おっとどっこい生きている 哲郎も、いつも通り食前の祈りをした。 「これ、みどりに教わって作ったのよ」 「へぇー。うめぇじゃん。えみり。俺はこんな料理上手な妻を持って幸せだぜ」 「やだ。雄也ったら。でも、もっとおいしく作りたかったなぁ。いつか食べたカレー、ほんとにおいしかったもんねぇ……私もああいう風に作りたかったんだけど」 「えみりさん達が全部食べちゃったんじゃない。おかげで別のこしらえなきゃいけなくなっちゃったわよ」 「雄也も食べたよね」 「え? だって、えみりが勧めるから……」 女が男を善悪の木の実を食べるように誘惑する。創世記の昔から行われていたことだ。 「駿ちゃんもつまみ食いしたわよね」 「お……俺? まぁそうだけどさ」 兄貴まで! ま、予想はしてたけどさ。 でも、おずおずと手を上げた哲郎さんの言ったセリフは、私をぶっ飛ばした。 「実は僕も……」 プルータス! おまえもか! そんなカエサルの言葉が頭に浮かんだ。うん。今ならあの帝王の気持ち、よくわかる。 「哲郎さん。クリスチャンが勝手に家族の為に作った料理食べていいと思ってるの?」 「……反省してます」 まあ素直。 この素直さが、哲郎の長所よね。 それに比べて渡辺夫妻と来たら―― 「出し惜しみすんなよなー」 「あんなにいい匂いのカレーを作るみどりが悪いのよ!」 これだもんなぁ……。 でも、実はあのカレー、かなり好評(?)だったことがわかった。うれしいやらかなしいやら。 「オレは食ったことないなぁ。そんなに旨かったんだ……」 リョウが、こころなしかしょんぼりしている。 そっか。この事件はリョウが来る前のことだったわね。 「じゃあ、雄也のお父さんが来る時に作ってよ。私も手伝うからさ」 えみりが提案する。 「いいけど、時間かかるわよ」 「合点!」 「ところで俺さー、バイト決まったんだよね」 雄也が話の腰を折った。 けれど、全員気にしていなかった。 「え? 何の?」 リョウの質問に、 「聞いておどろけ……なんと、ウェイターだ!」 辺りはしーんとなった。 誰も驚きゃしないわよ。そんなことで。 「どこのウェイター?」 リョウが重ねて訊く。 「駅前の『輪舞』」 へぇー。コーヒーの味で有名な場所じゃない。行ったことないけど。 広くはなさそうだけど、繁盛してるって聞いたことあるわ。 「へぇー。行ったらオレらにもサービスしてくれる?」 「悪いがガキはお断りだ」 「ちょっとぐらいじじいだからっていばんなよ」 「雄也さん、リョウ、食事中は喧嘩しない!」 私が鶴の一声(自分で言うのもなんだけどさ)を発すると、二人はひとまず引き下がった。 「俺も一緒に行くよ」 兄貴が言った。中身はともかく、年齢は大人だもんね。 「オレ、一度ブルーマウンテン飲んでみたいんだ」 「費用はおまえ持ちな」 「ひっでぇな。駿サン。オレが文無しなの知ってるくせに」 「冗談だよ」 兄貴がからからと笑った。機嫌は良さそうだ。 「みどり。おまえの分も俺がおごってやるよ」 「私の分もお願いね」 と、えみり。 「なんか、大勢押し掛けてきそうだな。俺、店長に褒められるかも」 嬉しそうに頬を赤らめて、雄也がぽりぽりと頬を掻いた。 「お父さん、あのね、雄也さんがバイト決まったって」 私は電話で報告した。 「ああ。駿から聞いたよ。良かったな」 「うん」 私は笑顔でいたに違いない。 「雄也さん、『輪舞』でアルバイトだって?」 教室の中で美和が言った。 私は、あの後、友達にもメールした。 「あそこは、確か料理もなかなかのものだったわよ」 頼子が口を挟む。 時間の経つのは早いもの。もう火曜日の朝である。 それにしても頼子は一人で行ったのかしら。 私が質問すると、 「父と行ったことがあるわ」 との返事が返ってきた。 へぇ、松下先生と……。 あの人も味にはうるさそうだからなぁ。 今はもう、頼子の態度を訝しげに思う気持ちも忘れてしまった。 「みどり。今日、剣道部行くの?」 頼子が訊いた。 「うん。時間があったら行ってもいいな」 「じゃ、一緒に行きましょ」 「お目当ては武田先生?」 「もう!からかわないでよ!」 私の台詞に、頼子は赤くなった。 「えー? 武田先生って、武田金八先輩のこと?」 「何よ。美和、詳しいじゃない」 「名前が面白いからね。頼子があの先輩を好きなら応援したげる」 美和が笑顔で片目をつぶった。 「美和まで……」 頼子は困惑したようだった。 「話は変わるんだけどさ、私、悩みがあるのよ」 「ふぅん。訊いてもいい?」 「もちろん。その為に言ったんだもの。私ね――今、スランプなの」 「スランプ?」 「剣道の小説を書こうとしたんだけどさ――なかなか上手く書けないのよね。だから、それ以外のモチーフの話にしようかと思ったんだけどさ……この頃全然ダメダメなの」 おっとどっこい生きている 65 BACK/HOME |