おっとどっこい生きている 兄貴はもう一度謝った。 「なんで、兄貴が謝るの?」 私は我ながら舌っ足らずな調子で訊いた。 「あいつら……悪気はなかったんだ。俺も……」 兄貴の男らしい眉が、困ったように下がる。 父は、優男と言っていい顔立ちだったが、兄貴は幾分逞しい。その顔は、むしろ、お祖父ちゃんに似ている。隔世遺伝とでも言うのだろうか。 私達兄妹は、髪質以外あんまり似ていないと思う。直毛の立派な黒髪だ。 鼻筋は通っていて、彫りは深い……兄貴の顔をこんなにゆっくり眺めることなんて、そうそうない。 そして……私は或るショッキングな出来事に思い当たった。 兄貴は将人に似ている。 そう。外見が。 兄貴がシスコンなら、私はブラコンだ。 兄貴をもう少し綺麗な顔にしたら、将人と同じような顔になる。兄貴だって、世間じゃいい男の部類に入るだろう。 その、兄貴が。 心配そうにこちらを見ている。 兄貴の目は真っ赤になっている。見るからに腫れぼったい。長い間泣いていたらだろう。 兄貴が泣くなんて……。私の知っている兄貴は、明るくて、ちょっととぼけてて……いつも笑っていた。 (ああ……) 私はやっと、兄貴の明るさの訳に気付いた。父と、母の存在だ。 両親が旅立ってからも、いつも通りのように見えて、何かが違っていた。 私と兄貴はこの間、将人のことで喧嘩になりかけたことがあった。親がいた時、止めに入るのはまず彼らだった。でも、今は二人とも家にいない。 そうか……兄貴は自分が壊れるのを恐れて、友達を呼んで、わいわいやろうとしたのだ。昔みたいに。お祖父ちゃん達の生きている頃の影響というのは、そんなに色濃かったのだろう。 でも、その友達も、兄貴の癒やしの役には立たなかった。 以上が、私、秋野みどりの『秋野駿に関する考察』である。 もちろん、兄貴は私が思っているより強いのだろうし、ちょっとやそっとじゃ崩れやしないかもしれないが、無駄に繊細なところは、赤ちゃんに対して抱いていた拒否反応で証明済みだ。尤も、今では純也のことも、多少平気になってきたみたいだが。 それにしても、やはり両親の存在というのは大きいんだ。私だって、えみり達がいなければ、寂しくてどうにかなったかもしれない。 (ありがとう……えみり……雄也……純也くん、哲郎……リョウ……そして……) 兄貴。 兄貴のおかげで、助かったことが随分あった。新聞部で、綿貫部長に啖呵を切った時、素直にすごいと思った。だから……。 (泣かないで) 兄貴は、今は穏やかな表情をしているが、泣いていたのは事実であろう。その時、慰めるのは私でありたかった。精神的な支えになりたかった。多分、今はそれができるのは、私だけだったろうから。 何となく、その恋人と別れた後、彼女を作っていないようなのは、薄々感じた。 次の恋まででいいから、私を頼って。兄貴が女性と付き合っていたことも今まで思いもしなかったにぶちんだけど。いや、そういうようなことはなるべく考えないようにしていた。 河合隼雄先生が書いてたね。『秘密は大事なものだから、なるべく一人で抱えている方がいい』と。そんな趣旨のことをえー、読んだ気がする。 兄貴にも秘密があったんだ……そして、それは、悪いことではない。……いきなり私を押し倒すようなことをしなければ。 「兄貴……謝ることないよ」 「でも、俺は……おまえを汚した」 私はぶっと吹き出した。 「哲郎さんに感化されたんじゃない?そんなことで汚れるみどりさんじゃありませんよ。いきなり私をレイプしたわけじゃあるまいし」 「俺なぁ……怖かったんだ。教会に行って、自分の醜い心が露呈するのが」 へぇー……そうだったんだ。 必ずしも、哲郎が完全に立ち直ることを信じてないわけではなかったんだ。哲郎のことは口実……というか、言い訳?上手い表現が思いつかない。理由のひとつではあるのだろうけど。 兄貴は神を心の底では信じていたからこそ、神を恐れた。 私は、もう兄貴を宇宙人とは見ていなかった。私と同じ、泣きもすれば怒りもする存在として、認めていた。同じく、簡単には理解できなかった父や母にも、悩みや密かな隠し事があるのかもしれない。 けれども、彼らは笑って過ごすことを選んだ。 おかげで私は苦労が増えたとばかり思っていたが……父と母の笑顔を見て救われたのは、とりもなおさず私達だった。 だから、家族には笑っていてほしい。無理はしないでもいいけど。 できるだけ泣いてもらいたくないけど、悲しい時には涙の訳を話してほしい。 (泣いてもいいけど……泣かないで) そんな矛盾した想いが、私の心に沸き起こった。 「兄貴……ありがとう」 涙の筋が伝いそうなのを枕で隠し、つとめて微笑んでみせた。 「どうした? 今日はしおらしいな。熱のせいか?」 「……そうかも」 「体が楽になったら、病院行けよ」 「わかった」 兄貴の言葉に私は頷く。 