おっとどっこい生きている 私の唐突な質問に、奈々花、今日子、友子――そして美和は一斉に視線をこっちに向けた……ような気がした。 「勿論だとも」 たじろがず、岩野牧師は答えた。 「たとえ、実は信じていなかったとしても、ですか?」 「ふむ」 岩野牧師は眼鏡のつるに手をやった。 「それは、君のことかね?」 「……ええ」 「だが、君は教会に来てくれている。動機は何でもいい。教会に来るという行動を起こすことが大事なんだよ」 「私の友人は、そうは思っていないようです」 「君の友人? 教会に誘ったのかい?」 「ええ――でも、手もなく断られてしまいました」 「――じゃあ、その子の為に、祈りましょう」 「祈る? どうやってですか?」 「あ、牧師さん。聖書って難しいんですけど、それでも読まなきゃいけないのですか?」 美和が、横合いから入ってきた。 「ああ。いい質問だね。二人とも。祈ったり、聖書を読んだりすることは、私達にとっては必要なことなんだよ」 そうなのだろうか。私は、教会になど行かなくても、十何年間、ずっと幸せにやってきた。 おじいちゃんとおばあちゃんが亡くなってからも、仲のいいお父さんにお母さん。面倒見が良かった兄貴。 置いてかれた――そう思ったけど、それ以上深刻に悩まなかったのは、この三人のおかげだ。 でも――自分の中で起きた不思議な内的体験。それさえなかったら、私はイエス・キリストを信じなかったであろう体験。 その体験には、名前はあるのだろうか。 「みどりさんも、早く聖霊体験をするといいね」 「聖霊体験?」 「そう」 岩野牧師が頷いた。 「もしかしたら、もうしているのかな?とも思ったんだけど」 聖霊体験……ひょっとして、あれが、そうだった……? 「みどりちゃんは、私の信仰を目覚めさせてくれました」 奈々花がそう言う。そうなのだろうか。 「あの時、みどりちゃんが、救われたそうで、不幸そうで――きっと、みどりちゃんは、私なんかより、よっぽど深い悩みを抱えているんだろうなって思いました。そしたら――神様がそこにいるように感じたんです」 「きっと、神様は、悩んでいる人々のそばにいてくださるのね」 友子が言った。今日子が同意するように首を縦に振った。 「ああ。君達は、神様に選ばれているんだよ」 岩野牧師は、感に堪えたような口調だった。 「信じる者は――神様に救ってもらえる。君の友人も、いつ、神様に繋がるか、わからないんだよ」 頼子……。 彼女が神様に気付くのはいつかしら。 私もいい加減、信心深い方ではないかもしれないけど――。 それでもわかる。神様は、私達のそばにいてくださる。だから、哲郎を通して、この教会に来るように、働きかけられたのだ。 私は、河合隼雄の著作が大好きだった。だから、他のユング心理学の本も少し読んでみたし、縁がある宗教といえば、仏教の方だと信じてた。まさか、こんなところでキリスト教の勉強をすることになるとは、思いもよらなかったけれど……。 頼子の食わず嫌いには、ちょっと困ってる。彼女のことだから、聖書はとっくに読破してるんだろうけど。 なんか、胡散臭い目で見られている感じ。キリスト教だけでなく、仏教も。それから、私達日本人には馴染みはないが、イスラム教も。 あれ? 私、宗教の擁護してる? なんだかなぁ……人間を超えた、摂理の存在は信じてるけど、それには、人格とかはあるのかしら。 キリスト教の『主』と呼ばれる神には、はっきりとした人格があるけれど。それは――祈れば、信ずれば、必ずその人を助ける、ということ。 私は神を信じているのか、いないのか。それは自分でもわからない。哲郎も同じようなことを言っていた。 「からし種は、小さな種だが、成長すればどんな野菜よりも大きくなる」 岩野牧師が言った。 友子はせっせとノートをとっている。今日子は、聖書のページを繰っている。美和は、物珍しげに目を瞠っている。そして―― 奈々花は、何となく、寂しげな表情を浮かべていた。 「また、からし種ほどの信仰があれば、桑の木に『根こぎ海の中に植われ』と言っても、そのようになる」 牧師が続けて言った。 「からし種の信仰を大切にしなさい。私達は、からし種ほどのそれすら持っていないのだから」 「では、友人を教会に誘うことはできないのではないですか?」 「からし種は成長する。信仰は、いろいろなプロセスを経て、やっとからし種の大きさになるのだ」 「では、からし種の大きさに信仰が成長するには、からし種の信仰を持っていなければならない……うーん、ちょっとややこしいですね」 「言いたいことはわかりますよ。みどりさん」 岩野牧師の声が優しい。 「どんなに努力しても、人間の力には限界があります。焦らないことです。神に献身すれば、どんなことでも可能になるのですから。しかし、人間には、『神に頼ること』。これが一番難しいのです」 「美和にも難しいです」 「美和さんは、素直な性格の持ち主ですね」 牧師が微笑んだ。 「では、この話は、今日はこれぐらいにしましょう。今日は、この間の続きをします。おっと。美和さんは初めてでしたね。神学校に来るのは」 「はい! 初めてです!」 美和が元気よく返事をした。 「それでは、創世記を開きましょう。まず一章のおさらいから……」 「美和。一緒に聖書見ましょ」 今日子が、美和に近寄って言った。 私は、聖書の文字を辿りながら、別のことを考えていた。 なんかかわされたような気もするけど……。 取り合えず、私のような不信心者でも、教会に行ったり、誘ったりすることは悪いことではない、と保障されたような気がした。 (今度から、もっと真剣に聖書読もう) そう考えることができただけでも、大収穫であった。 あと、奈々花の台詞は有難かった。私のおかげで信仰に目覚めたって、私、何にもしてないのにね。 今日子や友子達がどう思っているのかしらないけれど――きっと、彼女らも、教会に縁があったのだろう。 頼子みたく、信仰を嘲笑って、教会に行かないなんてことはしない。いつだって彼女達は優しかった。 頼子も本当は優しいのだが、辛辣なところがある。それは、私にも言えることだが。 その日も、夜遅くまでかかった。私達は、それぞれ家に戻って行った。 「あ、お帰りなさーい」 玄関を開けると、えみりが純也を抱いて立っていた。 「ただいま、えみり。純也くん」 純也くんは、可愛い、まんまるい目でこちらを見ている。 「純也く〜ん」 「まぁ。みどりったら。とろけそうな声出して」 何とでも言ってちょうだい。 純也は可愛いんだから。 まぁ、雄也もえみりも、顔立ちはいい方だから、ミクスチュアの問題で、可愛い子に生まれるのは当然かもしれないけど。 そうでなくても、赤ちゃんというのは愛らしい。 田舎っぽい、平凡な顔の子でさえ。 私はやっぱり子供が好きなんだ。頼子は、「ガキは嫌い」と言ってるけれど。 以前、友子と今日子の二人と、『子供はどんなに可愛いか』という話し合いも繰り広げたんだよね。あの場に奈々花がいないのは残念だった。 ――閑話休題。 純也とは、久しぶりに会ったような気がする。 同じ家に住んでいるのだから、毎日顔は見るんだけど。どんなに見ても見飽きない。 子供って、天使からの授かり物なのよね。『クリスマス・ボックス』という映画をこの間DVDで観て、ますますそう感じた。 奥から兄貴も出てきた。そして笑顔で言った。お帰り――と。 ああ、自分の帰りを待っててくれている人がいるということは、こんなにも幸せなことだったのか。私は――神に感謝した。 おっとどっこい生きている 73 BACK/HOME |