おっとどっこい生きている
72
「少しだけしか神を信じていなくても、人を教会に誘う資格はあるのでしょうか」

 私の唐突な質問に、奈々花、今日子、友子――そして美和は一斉に視線をこっちに向けた……ような気がした。
「勿論だとも」
 たじろがず、岩野牧師は答えた。
「たとえ、実は信じていなかったとしても、ですか?」
「ふむ」
 岩野牧師は眼鏡のつるに手をやった。
「それは、君のことかね?」
「……ええ」
「だが、君は教会に来てくれている。動機は何でもいい。教会に来るという行動を起こすことが大事なんだよ」
「私の友人は、そうは思っていないようです」
「君の友人? 教会に誘ったのかい?」
「ええ――でも、手もなく断られてしまいました」
「――じゃあ、その子の為に、祈りましょう」
「祈る? どうやってですか?」
「あ、牧師さん。聖書って難しいんですけど、それでも読まなきゃいけないのですか?」
 美和が、横合いから入ってきた。
「ああ。いい質問だね。二人とも。祈ったり、聖書を読んだりすることは、私達にとっては必要なことなんだよ」
 そうなのだろうか。私は、教会になど行かなくても、十何年間、ずっと幸せにやってきた。
 おじいちゃんとおばあちゃんが亡くなってからも、仲のいいお父さんにお母さん。面倒見が良かった兄貴。
 置いてかれた――そう思ったけど、それ以上深刻に悩まなかったのは、この三人のおかげだ。
 でも――自分の中で起きた不思議な内的体験。それさえなかったら、私はイエス・キリストを信じなかったであろう体験。
 その体験には、名前はあるのだろうか。
「みどりさんも、早く聖霊体験をするといいね」
「聖霊体験?」
「そう」
 岩野牧師が頷いた。
「もしかしたら、もうしているのかな?とも思ったんだけど」
 聖霊体験……ひょっとして、あれが、そうだった……?
「みどりちゃんは、私の信仰を目覚めさせてくれました」
 奈々花がそう言う。そうなのだろうか。
「あの時、みどりちゃんが、救われたそうで、不幸そうで――きっと、みどりちゃんは、私なんかより、よっぽど深い悩みを抱えているんだろうなって思いました。そしたら――神様がそこにいるように感じたんです」
「きっと、神様は、悩んでいる人々のそばにいてくださるのね」
 友子が言った。今日子が同意するように首を縦に振った。
「ああ。君達は、神様に選ばれているんだよ」
 岩野牧師は、感に堪えたような口調だった。
「信じる者は――神様に救ってもらえる。君の友人も、いつ、神様に繋がるか、わからないんだよ」
 頼子……。
 彼女が神様に気付くのはいつかしら。
 私もいい加減、信心深い方ではないかもしれないけど――。
 それでもわかる。神様は、私達のそばにいてくださる。だから、哲郎を通して、この教会に来るように、働きかけられたのだ。
 私は、河合隼雄の著作が大好きだった。だから、他のユング心理学の本も少し読んでみたし、縁がある宗教といえば、仏教の方だと信じてた。まさか、こんなところでキリスト教の勉強をすることになるとは、思いもよらなかったけれど……。
 頼子の食わず嫌いには、ちょっと困ってる。彼女のことだから、聖書はとっくに読破してるんだろうけど。
 なんか、胡散臭い目で見られている感じ。キリスト教だけでなく、仏教も。それから、私達日本人には馴染みはないが、イスラム教も。
 あれ? 私、宗教の擁護してる?
