おっとどっこい生きている
70
 しおりは、将人が行ってしまった後も、しばらくその方角を眺めていた。
 これってひょっとして……。
 ざわっとやな予感がする。
「桐生さんってステキ。あたし、惚れちゃった……」
 ああ、やっぱり……。
「溝口さんの気持ち、わかる気がしたな」
 そりゃあ、まぁ、将人はみばもいいし、好きになるのはわかるんだけど。
 しかし――次のしおりの台詞には私もたまげた。
「ねぇ。みどりさん。兄貴あげるから桐生先輩と交換しない?」
 な……何てこと言うのよ。この娘は!
「無理に決まってるでしょ!」
 私も言ってやった。
「うーん。いいアイディアだと思ったんだけどなぁ……」
 ちっともいいアイディアではないし、私にだって選ぶ権利はある。
 それに、あいつのおかげでひどい目にあったことを知っているはずなのに。
「もちろん。兄貴が嫌なら強制はしないけど」
 嫌に決まってるでしょ。あんな奴。
 ま、しおりの前では言えないけれどね。仮にも、彼女の兄なんだから。
「あたしも、今の兄貴は好きじゃないけど、結構いいとこあったんだよ」
 過去形ね……。そういえば、溝口先輩も、『彼は変わった』というようなことを言っていた。
 溝口先輩も将人のこと好きか……将人は心変わりしない人だと信じているけれど……。
 あんな綺麗な人に想いを寄せられていると知ったら、悪い気はしないだろうなぁ……。
 溝口先輩が麻生を好きなままでいてくれたなら、大喜びで協力するのだけれど。
 しかし、麻生にも冬美がいるんだよねぇ。冬美も麻生に恋してるし。どこがいいのかわからないんだけど。
 まぁ、冬美なんかは、麻生がいなくても引く手数多だろうと私は考える。
「ごめんね。変なこと言って」
「うん」
 私は上の空で答えた。
「でも、半分は本気だから」
 半分も本気なの?! 今会ったばかりなのに!
「桐生さんがみどりさんの恋人でなかったら、即アタックかけるのにな。どうして神様は意地悪なんだろ。よりによって、みどりさんの恋人だなんて」
 そんなこと言われても、神様だって……ねぇ。
 神様といえば、私は哲郎のことを思い出した。ついでに教会のことも。
 芋づる式に頼子の言葉もよみがえる。
『アンタには人を教会に導く資格なんてないわよ』
「ねぇ、どうしたの? 怖い顔して」
 しおりが心配そうに顔を覗き込む。そうだ。彼女の家もまた、教会なんだった。
「神様に関することを考えていたのよ」
「え? 何で?」
「しおりちゃんが、神様は意地悪だって言ったから」
「ああ、そのこと。特に深い意味はないんだってば。あたしも恋する乙女をしたかっただけ」
 ふーん。なるほどね。
「それより、兄貴のところへ行こ」
「そうね」

 麻生派の新聞部には、麻生と一緒に、冬美もいた。
「みどり……」
 まさか、私達が来るとは思っていなかったのだろう。冬美は驚きの声を上げた。
「あら。隣にいる方どなた?」
「……麻生しおりです。そこにいる麻生清彦の妹です」
 不機嫌そうに、しおりは自己紹介をした。
「麻生先輩の妹さん? そういえば、かわいらしい妹がいるって聞いてたけど」
「本当のことを言っても、何も出ませんよ」
 私は――ちょっと感心して二人を眺めていた。
 一目見た瞬間から、お互いを敵と見做し、憎み合う瞬間になんて、滅多に立ち会えるものではない。
 今の冬美としおりがそうだった。絶対相容れない、みたいな。
 フィクションの世界でなくても、そういうことってあるんだなぁ、と思った。
 しおりが由香里達を嫌ったのは、彼女らが私達に憎まれ口を叩いたから。そうでなければ、しおりもそんなに敵意は抱かなかったかもしれない。
 だが、冬美としおりの関係は、いわば因縁のライバル同士、前世からの宿敵同士、という感じだった。たとえ、言葉はろくに交わしていなくても。
 尤も、一目見た瞬間から、「こいつとは合わないな」と思う相手はいるものである。それが、彼女達の場合は特別強かったんだと思う。
 私にしたって、由香里に会った時は、「あ、この人、苦手だな」って思ったもん。
「しおり。何しに来たんだよ。こんなところまで」
「溝口さんのところに行ってたの。溝口さん、兄貴のこと好きだったんだって。でも、今は別の人を好きなんだって」
「そんなことを調べる為にわざわざ?」
 麻生が呆れた声を出した。
「そ。だから、えーと。そこの女生徒さん」
「長塚冬美よ」
「あなたにもチャンスはあるってわけ」
 その口調に、冬美はカチンと来たようだった。
「それはどうも」
「でも、あたしは兄貴にはみどりさんとつきあって欲しいの」
 まだ諦めてなかったのか……!
「そしたら、あたしも桐生さんとつきあう可能性が出てくるから」
「まぁ……」
 冬美は眉を顰めた。
「私に麻生先輩のことを諦めろというの?」
「その通り」
「みどり。なんなのよ、この子。アンタが連れて来たんでしょ?」
「残念でした。あたしが訪ねてきたのよ」と、しおり。
「つまり、押し掛けて来たってわけ?」
「失礼な」
 なんか、会話が進むに連れて、互いの憎しみが膨らんでいくような気がするんだけど。
「おい。しおり。もう帰れ。秋野にだって部活があるだろ」
 麻生は、面倒事はごめんだとばかりに、しおりを追い出そうとした。
「ふん。何さ。今ちょっとセクシーだからって。三十年後には豚みたいになっても知らないから」
「こら、しおり……」
「兄貴も兄貴よ。こんなちょっと外見のいいだけの女を恋人にしてるなんてサイテー」
「私は秘書よ」
 冬美が手に腰を当てて言った。
「秘書だって? よく言うよ。あなた、何か仕事ができるんですか?」
 その台詞は、冬美の痛いところを突いたらしい。ちょっと目を瞠り、それからきっ、としおりを睨んだ。
 やっぱり、秘書というのは、カムフラージュだったのか……。
「冬美のことはいいだろ。おまえ自分の高校に戻れ。なんなら、今日はもう家に行っててもいいから」
 へぇ……麻生が下手に出てる。やっぱり妹には弱いのね。
 思わず、ちょっと笑ってしまった。冬美としおりの険悪なムードはとりあえず脇に置いて。
「笑ってないで、秋野からもなんとか言ってやれ!」
「ふーん。麻生先輩が私に助けを求めるなんてねぇ」
「――冗談ごとじゃないんだぞ」
「わかったわかった。しおりちゃん、もう出ましょ」
 しおりは、新聞部の部室から去り際に舌を出した。
 
おっとどっこい生きている 71
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