おっとどっこい生きている
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 後ろから涼やかな声がした。
「入らないの?」
 私は振り返った。
 腰までのロングヘアー。大きな目。長い睫毛。白い肌。抜群のスタイル。
 長塚冬美!
 あまり教室に出ないくせに、一組の男子の人気を私の友達、佐伯美和と二分している、謎めいた美少女である。
 美和が可愛らしいという感じなら、冬美は楚々としたお嬢様、という形容が合っている。
 美和がアナウンサー声なら、冬美は玲瓏とした声。
 どちらも男好きしそうなタイプだ。
「みどりじゃない。今まで何やってたの?」
 いや、私からすれば、冬美、アンタこそ何やってたの?と訊きたいんだけど……。
 それにしても――さっきからいい匂いがする。
「冬美、アンタ、香水つけてるの?」
「そうだけど?」
「香水は校則違反よ」
「細かいこと言いっこなしよ」
「私は風紀委員よ」
「では、男女交際は校則違反ではないの?」
 うっ、私と将人のことを言っているのかしら……。
 だとしたら、返す言葉がないのだけれど、規則に触れることはしてないつもりよ。
「用があるなら入ったら?」
「はい……お邪魔します」
 部屋の中は――思ったより片付いていた。
 比べては何だが、綿貫部長の部室より綺麗だ。
 何台かのパソコンが並んでいる。
 そして――
「リョウ!」
 リョウの姿を見つけた私は思わず声を上げていた。
「よぉ、秋野」
 リョウが片手を上げる。
「また来たか。お客さんが」
 麻生はにやにやしている。
「ねぇ――この『今までの桐生将人の勝ち試合に八百長疑惑が浮上した』なんて記事、書いたのアンタ?」
「いや」
 麻生は首を横に振った。
「これを書いたのは、一年の沢野だよ」
「ふざけないで。どうせ、沢野とか言う生徒は、アンタのスポークスマンでしょ?」
「スポークス……マン?」
「つまり沢野が、麻生の代わりにこの記事書いたんだよ」
 わけがわからない、と言う顔の冬美にリョウが説明する。
「冬美、悪いことは言わないから、こんなとこ、出入りするのやめな」
「いやよ。私、麻生先輩の秘書だもの」
 秘書ぉ? たかだか新聞部の分派のくせして。
 それに――冬美に秘書なんか務まるのかしら。
 冬美は成績は決して悪くないし、テストの結果では時に上位に食い込むこともあるけれど、いまいち実用的でないというか……うーん、説明するのが難しいな……。
「麻生」
 私は言った。
「先輩とつけなよ。無礼だぞ。年上に向かって」
 麻生が答えた。
「なんで冬美を秘書にしているの?」
「目の保養だよ。俺には、何人もの秘書がいるんだぜ」
 麻生は髪を掻き上げて、にっと笑った。
 何てことはない。ここは、麻生のハーレムじゃない。
 まぁ、麻生は整っているっちゃあ整っている顔してるし、騙される女生徒の数も後を絶たないんだろうけれど――
「桐生先輩より、麻生先輩の方が、ずーっといい男よ」
 そうして、冬美は麻生の首に腕を絡めた。何となく、いかがわしさを感じさせる構図だった。
 見ていられなくて、私はリョウの方に目を遣った。リョウは不機嫌そうに顔をしかめていた。
 ――そうだ、麻生と冬美に撹乱されている場合ではなかった。
「なんでこんなでっち上げの記事書いたの?」
「だから、書いたのは俺じゃないんだけどな――この間の試合があまりにも散々だったので、ちょっと調べさせたのよ。そしたら、桐生将人が八百長やってたという事実にぶつかってさぁ――」
「どうせデマでしょ?」
「剣道部のヤツから聞いたんだ」
 どうせ三下のヤツね。実力じゃ敵わないから、嘘でもいいから将人を貶めたかったのね。
「それだけじゃない。ちょっとこれ見てみろ」
 パソコンのスイッチを入れ、あるサイトの画面が現れる――白岡高校の裏サイトらしい。
 そこでは、いろいろな説が飛び交っていた。
 この間は八百長しなかったが、過去にはしていたと言う説。東条学園の方が八百長していたと言う説。田村先生(サイトでは『田村が』と書かれていた)が八百長をしかけたが、相手側は断わったと言う説。東条学園は金は受け取ったが裏切ったと言う説。
 ここまで来ると、何がなんだかわかりゃしない。
 しかし、そんな事実はなかったと言う説が大部分だったのはありがたかった。
 田村先生が独断で八百長をやったと言う情報もある。これは私、田村先生の名誉の為に、断固認めることはできない。
 田村先生は、いい先生だ。川島先生も、悪い人ではない。田村先生は将人に、川島先生を紹介してくれた。
 そして――田村先生は、将人に土下座までしたのだ。それも泣きながら。なかなかできることではない。
 リョウがパソコンのディスプレイを凝視していた。
「秋野……オマエの知っているセンパイは、八百長やるようなヤツじゃないだろ?」
 リョウの台詞に、私はもちろん、張り子の虎みたいに首を縦に振った。
「もちろんよ!」
「どうだか」
 麻生はせせら笑っていた。
 リョウは、麻生を睨みつけた。
 私も位置の関係でリョウの目が見えた。憎悪でぎらぎら光っている。
 リョウがこんな目をできるのが驚きであった。私ですら、思わず気圧される。麻生はどうだかわからないが。
「麻生、ひとつ訊く」
 リョウが低い声で言った。
「だから、先輩つけろって言ってるだろうが。秋野共々、揃って失礼なヤツだな」
「桐生先輩にはもちろん『先輩』をつける。だが、オマエは先輩と認めない」
「ますますもって失敬なヤツだ。で? 俺に訊きたいこととは?」
「どうして新聞部を辞めてこんなのを作った?」
「こんなのとは! 新しい新聞部を発足させただけなんだけどな……あの四月バカと話が合わなくなったからだよ。秋野。アンタらが来てから、ヤツはほんとにバカになっちまった。腑抜けだ。だから、俺は泣く泣くヤツと袂を分かった、と言うわけだ」
「そして、デマとでっち上げの嘘新聞を作る部を始めたというわけだな?」
「それが俺の性に合っているんでね」
 リョウは、何か言いかけてやめ、沈んだ顔で黙った。
 わだぬきより、麻生の方が強かなのかもしれない。
 その時――
 キーンコーンカーンコーン
 五時限目のチャイムが鳴った。
「授業だ……留年しない程度には出ないとな。冬美、おまえはどうする?」
「麻生先輩がいないんじゃ、ここにいる意味ないわ。保健室でも行く」
 冬美は保健室登校のようだ。
「オレも授業出るか」
「アンタは寝てばかりでしょ?」
 私は思わずツッコんだ。
 すると、さっきまで剣呑な光を孕んでいたリョウの目が急に優しくなった。
「じゃ、オレ達も行くか」
「そうね」
 でも、今回は授業に集中できないに違いない。私達は、勉強どころではなかった。
 
おっとどっこい生きている 46
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