 なんだかなぁ……人間を超えた、摂理の存在は信じてるけど、それには、人格とかはあるのかしら。
 キリスト教の『主』と呼ばれる神には、はっきりとした人格があるけれど。それは――祈れば、信ずれば、必ずその人を助ける、ということ。
 私は神を信じているのか、いないのか。それは自分でもわからない。哲郎も同じようなことを言っていた。
「からし種は、小さな種だが、成長すればどんな野菜よりも大きくなる」
 岩野牧師が言った。
 友子はせっせとノートをとっている。今日子は、聖書のページを繰っている。美和は、物珍しげに目を瞠っている。そして――
 奈々花は、何となく、寂しげな表情を浮かべていた。
「また、からし種ほどの信仰があれば、桑の木に『根こぎ海の中に植われ』と言っても、そのようになる」
 牧師が続けて言った。
「からし種の信仰を大切にしなさい。私達は、からし種ほどのそれすら持っていないのだから」
「では、友人を教会に誘うことはできないのではないですか?」
「からし種は成長する。信仰は、いろいろなプロセスを経て、やっとからし種の大きさになるのだ」
「では、からし種の大きさに信仰が成長するには、からし種の信仰を持っていなければならない……うーん、ちょっとややこしいですね」
「言いたいことはわかりますよ。みどりさん」
 岩野牧師の声が優しい。
「どんなに努力しても、人間の力には限界があります。焦らないことです。神に献身すれば、どんなことでも可能になるのですから。しかし、人間には、『神に頼ること』。これが一番難しいのです」
「美和にも難しいです」
「美和さんは、素直な性格の持ち主ですね」
 牧師が微笑んだ。
「では、この話は、今日はこれぐらいにしましょう。今日は、この間の続きをします。おっと。美和さんは初めてでしたね。神学校に来るのは」
「はい! 初めてです!」
 美和が元気よく返事をした。
「それでは、創世記を開きましょう。まず一章のおさらいから……」
「美和。一緒に聖書見ましょ」
 今日子が、美和に近寄って言った。
 私は、聖書の文字を辿りながら、別のことを考えていた。
 なんかかわされたような気もするけど……。
 取り合えず、私のような不信心者でも、教会に行ったり、誘ったりすることは悪いことではない、と保障されたような気がした。
(今度から、もっと真剣に聖書読もう)
 そう考えることができただけでも、大収穫であった。
 あと、奈々花の台詞は有難かった。私のおかげで信仰に目覚めたって、私、何にもしてないのにね。
 今日子や友子達がどう思っているのかしらないけれど――きっと、彼女らも、教会に縁があったのだろう。
 頼子みたく、信仰を嘲笑って、教会に行かないなんてことはしない。いつだって彼女達は優しかった。
 頼子も本当は優しいのだが、辛辣なところがある。それは、私にも言えることだが。
 その日も、夜遅くまでかかった。私達は、それぞれ家に戻って行った。
「あ、お帰りなさーい」
 玄関を開けると、えみりが純也を抱いて立っていた。
「ただいま、えみり。純也くん」
 純也くんは、可愛い、まんまるい目でこちらを見ている。
「純也く〜ん」
「まぁ。みどりったら。とろけそうな声出して」
 何とでも言ってちょうだい。
 純也は可愛いんだから。
 まぁ、雄也もえみりも、顔立ちはいい方だから、ミクスチュアの問題で、可愛い子に生まれるのは当然かもしれないけど。
 そうでなくても、赤ちゃんというのは愛らしい。
 田舎っぽい、平凡な顔の子でさえ。
 私はやっぱり子供が好きなんだ。頼子は、「ガキは嫌い」と言ってるけれど。
 以前、友子と今日子の二人と、『子供はどんなに可愛いか』という話し合いも繰り広げたんだよね。あの場に奈々花がいないのは残念だった。
 ――閑話休題。
 純也とは、久しぶりに会ったような気がする。
 同じ家に住んでいるのだから、毎日顔は見るんだけど。どんなに見ても見飽きない。
 子供って、天使からの授かり物なのよね。『クリスマス・ボックス』という映画をこの間DVDで観て、ますますそう感じた。
 奥から兄貴も出てきた。そして笑顔で言った。お帰り――と。
 ああ、自分の帰りを待っててくれている人がいるということは、こんなにも幸せなことだったのか。私は――神に感謝した。
 
おっとどっこい生きている 73
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