黙って聞いてて、俺が話し終わると、頭、ぽんぽんと撫でてくれて……怒られるよりも心苦しかったよ」 わかる。その気持ち。 兄貴にも、そんなプライドがあったんだ。ということは、兄貴も、おじいちゃん――秋野正造の血を受け継いでいるのだ。 「そんなに反省しているんだからさ、もう同じようなことは起きないって。いつまでも自分を責めてないで、私達も純也くん可愛がってやろうよ」 「そうだな」 兄貴が洟をすすった。 「あ、もしかして、兄貴、泣いてるの?」 「馬鹿ッ! これは花粉症だッ!」 嘘が下手だね。兄貴。健康優良児のくせにさ。 きょうだいの絆を確かめ合ったところで、私達は十字路で別れた。 私は、ご機嫌で学校の廊下を通って行った。 朝の廊下って大好き。特に春はね。 窓から入る日差しが、暖かく感じられる。 今日は何読もうかなぁ。 そろそろ作品も書かなくちゃいけないんだけど、今日は早く来たんだから、好きな本を読もう! 私は、いそいそと図書室(先に部室と書いたけど、文芸部の部室は、図書室なのだ)に足を運ぼうとした。 桐生将人と行きあったのは、そんなときだった。 私は目礼をした。学年も違うし、そんなに親しいというわけでもなかったからだ。せいぜい、すれ違ったり、遠くから見ていた程度で。 だから、私は、ろくろく彼と会話を交わしたことはなかったのだ。名前を知っていたのは、強くて優しいって有名だからだ。あと、剣道部の部長で知名度もあるし。そうでなかったら、私には彼は、時折姿を現す、憧れの君で終わっていただろう。 「あの――」 桐生将人が声を発した。 え? 今、私に何か言おうとしてる? 自分が自意識過剰でないのは、他に通行人がいないことから見てもわかった。 「秋野――みどりさんだよね」 「はい。そうですが――」 こら。静まれ、心臓。 私、電話で応対するような声出しちゃった。 それにしても、彼が私を知っていたのは驚きだ。 「朝、早いんだね。君も」 「き、桐生先輩こそ――」 私はどもりながら答えた。『桐生先輩』だって。いつもは、心の中でとはいえ、『桐生将人』と呼び捨てしてたのに。 「僕のこと、知っていてくれたんだね」 「先輩の方こそ――」 私達は、顔を見合せて、くすっと笑った。 「僕達、いつも朝練してるから」 「そうなんですか」 たゆまぬ努力を重ねているんだ。彼も。だから、強いんだ。彼の、名声の陰で流す汗を、私は知らない。知っているのは、剣道部の部員くらいだろうか。あ、そういえば、同じ組の剣道部の山中が、桐生将人は、部員の誰にでも公平に接してくれる、と喋っていたのを耳にしたことがある。 「今から部活?」 「う――うん」 私は、つい下を向いてしまった。けど、顔を合わせないのは失礼だろうと頭を上げると、相手の頬に、ぱっと朱が飛び散った。 「もし、良かったら――部活、終わってからでいいから、僕達の練習、見に来ないかい?」 え? もう一回――私は、桐生将人の台詞をリピートする。 『僕達の練習、見に来ないかい?』 そ、それって、もしかして―― はっ、何意識してるんだろ、私。 ただの、部活の勧誘かもしれないじゃない。私は一年生じゃないし、威勢の割には、運動音痴で非力だけど。 でも、なんで、桐生将人が私を知っているんだろう。 そのまま、沈黙が流れていった。私も桐生将人も、一言も発さない。 そこでいたたまれなくなったのは、私の方だった。 「ご――ごめんなさいッ!」 私は走って桐生将人の傍をすり抜けた。 彼がどんな表情をしているか、私にはわからなかった。 図書室に着いた私は、ぼーっとしながら本をひもといていた。しかし、一分とて頭に入らなかった。 (惜しかったかなぁ……やっぱり) 僅かながらでも好意を抱いていた相手に、あの態度はなかったかなぁ、と思わないでもなかったけれど。 わたしが考えていたのは、「惜しかったなぁ」ということだけだった。 お近づきになれるチャンスだったのに、とか、いくらかっこよくても、相手は生身の人間。幻滅するところだったかも――とか、いろいろ頭にそんな言葉達が、舞っては消えた。 そして、私は、はたと気が付いた。私が、桐生将人の人格を無視していたことに。 桐生将人は、私の憧れの対象だったのだ。 でも、本人のことは、全然、これっぽっちもわかっていない。 それは、相手に失礼なことなのではないか。 私は、桐生将人本人のことを知りたくなった。 彼が何を考えているか、どうして、剣道に青春を賭けているのか、などを。 私は、本を閉じて、――いささか勇気を鼓舞しながら――図書室を出て行った。 数分後、私は、剣道部の部室にいた。 うちの高校は、剣道が強いので、剣道部専用の部室が与えられている。