おっとどっこい生きている
87
 線香の匂いに包まれて、私は布団の中でうたうたしていた。
 夢を見た気がする。
 どんな夢だったかは忘れてしまった。だから、ここでは説明することができない。
 ただ、悪い夢でなかったことは確かだ。
 気がつくと、哲郎が顔を覗きこんでいた。
「哲郎さん……何やってるの?」
「――ちょっと気になってね」
「哲郎さん、勉強あるじゃない」
「一段落したから、みどりくんの様子を見に来たんだ」
「だって……そんな暇あったら、まず参考書とか見なきゃ。五浪になっちゃうよ」
「野口吾郎になら、なってもいいな」
「ばか……私のことは放っておいてよ」
 私は――いや、私達は知っていた。哲郎には、後がないということを。
 今回東大に落ちたら、次のチャンスはもうない。
 仕送りも止められてるようだし。
 弁護士になりそこなったら、哲郎は牧師になるのかな。
 それもいいな。哲郎なら、いい牧師になるだろう。欠点も弱点もひっくるめて――。
 不意に私は、目の前のこのぬぼーとした男が、愛おしく感じられた。
 それは、恋というより、家族や友人に感じる愛情、何か透明な哀しみというものに込められたものだった。
「みどりくん……」
 哲郎がそわそわしたり、頭を掻いたりし出した。
「何……?」
「手、握ってもいいかな」
「うん……」
 それぐらいだったらいいだろう。私はそっと布団から手を出して、哲郎の手を握った。
 哲郎の手は、温かくて柔らかかった。
「僕はもう、夢は見ない」
 哲郎がきっぱりと、意味不明なことを言った。
「…………?」
 私には、さっぱり訳がわからなかった。
 楽になったから、病院行かなくちゃ。
 心の底では思っているのだが、もう少し、この時間を味わいたかった。たとえ、哲郎の台詞の意味がわからなくても。
 この台詞の真意を掴むのは、もっとずっと後のことになるような気がする。もしかしたら、一生わからないかもしれない。
 けれども――彼は、真剣だった。
 私は、ぎゅっと強く、哲郎の手を握った手に力を込めた。

 病院のホールは、そんなに混んでいなかった。私はお医者さんに診察してもらった後、会計を済ませ、お釣りを財布の中に入れた。
 患者の番号札の番号が、電光掲示板に映っている。
 この病院は、近いのと、大きくて雰囲気が良いので気に入っている。お医者さんの腕もいいし。そうじゃなかったら、ここには来ない。当然といえば当然のことだ。
 会計用の機械から離れ、なんとなくホールを見渡していると――意外な人物の姿が目に入った。
「よぉ! 秋野!」
 相手も気付いたらしい。快活な声。
「将人!」
「よっ!」
 将人はポケットから手を出して、嬉しそうに笑った。
 だが、彼の中指には、痛々しく包帯が巻かれている。
「どうしたの? その指」
「バスケの時間に突き指したんだ。ちょっとひどかったんで、先生に『病院で診てもらって来い』と言われて……だから、今日は部活は休み」
 この病院は、外科もやっている。
「『俺平気です』って言ったけど、先生――田村先生が怖い顔をして『いいから行け』って言うんだよ」
 私は苦笑した。その場面がありありと想像できるようだった。
 あの先生、適当そうに見えて、生徒達のこと、よく見てるからなぁ。
 将人を川島道場に紹介したのも、先生だし。
「秋野は? 今日どうしたんだ?」
「ああ……熱、出しちゃって」
「大丈夫か?」
「大丈夫。もう下がってきたから」
「顔が赤いぞ……」
 それは照れているからなのかもしれない……。
「――どれ」
 将人は、私の額に自分の額をくっつけた。
「うん。あまり熱はないようだな」
 私は、無言で口を開け閉じした。
 な……なんて恥ずかしいことするのッ! 嫌じゃないけどさ!
「あ、ごめん、みどり」
 こんな時に『みどり』なんて、反則よッ! 嬉しくなっちゃうじゃない!
 それにしても――やっぱり整った顔してるなぁ。
 将人を好きになったのは、それだけじゃないけれども。努力しているところも見て、それでちゃんと惚れたんだ。
 その将人と恋人同士になって――キスもまだだけど――嬉しくないはずがない。
 私は、リョウ達が言っていたことは、忘れることにした。
 将人は、いい男だ。それに優しい。
 私は、胸がどきどきしてくるのを感じた。少し苦しい。でも、この苦しみは、喜びの苦しみだ。矛盾しているようだけど。
「風邪か? 帰ったらゆっくりするといい」
 私は大人しく頷いた。
 そしたら、家事のことを思い出した。
 家のことは、誰がするんだろう。
 えみりに任せるか……でも、ちょっと心配だな。それに――何かやっていないと落ち着かない。
 薬でも飲んで寝るか――そこまで考えた時、将人が男らしい眉を顰めて、気遣わしげに見ているのに気付いた。
「将人……指、痛いでしょ」
「痛いけど――大したことない。みどりの方こそ、大丈夫か」
「うん……」
「田村先生、『いい機会だから少し休め』って言ってさ――俺にとっては、剣道が何よりも大事なのに」
 剣道が何よりも大事――。
 私の心臓がどっと躍った。はっきり言って、ちょっとショックだった。わかってはいるけどさ。
 ほら、リョウ、哲郎、兄貴……将人にとっては、剣道が一番の恋人だよ。
「あ、だからって、みどりが大事じゃないわけじゃないんだけどさ」
 将人が必死で取り繕う。いいのにな。私のことは。それに――。
 ショックが過ぎ去ったら、急に安心した。
 将人には、ちゃんと自分の世界がある。
 私にも、自分の世界がある。それは、今書きかけの『黄金のラズベリー』であったし、今まで書いてきた諸々の作品群であったりした。
 独自の世界を持つ者同士、これからも上手くやって行こう。
「ねぇ、将人。私達、ずっと仲良しだよね」
「え……そんなの、当たり前だろ」
 当たり前、と言い切ってしまう将人が、私は好き。
「あ、将人、行かなくていいの?」
「あ、そうだ、いけね」
 将人は言った。そして、こう付け加えた。
「――秋野も帰るだろ? もうちょっと話できたら、いいんだけどな」
「また機会があるわよ」
 将人と別れた後、私は薬の処方箋を取りに行った。
 
おっとどっこい生きている 88
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