おっとどっこい生きている
52
「どうしよう!」
 哲郎は帰ってくるなり、慌てふためきながら謎の踊りをした。
「やだ、哲郎さん。どうしたの?」
「どうしようどうしよう」
 哲郎はそれしか言わない。
「とりあえず落ち着け」
 雄也が哲郎にチョップを食らわす。壊れたテレビじゃないんだから……。
 しかし、相手はそれで正気を取り戻したらしい。やっぱり壊れたテレビ並みかも。
「いったいどうしたってんだよ」
「……キスされたんだよ。奈々花くんに」
「えーっ?! カマトトかと思ったらやるじゃん、奈々花!」
 えみりは嬉しそうだ。恋の話になると生き生きしてくるのね。
 それにしても……奈々花達に先を越されたか。
「なるほどねぇ……でもおまえ、嬉しくないのかよ」
「奈々花くんには悪いけど、全然嬉しくない!」
「どうして? アンタもしかして童貞?」
「そうだよ!」
 哲郎が叫んだ。
「……ウソだろ」
「やだ……ちょっと、やだぁ……」
 えみりと雄也が哲郎から離れた。
「その年で童貞?」
「なんかどっかわるいんじゃないの?」
「どうして君達に勘ぐられなければならないんだ。僕に言わせれば、君達こそどうかしてるよ!」
「デキちゃった婚だから? そんなの珍しくないわよねぇ」
「偏見だな」
「純也には聞かせられない話ね。同居人の一人が、そんな偏見の持ち主なんて……」
「ああ……ぐ……」
 哲郎は言葉に詰まったようだった。
 なんでキスの話からそんなところに飛ぶんだろう……私は、珍しいものでも見るような気分だった。
「ほら。みどりくんなんて純粋だから、放心してるじゃないか」
「純粋だと放心するワケ? みどりには将人と言う恋人がいるじゃない。まぁ、キスもしてるかしてないような関係だけどね」
 してないのよ!
「ああ、そうだった……ああ、いつかはみどりくんもキスぐらいはするんだろうなぁ……」
「キス以上もしたりしてね」
「哲郎、おまえ女に夢見過ぎ!」
 ――だいたい、奈々花は、哲郎には勿体ないぐらいの女の子よ。
「キスぐらいいいじゃない」
「みどりくん。君だったらわかってくれると思ってたのに!」
「私だって、今日はキスするぐらいのところまで行ったのよ!」
 それで、奈々花を刺激したんなら、まぁ悪かったけど。
「うーん……」
 哲郎が目を回したらしく、その場にくず折れてしまった。
「おまえら、何やってんだぁ!」
「あ、哲郎サン、どしたっすかぁ?」
 兄貴とリョウが帰ってきた。
 訳は……説明する気も出ない。
「朝川って子、なかなかいいじゃないか。おまえに心酔しているようだし」
 友子は、一人、駅で電車に乗らなければならないので、そこまで兄貴とリョウが送って行ったのだろう。頼子と今日子と美和は近所だから、すぐ送り届けることができたであろうが。
「うーん……みどりくん。君だけは純潔でいたまえ……」
「何言ってんだ。奈々花ちゃんがいなくても、おまえみたいな浪人にみどりはやらん」
 あ。それ、今の哲郎には言い過ぎだと思うけど。好きで浪人やってんじゃないんだもんねぇ。
 兄貴も、さっきは馬面の親戚なんか欲しくない、と言ってたけれど……さすがに遠慮したか。
 まぁ、気を使わなくても、結果は同じかもしれないけれどね。
「あ、そうだ。みどり。携帯調べてみろよ」
「携帯?」
 私は、携帯を開き、えみりに教えてもらって、メールを見た。
 お父さんとお母さんからだ。
『みどり、元気でやっているか? 十七回目のバースディ、おめでとう』
『みどりちゃん、お母さんですよ。皆に宜しくね』
「俺、親父とお袋にみどりのメアド教えたんだ」
 それでこんなメールが……。嬉しいけれど、私から送るまで待っててくれても良かったんじゃなぁい? 二人には必ず送るってのは、わかってるはずだし。
「お、みどり。なに涙目になってるんだ?」
「ちょっと具合悪くて……部屋に行ってるね」
 兄貴はにやにやしていた……ような気がした。
「おーい、仕様説明書忘れてるぞー!」
 これからは、この携帯を大事に使おう。そう思った。
 お祖父ちゃんとお祖母ちゃんにも、報告しよう。そう思ったが、あの部屋ではもう、純也が寝てる。
(お祖父ちゃん、お祖母ちゃん、こんなところからでごめんなさい。みどりは十七歳になりました。――後、純也くんのことも見守ってあげてください)
 えみりと雄也が両親だと、ちょっと不安なのよ。純也のこと。あの二人も、子育てはちゃんとしているようだけど。
 今日は、早く寝よう。
 マニュアル片手にやっとメールの返信を打って、眠りについた。

 土曜日、私は川島道場に来た。
「あ、秋野さんだ」
「秋野さん、俺達の練習見てください」
「なにが秋野さんだ」
 将人が、道場のお弟子さん達の間に割り込んだ。
「桐生! てめぇ! 弟弟子のくせに女にうつつを抜かすとは何事!」
「先輩こそ、うつつを抜かせる彼女を早く見つけて欲しいものですね」
「なんだとこのぉ……」
 兄弟子(なんだろうな)の剣をひらりと交わして将人が笑っている。
 将人が笑っている。
 こんな風に、子供のように笑っている彼は、初めて見た。
 なんか、役得……。
 兄弟子の方も、本気ではなかったらしい。当たり前か。
「こらこら。桐生。早く面頬をかぶれ。岡も、ふざけるんじゃない」
「はーい」
 川島先生の注意に、二人は同時に答え、ふっとお互いに顔を見合せてまた笑った。
 将人は――短期間で嘘のように上手くなっていた。
 第一、相手の隙を捉え損ねることがない。前は、隙を見つけても、わざとそこを外していたりしたのだが。
 かと言って、フェイント(剣道ではどう言うのかな)に惑わされることもない。
 打ち込みも速くなっていた。
 すごい、すごいわ、将人。
「じゃ、桐生。あそこで素振りやれ。岡も手伝え」
 はい! わかりました! ――と二人は大声で応える。
 川島先生の言う通り、将人と岡は隅っこで素振りを始めた。
(あんなに上手くなったのに、今更素振りなんて……)
「不服そうだな。秋野。だが、基本ができていなければ、応用もできないものなんだ。素振りは案外難しいんだぞ。勉強と同じだな。地道な努力が才能と言う花を開かせる――土台作りなんて、つまらんことだらけさ。だが、それに押し潰されなかった者は、本物になる。桐生にはそれがわかってるんだ。……岡もな」
 私は、「はい!」と頷いた。
 
おっとどっこい生きている 53
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