おっとどっこい生きている
69
(麻生先輩の妹を使って、彼をたらし込むつもり?)
 その由香里の台詞は、私を地面に縫い止めた。
 言っていいことと悪いことがあるわ!
 なんで私が麻生と……!
「な……な……」
 上手く言葉が出て来ない。
「それこそ望むところよ!」
 そう言ったのはしおりだった。
「みどりさんと兄貴が付き合うの、大賛成よ! あたし! 桐生さんとやらには悪いけど」
 しおり、アンタそんなこと思ってたわけ?
 麻生は、スレンダーで、出るべきところは出ている長塚冬美のようなタイプが好みなのよ。私も麻生なんて眼中になかったし。
「いいけどね。秋野さんは、綿貫先輩も色仕掛けで骨抜きにしたわよ」
 由香里は悪意のしたたるような言葉を投げた。

 しおりによれば、霧谷も連れて来たかったが、忙しいので無理だったようである。どうして忙しいのかは言わなかった。私にとってはどうでも良かったし。
 閑話休題。
「でも、待っててくれてありがとうね。みどりさん」
 しおりは笑顔でお礼を言ってくれた。
「ん。何となく放っておけなくてね」
「やっぱりみどりさんはいい人だね。うん。兄貴と付き合って欲しいな、やっぱり」
 またその話か……。
「あのね、しおりちゃん。私が麻生先輩と付き合うって言うのは、やっぱり無理があると思うの」
「そっか……まぁ、ひどい目にあったりもしたようだからねぇ」
 話している間に、演劇部の部室に着いた。とんとんとノックする。
「すみませーん」
「はいはい」
 演劇部の部員とおぼしき女生徒が出てきた。
「溝口先輩、いらっしゃいますか?」
「あ、今いるよ。溝口さーん、呼んでるわよー」
「はーい」
 溝口先輩が現れた。
 顔立ちが整っていて、大きな目は潤んでいるように見える。鼻は高い。少し大柄で、プロポーションは抜群だ。足も長い。
「しおりちゃんじゃない。どうしたの?」
「ちょっと話があってね」
「秋野さんも一緒なのね」
 向こうは、私のことをしっかり覚えていたようだった。私はこの間まで忘れていたというのに。
 うーん。罪悪感というのとも違うけど、やっぱりばつが悪い……。
「霧谷がね、よろしく伝えてくれって」
 しおりがそう言った。
「また溝口さんに会いに来て欲しいのよ。霧谷には」
「どうして?」
「だって――霧谷は溝口さんが好きだったって」
「――しおりちゃん、ちょっと他の場所で話しましょ」
 私もその方がいいと思う。
「わかった」
 しおりは素直に頷いた。
「私、いない方がいいかな?」
「ううん。みどりさんも来て」
 しおりが私の腕を引っ張った。
 そして今――
 私達は体育館の裏にいる。
「霧谷くんは元気?」
「うん。元気だったよ。そんでやっぱり……あなたに未練はあるのかもしれない」
 しおりが霧谷のことをまだ想っているように……もちろん、私は、今はそれを口にしなかったが。
「溝口さん、兄貴のこと、好きだったってほんと?」
 しおりがずばりと切り込む。
「誰から聞いたの?」
「霧谷から」
 先輩は、ふーっと深い溜息を吐いた。
「麻生君を憎からず思っていたのは本当よ。しおりちゃんも、実の妹のようだったし……」
「じゃあ、どうして教会に来なくなったの?」
「それは……」
 溝口先輩は、何故かちらっと私の方を見た。
 彼女には、何というか、『目力』がある。ちょっとこっちを見ただけでも、私はどきっとした。
「やっぱり、麻生君に会うのは、霧谷君に悪いって気持ちもあったし――それに、彼は変わったわ」
「それって、霧谷のこと? それとも、兄貴のこと?」
「霧谷君のことはよく知らないけど、麻生君は変わったわ」
「うん。あたしもそう思う」
 しおりも同意した。
「でもね、人間の心って、変転していくものだと思うの。私、今は別の人を好きなの」
「え? 誰? その人って」
「それは……」
 先輩は、私の方をまた見た。
 私は、さっきから黙って事の成行きを見守っていたが――
「私にも、関係あることなの?」
 と、話に加わった。
 溝口先輩が、なんか私にも喋りたいことがありそうだったから。
「――私、今は桐生君のことが好きなの」
 私の頭の中に、先輩の台詞が染み込むのに、数秒かかった。
「――え?」
 溝口さんが、将人のことを、好き?
「桐生さんって、みどりさんの恋人?」
 さすがにしおりも呆気に取られたようだった。
「そうなのよ――だから、私の片思い。気にしなくていいわ。秋野さん」
 と、溝口先輩は言ってくれたけれど――
 奈々花といい、溝口先輩といい、将人もモテるわね。まぁ、それだけいい男ってことなんだろうけど。
 奈々花は、今は哲郎が好きみたいだけど、溝口先輩は、将人のことが好き――強力なライバルね。将人だって、溝口先輩みたいな美人に好かれて、悪い気はしないだろうし……。
 溝口先輩と少し話して別れてから、しおりは、「兄貴のところへ行こう」と言い出した。
 ……私としては、さっさと部活に行きたかったんだけどね。この頃休んでいたし。
 けれど、まぁ、仕方がない。乗りかかった船だ。
 階段を上がろうとした時だった。
「どうしたんだ? 秋野」
 将人! どうしてこんなところで鉢合わせするんだろう。
 ちょうど、彼のことを話題にしてきた後だったから、心は複雑……。
 そして、しおりの方に目をやると――彼女はぼーっと見惚れていた。まずいな。
「あ、あの……お名前何て言うんですか?」
「え? 俺ですか? 俺は桐生将人と言います。君は」
「あ……麻生しおりです」
 マンガだったら、ぽっぽっと蒸気が上がっているところかもしれない。
 
おっとどっこい生きている 70
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