おっとどっこい生きている
85
(あの娘にそっくりだって、話してたんだよな、みどりのこと。初めて会った日……)
 もう雄也の声は、半分聞こえない。
 というか、聞き流してしまっている。
 兄貴が私に似た人を抱いたということより、そもそもあの兄貴が経験済みということの方がショックかも……。
 何だか、頭の中がぐるぐる回っている……。
「みどり、ここにいたのか。親父から電話」
 襖を開けて、兄貴が入ってきた。
 さっきの話、聞かれていなかったかしら……。
 雄也もえみりも素知らぬ顔だ。
「どうした?」
「あ?うん、何でも……」
 私は立ち上がろうとした、その途端。
 吐き気を覚えてしゃがみ込んだ。
「みどり!」
「大丈夫か?!」
「しっかりしろ!」
 三者三様の声が聞こえる。泣いているのは純也か……。
 もう一度立ち上がろうとして……。
 目の前がスパークした。

 ……誰?
 女の子か泣いている。知らない子だ。
 話しかけると、「馬鹿っ!」と言って消えて行った。
 夢はすぐ忘れる方だけど、インパクトが強くて、そのセリフだけ覚えていた。
 そして……目が覚めた。
「みどりー、良かった!」
 えみりが喜色満面で言った。
 我が家の居候連が顔を並べていた。兄貴はいない。
 ほっとしたような、残念なような……。
「駿ちゃんには出て行ってもらったの。汚れた過去の持ち主だから」
 えみりが説明する。
「駿ちゃんもかなりショック受けたみたいよ。アタシ達もホントなら遠慮した方がいいトコなんだろうけど、心配でね」
「うん。まあ、俺達の話がキッカケで具合悪くなったのかな、と思ってさ」
「潔癖そうだもんね。みどり。恋人いるくせに。キスもしたんでしょ?」
 う……キスもまだ……。
「おい、えみりサン、秋野、ひょっとしてキスもまだなんじゃねぇか?」
 リョウがズバッと言った。
 確かにその通りだけど、そんなの関係あるの?
「えー? 前にもチャンスあったじゃん」
「誕生日の時? あん時は隼人がいたろ?」
「子供なんざ、どうにでも言いくるめられるって」
 雄也……今時の子供をなめちゃいけない。
 隼人が早熟なだけかもしれないけど。
「それに、付き合っているんだから、機会なんていっぱいあるだろ。おまえら、お熱かったしさ」
 雄也……あなたの基準で判断しないでくれる? そりゃまあ、将人と私はスローハンドかもしれないけどさ。
 ハグしたりはしたけど……。
「まあ、ゆっくり寝てなよ。ただの風邪だと思うから」
 哲郎が優しい声で言う。
 綺麗に敷いた布団に、額には濡れタオル。こんなにしてくれたのは誰かしら。
 私が訊くと、みんな一斉に哲郎の方を見た。
「哲郎さんが……してくれたの?」
「あ、いや、渡辺くん達も、手伝ってくれたよ。布団敷く時」
「でも、濡れタオルは、哲郎だよな」
 雄也がにやにや笑った。哲郎は照れた顔になって訊いた。
「食欲ある?」
「……ない」
「浦芝サンのバナナケーキも入らねぇ?絶品なのにさ」
 リョウが脇から入る。
「もう食べたから」
「オレ、半分残しといたから。おまえにやるよ」
「へーえ。リョウってば優しいじゃん。もしかして……」
「ば、バカ言うなよ。オレは巨乳が好みなんだぜ。えみりサンやしおりのような……」
「しおり?」
 えみりが聞き返した。リョウは「やべっ」とばかりに手で口元を押さえた。
「ふぅん。リョウってば、しおりが好きなのねぇ……」
「だ、だから、あれはものの例えで……」
 リョウは必死に弁明する。
 ふうん。リョウとしおりか。本気になって考えてみたことなかったけど、案外いい組み合わせかもしれない。
 ただし、その場合葉里くんが泣くことになるけど。
 兄弟揃って失恋じゃ、泣くに泣けないかもね。
「アタシ、みどりに卵粥作るから」
 えみりが泣きそうな顔になった。
 何でえみりがそんなに落ち込むの? 私だったら、大したことないのに。
「食欲戻ったら言ってね。いつでも料理したげる」
「じゃ、俺、ちょっと駿のところ行ってくるわ」まず、雄也が部屋を出て行く。
「オレ、トイレ行ってくる。ちょっとお腹痛くなってきた」
「アタシ、卵粥のレシピ、探してくるから」
 リョウとえみりが出て行くと、私は哲郎と二人きりになった。
「あ、ありがと。……哲郎さん」
「どういたしまして。みどりくんにはいつもお世話になっているから、このぐらいはさせてもらわないと」
 哲郎の目は、哀しいぐらい澄んでいる。
 ああ、私がこの人を好きだったら……。
「……だったら、良かったのに」
「え?」
「何でもない」
「そうかい……すっかりタオルがぬるくなったね」
 哲郎はそう言うと、タオルをタライの水に浸して絞った。
 哲郎には奈々花がいるし、私には将人がいる。
 私は、将人が好き。誰が何と言おうと。周りから反対されようと。
 たとえ、時が流れて、心変わりしようとも……今のこの気持ちは永遠に留まる。
 うつらうつらして来た。眠い。さっきまで寝てたばかりなのに。
「おやすみ」
 哲郎の、限りなく悲哀に満ちた顔を見ながら……私はとろとろと眠りに落ちて行った。
 今度は夢は見なかった。
 睡眠から覚めた後食べた、えみりの卵粥は、奇跡的に美味しかった。まぁ、奇跡的っていうと、怒られるかもしれないけれどね。
 すっかり冷めてしまったからと、わざわざ温めてくれた気配りも嬉しかった。
 えみり、すっかりお母さんぶりが板についたようね。
 今日はえみり達の部屋で寝たので、純也と雄也は、空いている部屋に寝てもらったらしい。
 雄也、純也、ごめん。そして、ありがとう。
 具合悪くなったのは、風邪だと思っていたけれど、本当は知恵熱だったらしい。後でお医者さんにそう言われた。
 やっぱり、兄貴のことが……ショックだったのかなぁ……。
 その兄貴が、朝、私の寝ているところに来た。「ごめんな」と言っていたけれど、私は、微笑み返した。
 
おっとどっこい生きている 86
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