おっとどっこい生きている
81
 私達が止めるのもきかず、将人は「帰る」と言い出した。
「本当にいいの? 外、まだ雨降ってるけど」
「いいんです」
「部屋ならまだ余ってるわよ」
「本当にいいんです。ありがとうございます。それでは、お邪魔しました。みどりさん。駿さん」
 兄貴の手前か、私を『さん』づけで呼ぶ将人。
「それでは、おやすみなさい」
「おやすみなさーい」
 兄貴が笑顔で手を振る。もう、兄貴ったら、こんな悪天候の中にお客さんをほっぽって平気なわけ? あまり真剣に引き止めもしなかったし。
「また来てねー」
 私は大声で叫んだ。心配でもあったが、せめて、『また来てね』と祈りを込めて送り出すしかなかった。
 将人の姿が見えなくなった。
「おい――みどり」
 将人の姿を追っていた私は、兄貴の声にびっくりした。
「何? 兄貴」
「おまえ、もう桐生君とは付き合うんじゃないぞ」
 え? 何で?
「いいか。桐生君とは別れるんだ。俺を悪者にしたっていいから」
「ど……どういうこと?」
「そのまんまの意味だ。おまえ、他に好きな人はいないのか?」
「い……いないわよ! それに、兄貴、どうしちゃったの? 将人のこと、嫌いなの?」
「桐生君自体は、好きも嫌いもない。むしろ、好男子だと思っている。――だから、だから、別れなさい」
 なんで? 兄貴の言ってることわからない。矛盾してるわよ。
「俺の言うこと、わからないって顔だな」
「わからないわよ。それに……そうよ。この前、『将人を手放すな』と言ってたの兄貴じゃない」
「あれだけおまえに執着しているとは思わなかったんだよ」
「ああ、そういうこと」
「あれは、本気になったら怖いタイプだ。真面目なだけにな。ちゃらんぽらんなヤツの方がまだしもだ」
「でも、私、将人好きよ」
「わかってる。だから、俺は悩んでるんだ」
 兄貴が頭を抱えた。
「あいつは、哲に似ている。――哲と同じくらい困ったヤツだ」
「なんで。哲郎さんになんて、全然似てないわよ」
「ある面でいえば、だ。全て似ているというわけじゃない」
 なんか……なんで、兄貴がこんなこというんだかわからない。
 言葉の内容はわかる。あまり相手を本気にさせるなということだろう。
 でも――それだけ惚れられるということは、女として本望というものではない?
「じゃあ、私が遊びの恋をしていいって言うの? 兄貴は」
「そんなこと言ってない!」
「言ってるじゃない!」
「そう――だな。その方が良かったかもな。その方がまだ、対処の仕方というのもあるからな」
「そう! じゃあ、火遊びして、身ごもったっていいのね!」
「それとはまた別問題だ!」
「別じゃないわよ!」
「俺はおまえを信じてる! そういう真似はおまえにはできない!」
「ああ、そう! 信じてくれてありがとう! でも、私だって人間よ。何かあったら、無茶もするかもしれないし!」
「みどり――あんまり俺を困らせないでくれ」
「兄貴が勝手に困ってるんじゃない!」
「あのー……」
 女の子の声がした。しおりだ。
「お風呂、空きましたよ」
「おお、ありがとう。みどり、入ってこい」
「でも……」
「少しは頭を冷やすんだな」
 頭を冷やすのはどっちよ。
 まぁいいわ。ちょっと私も気分を変えたかったから。
「桐生さん、帰っちゃったんですかぁ?」
 と言うしおりの声が聞こえたが、それ以外のやり取りは、頭に来ていた私には、耳に入らなかった。

 俊夫さんとつねさんは、雄也と一緒の部屋で寝ることになった。
 そして、私はしおりちゃんと自分の部屋で。
「私、布団で寝るわね」
「ええッ、いいんですかぁ?! しおり、こんなに広いベッドで寝ても。ね、みどりさんも一緒に寝ましょうよー」
「いいけど、私、寝ぞう悪いわよ」
「……わかった。じゃあ、お言葉に甘えて」
 私は布団を敷いた。私達は、夜が更け込むまで話をしていた。
「今日はしおり、びっくりしちゃった。桐生さんが来た時。みどりさんて、愛されてるんだなーって」
 だけど、兄貴が私に将人と別れろと言うのは、まさしく、彼が私を愛してくれている、という一点があるからなのだろう。
「桐生さん、みどりさんのこと、本気なんだね」
「…………」
「でも、あたしだって負けないから」
 しおりが、ぽつんと呟いた。
「しおりちゃんには、霧谷さんがいるんじゃないの?」
「うーん。それなんだけどねぇ……」
 間が空いてから、しおりは答えた。
「まだすっかり忘れた、と言えばウソになるけど――しおりは新しい恋に生きることにしたから」
 その相手が、桐生将人でなかったら、私も力いっぱい応援してあげるんだけど。
「葉里君は?」
「問題外」
 しおりは総二をばっさり切り捨てた。
「あんな軽いの」
「でも、案外真剣かもしれないわよ」
「ま、ね。でも、桐生さんと比べるとねぇ……」
 しおりは容赦がなかった。
 私は起き上がる。
「あれ? みどりさん、どうしたの? トイレ?」
「ううん。喉乾いたから」
 私は台所に行った。
 キッチンでは、哲郎が、机にぐたっと伸びていた。酒瓶とコップが置いてある。
「哲郎さん!」
「ああ……なんだ。みどりくんか」
「どうしたのよ。一人酒?」
「まぁね」
 哲郎が体を起こした。
「珍しいじゃない」
 哲郎が酔ったのを見たのって、彼らが、私達の家に押し掛けてきて以来――じゃなかった?
「みどりくん。ちょっと話があるんだけど、いいかな?」
 私は、「話って?」と問い返した。
 一瞬、人の気配を感じたような気がしたが――気のせいだろう。
 
おっとどっこい生きている 82
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