おっとどっこい生きている 「ただいま」 「お帰り。なんだ? 今日は。いいことでもあったのか? みどり」 「あのねぇ……」 私は兄貴に、いつもの礼拝のこと、麻生牧師の教会に行ったこと、そこで、哲郎がビシッと麻生清彦の親に注意したこと、などなどを話した。 「もう、ああ言うのって、胸がすく感じじゃね?」 リョウが、未だに感心したように付け加えた。 だが――兄貴の顔からは笑みが消えていた。 いつもの兄貴じゃない。 たとえば――そう、たとえば、以前新聞部に乗り込みに行ったときのような……。 「哲郎――おまえはそんなに他人の気持ちを慮れない奴だったのか」 言い方は静かだったが……『新聞部の秋野』の片鱗が覗く。 「秋野……くん?」 「人にはいろいろ事情がある。それを土足で踏み込んで説教するなんて……おまえならわかるだろう。そうされた人の気持ちが」 「あ……」 哲郎は口元に手を当て、それきり黙ってしまった。 「兄貴。相手はあの麻生の両親よ。将人の名誉を汚そうとした、麻生清彦の親なのよ」 「それでもだ」 兄貴の舌鋒が鋭い。 「哲郎、おまえは浪人をしている。そのことで、『おまえは勉強しないから大学に受からないんだ!』と言われたらどうする? おまえにはおまえの言い分があるだろ?」 「兄貴……」 私は、哲郎の言うことは正しいと思う。 だからこそ、口にしてはいけないこともあると言うわけだ。 それは、頼子に、『アンタ優秀だから、城陽に行った方が良かったんじゃない?』と言うようなものだ。 頼子だって、いやいや白岡に行っているわけではないと思うが、そのことを再認識させられたら、やはり悔しかろう。 「みどりもみどりだ。そこで止めるべきだったのに、哲郎に同調するとは」 「うう……」 麻生への敵愾心が、心を曇らせていたのかもしれない。 いや、言い訳は止そう。どんな理由があれ、私はそのとき、楽しんでいた。 哲郎が、二階へと上がる。 私も行こうとしたら、 「放っておけ」 と、兄貴に止められた。 「駿ちゃん。ちょっと言い過ぎではない?」 「まぁ、おまえの言い分もわかるけどさ」 えみりと雄也が言った。 「俺は……哲郎ならわかってくれると思うんだ……」 私は、早速お祖父ちゃんとお祖母ちゃんの仏壇の前に行った。 (お祖父ちゃん、お祖母ちゃん。私達はどうやら、『行き過ぎ』をしてしまったようです……) 「哲郎さん、ご飯よ」 トントンとドアを叩いて、私が言う。 「哲郎さん……」 哲郎が、ドアを開けて、ぬっと顔を出した。 「ご飯ね……今行くよ」 今夜の夕飯は、お通夜のように寂しいものだった。 「ねぇ……ちょっと……」 隣のえみりが私をつつく。 「どうなってんのよ。今日は」 「あ。えみり、ご飯まずい?」 「ご飯自体はまずくないけど……今日のアンタら、変よ。食事時ぐらい、もうちょっと明るくしたら? それとも、さっきのこと、まだ引きずってんの?」 「私は引きずってないんだけどね……」 哲郎は、普段と変わらないように見える。 だが、一言も発さない。 「うーん。余計なお世話、しちゃったとこ」 で、哲郎がそのことに気付いて、落ち込んでいるわけだ。 小さな親切、大きなお世話。 この何気ない標語が、こんなに大きな意味を持つだなんて、思わなかった。 そうだよね……麻生牧師だって、息子の煙草、止められるなら、止めたいわよね……。 昔通りの麻生清彦(私は知らないけど)に戻って欲しいわよね……。 「水」 兄貴が言葉少なに言った。 「はいはい」 私は、蛇口をひねる。 ぼーっとしてて、水がコップから迸り出ているのにも、気がつかなかった。 「おい、秋野。そんなにいらないんじゃないか?」 リョウから指摘されて、私ははっと我に返った。 「おい、大丈夫か?」 「大丈夫よ」 私は水をなみなみと注いだコップを兄貴に渡した。少し零れた。 麻生は……どこでつまずいたんだろう。 しおりは……どこまで兄のことを知っているんだろう。 私は、しおりのことを思い浮かべた。 しおりは、明るい元気少女に見える。 けれど、彼女が目にするのは、暗い顔した両親と、グレかけた兄の姿だけ。 彼女なりに辛かったのかもしれない。 だから、私達が入ってきたとき……しおりは喜んだ。 でも、私達は、麻生家の力になれない。しおりはがっかりするだろう。 私達は……いい気になって口出ししに来た、ただのおせっかい焼きだ。しかも行きずりの。 ――明日、何書かれても、文句言えないわね。麻生には。 いや、それとこれとは話は別か。 私は、足元から力が湧いてくるのを感じた。 (麻生……麻生牧師、麻生明江、麻生清彦、麻生しおり……あなた達に対して、私はどうすればいい?) 私は自問自答した。 確かに、祈りだけでは解決できないこともあるかもしれない。けれど、今は祈ることしかできないから――。 夜食を持って、哲郎の部屋に行った。 「やぁ、ありがとう。みどりくん」 哲郎はにこやかに笑った。 「今日は……ごめんね」 「ううん。哲郎さんが謝ることじゃないもの」 それから、私達は、しばし沈黙の中にいた。私は――祈っていた。 「――秋野くんの言う通りだなぁ。僕は、いい気になっていたよ」 私が何も言わないのを見て、哲郎が溜め息を吐いた。 「僕は、浅はかな人間だったよ」 私は答えない。答えられない。 だって、それを言うなら、私も浅はかだもの。 「麻生牧師に偉そうに上から物を言って――麻生牧師の方が、人生の先輩だし、その人がどうこうできない問題が、僕に解決できるわけもないのにね」 聖書読んでいい? と、哲郎が言った。どうぞ、と私は答えた。 「義人なし。一人だになし」 おっとどっこい生きている 58 BACK/HOME |