おっとどっこい生きている
57
 私は、同居人達と共に家に帰ってきた。
「ただいま」
「お帰り。なんだ? 今日は。いいことでもあったのか? みどり」
「あのねぇ……」
 私は兄貴に、いつもの礼拝のこと、麻生牧師の教会に行ったこと、そこで、哲郎がビシッと麻生清彦の親に注意したこと、などなどを話した。
「もう、ああ言うのって、胸がすく感じじゃね?」
 リョウが、未だに感心したように付け加えた。
 だが――兄貴の顔からは笑みが消えていた。
 いつもの兄貴じゃない。
 たとえば――そう、たとえば、以前新聞部に乗り込みに行ったときのような……。
「哲郎――おまえはそんなに他人の気持ちを慮れない奴だったのか」
 言い方は静かだったが……『新聞部の秋野』の片鱗が覗く。
「秋野……くん?」
「人にはいろいろ事情がある。それを土足で踏み込んで説教するなんて……おまえならわかるだろう。そうされた人の気持ちが」
「あ……」
 哲郎は口元に手を当て、それきり黙ってしまった。
「兄貴。相手はあの麻生の両親よ。将人の名誉を汚そうとした、麻生清彦の親なのよ」
「それでもだ」
 兄貴の舌鋒が鋭い。
「哲郎、おまえは浪人をしている。そのことで、『おまえは勉強しないから大学に受からないんだ!』と言われたらどうする? おまえにはおまえの言い分があるだろ?」
「兄貴……」
 私は、哲郎の言うことは正しいと思う。
 だからこそ、口にしてはいけないこともあると言うわけだ。
 それは、頼子に、『アンタ優秀だから、城陽に行った方が良かったんじゃない?』と言うようなものだ。
 頼子だって、いやいや白岡に行っているわけではないと思うが、そのことを再認識させられたら、やはり悔しかろう。
「みどりもみどりだ。そこで止めるべきだったのに、哲郎に同調するとは」
「うう……」
 麻生への敵愾心が、心を曇らせていたのかもしれない。
 いや、言い訳は止そう。どんな理由があれ、私はそのとき、楽しんでいた。
 哲郎が、二階へと上がる。
 私も行こうとしたら、
「放っておけ」
 と、兄貴に止められた。
「駿ちゃん。ちょっと言い過ぎではない?」
「まぁ、おまえの言い分もわかるけどさ」
 えみりと雄也が言った。
「俺は……哲郎ならわかってくれると思うんだ……」
 私は、早速お祖父ちゃんとお祖母ちゃんの仏壇の前に行った。
(お祖父ちゃん、お祖母ちゃん。私達はどうやら、『行き過ぎ』をしてしまったようです……)

「哲郎さん、ご飯よ」
 トントンとドアを叩いて、私が言う。
「哲郎さん……」
 哲郎が、ドアを開けて、ぬっと顔を出した。
「ご飯ね……今行くよ」
 今夜の夕飯は、お通夜のように寂しいものだった。
「ねぇ……ちょっと……」
 隣のえみりが私をつつく。
「どうなってんのよ。今日は」
「あ。えみり、ご飯まずい?」
「ご飯自体はまずくないけど……今日のアンタら、変よ。食事時ぐらい、もうちょっと明るくしたら? それとも、さっきのこと、まだ引きずってんの?」
「私は引きずってないんだけどね……」
 哲郎は、普段と変わらないように見える。
 だが、一言も発さない。
「うーん。余計なお世話、しちゃったとこ」
 で、哲郎がそのことに気付いて、落ち込んでいるわけだ。
 小さな親切、大きなお世話。
 この何気ない標語が、こんなに大きな意味を持つだなんて、思わなかった。
 そうだよね……麻生牧師だって、息子の煙草、止められるなら、止めたいわよね……。
 昔通りの麻生清彦(私は知らないけど)に戻って欲しいわよね……。
「水」
 兄貴が言葉少なに言った。
「はいはい」
 私は、蛇口をひねる。
 ぼーっとしてて、水がコップから迸り出ているのにも、気がつかなかった。
「おい、秋野。そんなにいらないんじゃないか?」
 リョウから指摘されて、私ははっと我に返った。
「おい、大丈夫か?」
「大丈夫よ」
 私は水をなみなみと注いだコップを兄貴に渡した。少し零れた。
 麻生は……どこでつまずいたんだろう。
 しおりは……どこまで兄のことを知っているんだろう。
 私は、しおりのことを思い浮かべた。
 しおりは、明るい元気少女に見える。
 けれど、彼女が目にするのは、暗い顔した両親と、グレかけた兄の姿だけ。
 彼女なりに辛かったのかもしれない。
 だから、私達が入ってきたとき……しおりは喜んだ。
 でも、私達は、麻生家の力になれない。しおりはがっかりするだろう。
 私達は……いい気になって口出ししに来た、ただのおせっかい焼きだ。しかも行きずりの。
 ――明日、何書かれても、文句言えないわね。麻生には。
 いや、それとこれとは話は別か。
 私は、足元から力が湧いてくるのを感じた。
(麻生……麻生牧師、麻生明江、麻生清彦、麻生しおり……あなた達に対して、私はどうすればいい?)
 私は自問自答した。
 確かに、祈りだけでは解決できないこともあるかもしれない。けれど、今は祈ることしかできないから――。

 夜食を持って、哲郎の部屋に行った。
「やぁ、ありがとう。みどりくん」
 哲郎はにこやかに笑った。
「今日は……ごめんね」
「ううん。哲郎さんが謝ることじゃないもの」
 それから、私達は、しばし沈黙の中にいた。私は――祈っていた。
「――秋野くんの言う通りだなぁ。僕は、いい気になっていたよ」
 私が何も言わないのを見て、哲郎が溜め息を吐いた。
「僕は、浅はかな人間だったよ」
 私は答えない。答えられない。
 だって、それを言うなら、私も浅はかだもの。
「麻生牧師に偉そうに上から物を言って――麻生牧師の方が、人生の先輩だし、その人がどうこうできない問題が、僕に解決できるわけもないのにね」
 聖書読んでいい? と、哲郎が言った。どうぞ、と私は答えた。
「義人なし。一人だになし」
 
おっとどっこい生きている 58
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