「俺達は大学に行くからご飯はおまえの分作り置きしてあるし、哲にもおまえのこと頼んであるからさ……みどり」 「……何?」 「哲郎に何かされたら、俺に言えよ」 「ばっ……ばっかじゃないの?!」 哲郎なんて……奈々花に手を出されておたおたしているっていうのに。(私と将人なんて、自慢じゃないけどキスもまだなんだからねっ!) 「……まっ、哲はそんな変なことしねぇか」 「当たり前でしょっ!」 だからここに置いておいてあげてるんだし。 「まあ、今のは、妹を思う兄の言葉として、聞き流してくれ」 そう言って兄貴が笑う。良かった。いつもの兄貴に戻った。 「じゃ、勉強がんばってね」 励ましてあげたら、変な顔をされた。 「おまえ、本当にみどりか? いつもより優しいような……」 「……兄貴は一言多いよ。怒るのがいいならそうするけど?」 「わり。でも、こんな時、おまえは怒ってたんじゃないか? 以前のおまえなら。今のおまえは……怒っているようでも、半分ポーズという感じ」 「……かもね」 「彼氏ができて、人間丸くなったか?」 「ほっといてよ」 さすがに愛想良くする気にもなれなくなった私は、ちょっと拗ねてそう言った。 「ははは、冗談だから、気を悪くするなよ」 冗談か。でも、他の人にも人間丸くなったって、言われた記憶があるな……。 「俺、将人のこと、ひどく言ったよな。……ジェラシーもあるのかもな」 「……ん」 哲郎もリョウも、あまり良く言わなかった気がする。将人は男性陣にウケが悪い。 そりゃあね、かっこよくて運動神経抜群とくれば、男だったら見てて複雑かもしれない。仲良くなれば話は別だろうが。 「おまえには、幸せになってほしい。これだけはわかってくれ」 「……うん」 「じゃあな。ちゃんと病院行けよ。なんなら、哲にも付き添ってもらって」 「一人で行けるよ」 「そっか。じゃあな」 襖が開いて、哲郎さんが入ってきた。 「哲郎、バトンタッチだ」 兄貴が哲郎の手を叩いた 。 「うん。行ってらっしゃい。秋野くん」 「おう」 おまえがいるから安心して任せられるよ……しゃあしゃあとのたまっておきながら、兄貴は和室を出た。 「熱は下がったかい?」 「あ……うん。昨日より楽」 「そう」 哲郎は、私の頭のタオルを外して、手を置いた。 「そうだね。熱、下がったみたいだね。えみりくんが作ったお粥があるけど……食べる?」 「……うん」 ちょうど食欲も出てきたところだ。喜んで頂戴することにした。 「みどり、おはよう」 えみりも部屋に入ってきた。 「どう?調子は」 「うん、大丈夫」 「えみりくん、今日は休んで君の看病したかったって」 「だって……純也の面倒を見る傍ら、みどりの世話じゃ、哲郎大変でしょ」 「君はせっかく大学入ったんだから、勉強しなきゃ。僕は慣れてるからね。もともと人の世話を焼くのは苦ではないし」 「……四浪なワケだ」 えみりは呆れたように、天井を向く。それから、私の方に視線を移動させ、言った。 「ね、どう?私の卵粥、美味しかったでしょ!」 「まあね」 「まあね、じゃないでしょ、みどり。そこはすごーく美味しかったって言ってくれなきゃ」 「すごく美味しかったよ、えみり」 「まあ素直。お姉さん素直な子は大好きよ」 「そう」 「みどりってさ、いっつも私達に壁作ってたような気がしたけど、この頃それが取れてきた感じ」 「……そうかな」 壁を作っているとは知らなかった。ただ、馴れ合いたくなかったというか。 でも、えみりには、いろいろ相談したり、料理教えたりして、かなりうちとけてたと思ったんだけど。 「駿ちゃん学校行くって?私も行かせてもらうね。後のことは哲郎に任せて」 「みどりくんに君の作ったお粥、食べさせるから」 「あらそう。今日のもすごーく美味しいから食べてみて。それから、お大事に」 えみりは上機嫌で和室を出て行った。 「じゃ、朝ご飯食べようか。食べられる?」 「……うん」 「『あーん』してあげる?」 「しない!」 私は強く断った。 哲郎の目は優しく澄んでいた。 ここにいると、おじいちゃんやおばあちゃんのことが思い出されてほっとする。 哲郎が聞くと、偶像礼拝だなんだと騒ぎ出すかもしれないが。 その哲郎が、えみり特製のお粥を持ってきた。……ただのお粥なわけなのだが。おかずはのりたまだった。 「冷ますかい?」 哲郎が申し出た。 「そんなこと、しなくていい」 哲郎は、私の世話をしたがっているように見えるが、私はけんもほろろにはねつけた。 「食べたら少し眠るといい。それから、病院に行こう」 「……私、一人で行くわ」 「一緒についてっても良かったけど……みどりくんがそう言うなら仕方ないね」 哲郎、諦めたみたい。 あつあつのお粥を食べ終えた私に、哲郎は言った。 「僕、純也くんの面倒も見なければならないから、これで失礼するよ」 哲郎がいなくなると、お腹がくちくなった私はさっさと眠ってしまった。 おっとどっこい生きている 87 BACK/HOME |