おっとどっこい生きている
82
 哲郎が口を開いた。
「あのね――みどりくんは、桐生君のこと、本当に好きなのかい?」
 また将人のことか……。
「好きよ」
「それなら……いいのかなぁ……。でも、ここで引きさがったら、僕は――」
 何言ってんだろ、哲郎。酔っぱらってるのかな。
「僕はね……みどりくんには、桐生くんとこれ以上つきあって欲しくないんだ」
 なんか、兄貴と同じこと言ってる。
「どうして?」
「あの子は……愛情表現がダイレクト過ぎる」
 ……ふぅん……。
「大事にはしてくれるかもしれない。でも、みどりくんに他に好きな男性ができた場合、彼は――」
「一緒に心中なんて考えるわけ? 将人が?」
「まぁ、そうならないように願うけどね」
 哲郎は、日本酒の瓶を取って、コップに注ぐ。
「ちょっと……それ、うちの酒なんだから、やめてよ」
「ああ」
 なんだか苦しそうだった哲郎の顔に、笑顔が浮かぶ。くしゃっと目元に皺が寄る。
「すまない」
「本当によ。それに、あんまり飲むと、体に悪いんですからね」
「もうこれで終わりにしておくよ」
 哲郎は、コップから一口、無色透明の液体を飲んだ。
 私は、じっと哲郎に目をあてた。
 兄貴は、哲郎と将人が似てるって言ってたけど……共通点がなさすぎる。せいぜい真面目なとこぐらいか。
「ん? 何?」
 哲郎が訊いた。
「ううん。何でも」
 私は首を振った。
 まぁ、兄貴も哲郎も、将人と私のことを心配していることだけはわかった。そして、将人と私が別れればいいと思っていることも。
「今なら、まだ間に合うよ」
「なぁにそれ。私と将人のこと?」
「そうだよ」
「――私、別れないから」
「みどりくん……」
 将人がモテるのは知ってる。私と別れたら――
「私と別れたら、多分、将人はしおりちゃんでも、溝口先輩でも、よりどりみどりよね」
「みどりくん!」
「でも、私はどうすればいいの?!」
「将人くんと別れたら――」
 哲郎が、言いにくそうに、唇を舌で湿らせた。
「僕が君と……付き合うよ」
「いや」
 私は即答した。さっき、葉里のことを断ったしおりの気持ちがわかる気がした。
「愛情表現がダイレクトなんて……哲郎さんも人のこと言えないじゃない。もっと悪いわね。将人と別れさせる為に嘘ついて、あなたそれでもクリスチャン?!」
「嘘じゃない、嘘じゃ……」
「じゃあ、奈々花のことはどうなるのよ」
「奈々花くんのことは――後できっちり話をつける」
「彼女を振るわけ? 私のことで? ――だめよ、そんなこと。そうしたら、私があなたをこの家から追い出してやるわ」
「自分や神を偽ることはできない……」
「奈々花と別れたら、私、一生哲郎さんを許さない!」
 私は、ダァン!とテーブルを叩いた。
「いいわね」
「……それには答えかねるよ。僕にだって、意思というものがある」
 今夜の哲郎は頑固だった。酒のせいかもしれない。酒乱のけはなさそうだったけど。
「おい、哲郎」
 兄貴が暖簾を分けてぬっと入ってきた。
「ちょっとみどり、借りるぞ」
「え? あ、兄貴……」
 私は、戸惑いながら、兄貴のことを呼んだ。
 一体、いつから話を聞いてたんだろう。
「ねぇ、兄貴、いつから哲郎さんと私のことを……」
「さっきちょっと通りかかったら、おまえらがいたから――」
 じゃあ、さっきの人の気配は、もしかして兄貴――。
「知らぬ顔を決め込もうと思ったんだけど、ちょっと、みどりと話がしたくなってね」
「将人と別れろ、なんてことだったら、聞かないわよ」
「そうじゃない。それが無理なのはわかってる。どんなに心配したって、それはおまえの問題――いや、おまえと桐生くんの問題だから」
 へぇ。じゃ、なんだってんだろ。
「秋野くん……」
 哲郎が気遣わしげに兄貴を見やる。
「哲郎、ちょっと俺はみどりに自分の気持ちを伝えるだけだよ」
「みどりくんにあのことを言うのかい?」
「まぁね。どうせ近いうちに他人のものになる妹だ。その前に、はっきり言っておきたい。たとえ、不毛なことでもさ」
 兄貴は何を言ってるんだろう。
「俺の部屋で話そう」
 私は、兄貴に連れられて、兄貴の部屋へ行った。
「簡単に言えば――俺は、おまえが好きだった」
 うん。それはわかってる。私も兄貴が嫌いじゃない。
「あのな――兄弟愛とかじゃなくて、異性として好きだったんだ」
 兄貴の突然の告白に、私は固まった。
 じゃ、じゃあ、私を部屋に連れて来たのって……私はちらっと、ドアの方を見た。閉まってる。
「変なことはしないよ。これでも、ジェントルマンで通ってる」
 兄貴がジェントルマンねぇ……。
「ずっと前から……子供の頃から、一人の女として、好きだったよ。でも、俺達は実の兄弟だろ?」
 私は頷いた。だから、兄貴は顔もいいし、性格だって悪くないが、恋愛の対象としては見ることはできなかった。また、それで良かったのだ。兄妹で恋に落ちるわけにはいかないんだから――。
 兄貴が話を続けた。
「だから、『氷点』という小説に出てくる徹が羨ましかったよ」
「『氷点』だったら、私も読んだことあるわ」
 いやしくも、文学少女を標榜するからには、三浦綾子のデビュー作で、当時いろいろと話題になったあの作品を読むのは当然のことだ。
 哲郎だって三浦綾子が好きだし……。
「陽子はもらいっ子だったんでしょう。うちと違うわ」
「でもなぁ、みどりが実の妹でなかったら、俺達、結婚できたんじゃないかと思うと……」
「ねぇ、兄貴。『続・氷点』は知ってる?」
「知ってるけど」
「やっぱり、兄妹は結ばれることはないんじゃない? たとえ、もらいっ子でも」
 兄貴は、そうだね、と答えた。
「それに、私がもらいっ子なんて、兄貴は良くても、私は嫌だな」
「――そうかもしれないな。ごめん。変なこと言って」
「ううん。――兄貴が感じる気持ちって、本当はよくあることかもしれないんだもの。いきなり襲わないだけマシよ」
「そんな、相手の気持ちを無視するようなことはしないさ。――でも、桐生くんや哲郎に妬いてたのかもしれないな。俺。もし、俺とみどりが他人だったら、決して離さないし、誰にも渡したくない。――一番危険なのは、俺かもな」
 そう言って、兄貴は微笑んだ。全てを懺悔した時のような、晴れやかさがあった。私も――兄貴が他人だったら……と、少しだけ思った。そうしたら、きっと惚れていたかもしれない。
 
おっとどっこい生きている 83
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