顧問は田村先生。こっちを見ている。 「お。文化部が珍しく、見学か? それとも、さしものカタブツも、桐生に惹かれてやってきたのか」 田村先生はからかったが、私は、この先生が、少なくとも嫌いではない。情に厚く、どんな生徒も分けへだてしない。ただ、ちょっとデリカシーがないのが玉に瑕だけれど……。 「はい、そうなんです」 私も負けてはいなかった。 「ふふふ。近頃の女生徒ときたら――桐生は、練習中だぞ」 「はい。わかってます」 「今、ちょっと呼ぶからな。桐生! 桐生!」 桐生将人が顔を覆っていた防具を取った。精悍な顔が現われた。 「ほら。少し休んでいいから、彼女と話して来い!」 田村先生が彼に近寄って行って、肩をどやした。 「秋野さん、来てくれたんだね」 「うん。――迷惑じゃなかった?」 「はっきり言って。君は僕の誘いを一度は断ったわけだしね」 そう言うと、桐生将人はにっと笑った。子供めいた彼を覗いた気がした。 「やっぱり……ちょっと練習見てみたかったからかな。ほら、私、小説とか書いてるから、そういうの見るの、取材になるかなぁと思って」 「文芸部って、小説とかも自分で書くんだね。そうそう。僕、君の小説読ませてもらったよ」 桐生将人が、私の作品を読んでくれてた? 「で? どうだった?」 平常心を失った私は、勢い込んでそう尋ねた。 「ううん。稚拙なところも否めないけど、全体的に、よく書けてると思う。何よりも、描写が良いね。君、将来作家になるの?」 「――よくわからない」 「秋野さんでもそうなんだ。あんなに自分を持っていて、何でもわかっていそうなのに」 「そりゃ、将来のことはよくわからないわよ」 「でも、見込みはあると思う。これからも頑張ってね」 桐生将人は、的確な論評を、私にくれた。それは、誰かに言って欲しかった言葉だった。こんな感想が咄嗟に出てくるとは、彼も相当本を読んでいるということだ。それこそ、まさしく文武両道だ。 「ねぇ、桐生さんは、どうして私のことを知ってたの?」 白岡高校はマンモス校だ。学力水準は決して低くないが、いろいろな人がいる。同じ学年でも、名前も顔も知らない人間がいるくらいだ。 「あはは。君、案外自分のことわかってないね。この白岡高校一の論客を、知らない人なんているものか。君が生徒総会で、一斉に罵声を浴びせかけられたことも知ってるよ。その一週間、君は文句の矢面に立たされていたね。それでも、凛としているところに、僕は好感を覚えたけどね」 「え?」 「君は、君が想像してるより、遥かに有名だってことさ」 それを言うなら、桐生将人だってそうだと思うけど―― 「さぁてと。そろそろ竹刀が恋しくなってきたな。秋野さん、どうだい? 見ていく?」 「うんっ!」 桐生将人が、面頬をかぶる。 練習試合が始まった。 相手の防具を、竹刀が打つ。 掛け声がいくつも辺りでするが、私は桐生将人の姿を目で追うのに忙しく、周りの喧騒など感じなかった。 戦い方が流れるようで美しい。 品格、とでもいうのだろうか。桐生将人には、他の人間にはない「何か」があった。それが、威厳を感じさせる。 私は剣道のことについては門外漢だが、それでも、彼の実力が他の部員より水際立ったものだというのがわかる。 やがて、試合は終わった。私は、終わったことにも気付かなかった。 「秋野」 田村先生が、私の肩を叩いた。 「どうだ? 桐生――あんたの彼の戦いぶりは」 「はい。とても綺麗でした」 「綺麗、か」 田村先生は私から離れ、溜め息を吐いた。 「あのままじゃ、あいつは駄目だな」 私は首を傾げた。どこが悪かったんだろう。 「おっと、こいつは聞かなかったことにしてくれ。おまえさんには、関係ないことだからな」 先生は、耳の後ろを掻きながら、他の生徒のところへ向かう。 部員達も、熱心に剣道に打ち込んでいる。それを思うと、急に、桐生将人しか見ていなかった自分が恥ずかしくなった。 だが、ついつい桐生将人の方に目が行ってしまう。最初の頃は、慌てて他の方に視線を移すのだったが、いつしか、桐生将人の姿に引き込まれる自分を許すようになった。 私は、『面』と『胴』と『籠手』しか知らない。桐生将人がいなかったら、剣道は退屈なだけであった。 「ああ、いい汗かいた。なんだ。秋野、待っててくれてるの?」 「まぁ、そんなとこ」 桐生将人は、私のことを『秋野』と呼び捨てにした。 言葉遣いもフランクなものに変わっていき、今日一日で、私達は、君僕の関係になっていた。 そして、私は桐生将人のことを――ますます好きになっていった。 おっとどっこい生きている 11 BACK/HOME |