おっとどっこい生きている
43
「ほら見て。アジサイだよ」
 隼人が梅雨の花を指差す。
「アジサイ?」
 マーシャが生真面目な様子で小首を傾げる。そうすると、彼女は、野生の動物めいて見える。大きな丸い目が可愛い。
「日本の土は酸性だから、青いアジサイが咲くんだけど、ヨーロッパの土はアルカリ性だから、赤いアジサイが咲くんだよ」
「おもしろーい」
 二人がはしゃいでいるのを、私達は見守っていた。
 奈々花は、哲郎の隣で佇んでいる。
 近頃、電話でちょくちょく連絡を取り合っていたらしい。奈々花の方からかけてくることが多いようだが、哲郎も満更でもないみたい。
 うまくいくといいね。
 今日子が、
「子供っていいわねぇ」
と呟くのが聴こえた。
 子供が羨ましいわけではなく、今日子は子供が好きなのだ。
 そして――何故か友子もいる。
 この間、学校の廊下を歩いていたら、呼びとめられて、
「秋野部長。教会行ってらっしゃるんでしょう? 私も是非一度行ってみたいです。行ってみても構いませんか」
と、こう言ったわけ。
 私達――私と隼人が迎えに行った。わかりにくいところにあるからだ。
 屋根の上に一応十字架もあるのだが、知らないとそのまま通り過ぎてしまう。
 閑話休題。
「畑でも見に行かんかね」
 岩野牧師が特徴的な声で言った。
 教会の庭の広まったところに、ちょっとした畑がある。
 そこには、いろいろな野菜が育てられている。
 ミニトマト、茄子、いんげん、大根……オクラがさっぱり目を出さないと、嘆いている。
「ほら、これ、持っていってごらん」
 そう言うと、牧師は、小かぶをビニールに入れて、私にくださった。
 さぁて、どう料理したらいいかな。やっぱり味噌汁の具かな。
 そんなことを思いながら、ありがとうございます、と頭を下げた。
「この作物が収穫期に入ったら、またあげるからね」
 岩野牧師は約束してくれた。
 よーし。これで、食卓の色どりが増えるなぁ。
「みどり」
 フィリップが肩を叩いた。
「フィリップさん」
「哲郎、この前より、ずっとずっと元気。あなたのおかげ?」
 フィリップは独特のアクセントで訊く。
「多分、神様と、周囲の人達のおかげだと思います」
 私は無難な答えをしておいた。
「おお、神様。もちろんのことです。私達は、神様がいなかったら、生きていけません」
 頼子だったら、ふっと一笑に付してしまうのだろうな。
 私は思った。私もちょっと前だったら、そうしただろうな。
 でも今は――
 何かはわからないが、私達の背後で動いているものを感じることができる。それが、神の摂理というやつなのだろうか。
 それに、哲郎の熱心さ――哲郎は、昔いじめられていたり、ノイローゼになったりしたことがあるというのが嘘みたいに、元気で明るい。
 まぁ、瞳の冷たさにたじろいだこともあったけど、それは一時的なものだ。
 それも神が、引き上げてくれたということだろうか。
 しかし、そんな彼も、こんなことを洩らしていた。
「みどりくん。僕はね、水曜日の神学校にも、木曜日の祈祷会にも出ていない。本当は行きたいんだ。浪人生活なんかやめて。でも、やめられない自分がいるんだ。――僕は、身も心も神に捧げたい。それができないのは、僕の弱さだ。僕は、偽物のクリスチャンだろうか」
 私は、「そんなことはない。浪人なんだから、勉強が本分でしょ?」と諭したのだが――
 哲郎は翳のある微笑を浮かべただけだった。
 つい回想に耽ってしまった。
「みどりが来てから、可愛い女の子がたくさんこの教会に来てくれて嬉しいです」
 フィリップが言った。この人、ただの女好きではないかしら?
「ほら、純也くん。お花でちゅよ~」
 えみりが純也を抱き上げながら話しかけている。
 雄也が、慈しむような目で、妻と息子を見ている。
 こうやっていると、いいお父さんなんだな。
「あん? 何見てんだよ、みどり」
 雄也は、うってかわって怖い顔で睨む。
 ――前言撤回。
 リョウの姿が見えないが、おそらく会堂でギターでも弾いているのだろう。
 或いは、一緒にティータイムを楽しんでいるか。
「みどりは、どなたか恋人はいますか?」
「ええ、まぁ……」
 この間、奈々花や牧師が将人のことを話題にしたとき、フィリップはいなかったのだ。
「みどりお姉ちゃんは、ぼくのお兄ちゃんと結婚するんだ」
 いつの間にか傍に来ていた隼人が言った。
「あっ、あっ、だめ、だめ、だめだめだ」
 隼人が口に手を当てたまま、意味不明瞭なことを言って、両手で口元を押さえた。
「ぼく、おしゃべりなんだ。それでお兄ちゃんにいつも叱られるんだよ。よけいなこと言うなって」
 隼人はぶんぶんと首を振った。
 お、おもしろい……。
 私はつい吹き出しそうになるのをこらえた。
 それに、将人に注意されて、困った顔をしている隼人が想像できて微笑ましい。
「お兄ちゃんね、怒るとちょっと怖いんだ。ほんとにちょっとだけだけど」
『ほんとにちょっと』のところに力が入った。マーシャの手前、兄に頭が上がらないとは、思われたくないのだろう。
「お兄ちゃん、こんな顔するの」
 隼人が眉を寄せてみせた。眉間に縦じわが入る。立派な眉毛が一直線に繋がった。
 将人が端正な顔なら、隼人は愛嬌のある顔、かな。
 でも、兄弟だから、共通項はたくさんある。
 隼人もいい男に育つであろう。
 何故なら、将人もいい男だから――これって惚気かしら。
 隼人も早速、マーシャというガールフレンドを見つけたことだし。恋が実るかどうかは、それこそ、神様だけが知っていることだが。
「隼人。私、教会に戻りたい」
 この二人の間では、マーシャがイニシアチブを取っているらしい。体が大きなこともあって。
「うんっ!」
 隼人は、マーシャについて駈け出して行った。
「あーあ、隼人くん達、行っちゃったね」
「そうですね――隼人はいい子です。あの子のお兄さんの名前は、何て言うんですか?」
「え? 将人よ。桐生将人」
「かっこいい名前ですね」
 フィリップの台詞に、私は思わず赤くなった。
 彼氏の名前を褒められるのは、何となく恥ずかしい。
「仲良くしてますか? ケンカはしてませんか?」
 そういえば、気まずいときもあったわね。喧嘩はしたことなかったけど。
「はい!」
 先日の試合で、将人が一本も返す間もなく負けてしまったことは、人には言いたくなかった。
 彼は、剣道と同じくらい私のことも好きなはず……どうせ自惚れよ。
「今度、将人も連れてきてください」
「時間があったらね」
 将人が教会に来たら、どんなことが起こるであろう。いつか誘ってみようかな、と考えた。
「将人の為にも、お祈りしましょう」
 フィリップが言うので、私もキリスト教式に手を組み合わせた。私も、ちょっと祈るだけなら、抵抗がなくなってきている。
 神様。
 どうか将人の努力が報われますように。
 
おっとどっこい生きている 44
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