おっとどっこい生きている
47
 翌朝、私達はいつものように食卓を囲んでいた。
 哲郎はいつものようにお祈りしてから、ほうれん草のおひたしなどを食べ始めた。彼の好物なのだ。海苔がかかっているのも嬉しいらしい。
 味噌汁は、ちゃんと煮干しから取っている。手抜きはしたくない。
 朝餉の香りが辺りを包んでいる。
「やぁ、いいな。こういう雰囲気って」
 兄貴が味噌汁を啜ってから、喜んでこう言った。
「えみりはまだかな」
 雄也が、自分達の部屋である和室の方に首を伸ばした。
「おう」
「はよ」
「おはよう、えみりサン」
「やぁ、えみりくん」
 皆が次々にえみりに挨拶する。もちろん、私も。おはようと言ってあげた。
 えみりは、今まで純也におっぱいを与えていたそうだ。
「純也ったら、いつまでも乳首離そうとしないの。雄也に似たのね、きっと」
「えみりさん。朝からそんな話しないの」
「あん。みどりったら。いいじゃない。このくらい」
「だーめ」
 私は、ぱくぱくとご飯を口に入れながら言った。
「ところでみどり。なんか作品書いてるんだろ?」
 兄貴が話題を変えた。
「うん、まぁ」
「どんなのだ」
「『黄金のラズベリー』。ゴールデンラズベリー賞って、知ってるでしょ?」
「知らない」
「アカデミー賞と違って、最低の映画に贈られる賞よ。アメリカのなんだけれどね。これは、三年連続その賞を取っちゃった小さな映画製作会社のどたばた喜劇」
「ふぅん」
「まぁ、書き出したばかりだから、どんな話になるかわからないけど」
「三年連続とはすごいな」
「ねぇ、私達も出してくれない?」
 えみりに頼み込まれてしまった。
「だめ。これは舞台がアメリカだもの」
「なんだ、つまらないの」
「でも、あなた達をモデルに使うことはできると思うわ」
「ほんと? 雄也や純也も使ってくれる?」
「俺はいいよ」
「雄也、そんな引っ込み思案ではダメよ。せっかく小説に載るチャンスなのに」
「どうせロクな登場のさせ方じゃねぇだろ」
「あら、よくわかったわね」
 私はわざとおどけて言った。
「二か月以上も同じ屋根の下で暮らしていりゃあな」
「あ、その言い方、なんかやらしー」
 きゃっきゃっ、とえみりが笑う。
 哲郎は、こちらを見て、微笑ましげに眺めている。
 リョウは――我関せず。
「リョウ、食べたら一緒に学校行きましょ!」
「桐生クンとじゃなくて、残念ねぇ」
 えみりがちゃちゃを入れる。
「将人は、朝練があるもの」
 本当は、私も将人と登校したいんだけどね。
「その点、私達は恵まれているわよねぇ――夫婦そろって学校行けるもの。ねぇ、雄也」
「ああ、えみり」
 ハートマークでも飛んできそうな勢いだ。私達は、早々と退散した。

 教室へ戻る途中、わだぬきにぶつかった。
「おう。秋野。ちょうど良かった。――これから新聞部へ来い」
「何か、また騒ぎでも起こしたの?」
「違う。麻生のことで、話がある」
「麻生?」
 はっきり言って、巻き込まれるのはごめんだ。
「いやいや。麻生もいろいろあってな」
「……一寸の虫にも五分の魂と言うものね」
「そうなんだ。アンタは麻生が憎いだろうが、まぁ、俺の話も聞いてくれ」
「――わかったわ。そろそろ休み時間終わりだけど」
「一時間ぐらい、遅刻してもいいだろ。おまえさんのことだ。毎日ちゃんと授業に出ているんだろ?」
 当たり前じゃない。
 わだぬきだって、留年にならない程度には勉強したり、テスト受けたりしているだろうし。
「綿貫部長だって、ちゃんと授業に出てるでしょ?」
「まぁなぁ……その辺にぬかりはないと思うぜ」
 わだぬきは、片頬笑みをした。眼鏡がずれたので、慌てて直す。
「とりあえず、今から来い」
 わかったわよ。命令しなくてもさ。
 今日は河野先生の授業だ。
 ――ごめんなさい、河野先生。
 私は、心の中で謝った。

「麻生は、一年のとき、テストでカンニングの疑いをかけられたことがある」
 新聞部の部室に入るなり、わだぬきは口を開いた。
「その噂が裏サイトでばーっと広まったんだな」
 やっぱり、裏サイトって、くだらない。
「――張本人はすぐ見つかった。誰だと思う?」
「……さぁ」
「あいつの中学時代からの親友だよ。嘘を書いてはみたものの、反響がすごかったんで、びびったんだろうな。そいつは麻生と一応和解したが、麻生は、それから人間不信に陥ってしまったんだろうな」
「……それって」
「そう。この間、麻生が桐生にやったことと似ているだろ? 結局、あいつはそういう方法で、仕返ししているんだろう」
「その……麻生の親友とやらはどうなったの?」
「――転校していったよ。やはり居づらかったんだろうよ」
「そうなの……」
「そのデマ書きこんだヤツだって、きっと根っから悪い奴ではない。顔が良くて成績優秀な麻生を妬んでしたことだったんだろうな」
 それじゃ、哀し過ぎるわね。
 一人一人は悪くないのに、どうして悪意は生まれるのかしら。
 そうわだぬきに伝えたところ、彼は言った。
「人間てなぁ――みんな哀しいもんなんだよ」
 深々と溜息を吐いたわだぬきは、十ぐらい老けて見えた。

 でも、麻生の過去を知ることができたのは収穫だった。
 どうやってやっつけてやろうと考えていた気持ちは吹っ飛んでしまったけど。でも――これでいいのよね。
 麻生も少しの間でも、いじめられたりしたんだろうなぁ……。
 ん? いじめ?
 哲郎――あの男の顔が思い出された。
 彼と麻生の境遇って、実は似てるんじゃないかしら。
 哲郎はキリスト教に出会い、麻生は今も人間を信じられない……。
 哲郎だって、麻生みたいになる素質は十分持っていたかも知れない。
 誰も何も信じられなくなるとか。
 私は恐怖で震えた。
 何とかしたい――
 麻生も、教会に連れて行く。
 そのアイディアが、頭の中に浮かんだ。
 そんなの、絶対無理!
 私は掻き消そうとした。だけど――いつか聞いた言葉が思い出された。
「『不可能だ』と思っているうちは、たとえそれが何であっても永遠に不可能だ」
 やってみる価値はあるかもしれない。
 しかし、今は授業がある。私は、教室の扉を開いた。
 
おっとどっこい生きている 48
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