おっとどっこい生きている すぐ近くだし、その日は用事がなかったので、応援に行く。 みんな、いろいろと忙しそうだったが、何故か頼子だけはついてきてくれた。 さぁ、そろそろ将人の試合だ。 私は拳を握って見入る。 さあ! 将人の戦っている姿を見ることができるのだ! だが――。 将人はあっという間に相手方に一本取られた。 動揺したのか、続く二本目も取られ――桐生将人の完敗であった。 頼子が用事があると言って消えてしまった。 私達は、お互いに無言で歩いていた。 「桐生……」 後ろから声がする。田村先生だ。 将人を叱りに来たのだろうか。いや、そうではなさそうだ。 目からぼろぼろ涙がこぼれている。いつもの瓢々とした感じが消えていた。 「桐生……すまん」 そう言って、田村先生は頭を下げた。 「そんな……先生が謝ることじゃないですよ。俺の未熟さです」 将人が先生を宥めにかかる。 「いや……こうなることが、俺にはわかっていたような気がしたよ」 「え……」 「ついてこい」 正直言ってスポーツ科学は松下先生の領域なのだがな――そう言った田村先生が私達を連れて行ったのは、剣道道場であった。話によると、かなり有名なとこらしい。 「おまえ、部活に出なくていいから、今日からここに世話になんな」 田村先生が言った。 「あの、これはどういう……」 「いいから。入ってみろ。見た目は普通の剣道教室だが、ここの先生がすごいからな」 ふーん。田村先生も一目置く人がいるのね。 というか、私ここにいていいんだろうか。 その疑問を田村先生は一掃してくれた。 「秋野もちょっと見に来い。小説の題材にはならんかもしれんが、暇つぶしにはなるだろ」 というわけで、私も見学についていくことにした。 門下生達が、竹刀を振るって練習をしている。素人目にも、上手い人もいれば下手な人もいるということぐらいはわかる。 「川島」 ちょうど面頬を取った頬を紅潮させている三十がらみの男が、田村先生に呼ばれて嬉しそうに答えた。 「田村先生!」 「ちょっと、こいつの腕、見てくんな」 「わかりました!」 川島が、気持の良い返事をした。 「桐生。胴着は車の中にある。持ってきて、こいつと試合をしろ」 「そんな、急に言われましても……」 「いいから! 俺の言う通りにするんだ。わかったな」 田村先生の目には、涙はもうすっかりなくなったが、その代わりぎらぎらした物騒な目になった。 「はいっ!」 将人も、田村先生には敵わないらしい。 準備ができると、将人は川島と相対峙した。 審判は、田村先生。 川島は若いながらも、ここの道場主であるらしい。 「一本目、はじめっ!」 将人が打ち込もうとする。 川島は将人の攻撃を悉く受け止め、反撃に転じた。 速い! 「一本!」 「待ってください!」 一旦試合を中断させて将人が面頬を外す。 「これでも本気でかかっていったんですよ! 川島さん!」 将人はその場に土下座した。 「俺の負けです。どうかご教授ください」 「ふむ……」 川島は何かを考えているようだった。 「さすがだな。ええと……桐生、と言ったっけか」 「桐生将人です。宜しくお願いします」 「田村先生」 「ん」 「なかなかの逸材ですね」 「そうだろ。一本取られただけで、すぐに力量の差がわかってしまったのだからな」 「桐生。言われなくても、今日からおまえもここの生徒だ」 「あ……ありがとうございます」 川島が将人より強いのはわかった。でも、田村先生と川島って、一体どんな関係があるの? 「川島は、俺の生徒だった」 田村先生は、私の心の声を察したように、説明を始めた。 「高校当時から破格の強さでな、大学が何校かスカウトに来たよ。けれども、こいつはそれらを蹴って、明治からずっと続いているここの道場を継いだんだよ」 「へぇー」 私は思わず、声を出して讃嘆してしまった。 「でもまさか、神谷活心流じゃないわよね」 田村先生はにやっと笑った。 「ああ。残念ながら、な」 あ、この先生も、『るろ剣』見てたな。 私は頼子に貸してもらったんだけど。 頼子は、漫画を読む量も半端ではない。それに、時々良さそうなのを貸してくれる。 私の知識は、頼子から間接的に得られたものも多い。漫画のも、そのひとつだ。 「桐生。今言えるのは、おまえの攻撃には隙があるということだよ。スマートに決めようとするのも悪い癖だ。それから、身につけなければならないのはスピードだな」 へぇー。川島って、今手合わせしただけで、そんなことがわかるんだ。 「桐生。おまえ、自分より強い奴と相手したことないだろ」 田村先生がずばりと指摘した。 「まぁ、武田もそこそこやるけどな。けれど、おまえには敵わない。おまえに必要なのは『自分よりも強い相手』だ。おまえ、自分が壁に当たってるのは承知だよな。ここで修行するうち、その壁も克服できるだろう」 将人の壁を田村先生は見抜いていた。 やっぱりすごい。ただの風来坊じみたおやじではないんだ。 「秋野が男だったら、迷わず入部させるところなんだけれどな。せめて剣道部のマネージャーに……と言っても、文芸部の仕事の方が大変だろ? なんせ部長様だからな」 剣道部のマネージャーか。将人と一緒にいられるのは魅力だけど、私は文章書いている方が性に合っているからな。 あ、そう言えば、書きかけの小説があったんだっけ。 剣道の小説じゃないけど、今日のことはネタにはなるかな。 それには、もっと剣道の勉強しなければならないだろうけど。 「では、竹刀を持って、力を出してみろ。俺が相手になってやるから」 川島がぐっと竹刀を持ち直す。 「はい!」 練習はしばらく続いた。 「今日はこのぐらいかな。いや、おまえ、よくやるよ。基礎もできてるしな。後は、あそこで素振りをしていてくれ」 将人は、「はい!」と元気良く答え、道場の隅に移った。 「先生、俺も、あの人と試合がしたいのですが」 「今のおまえはまだちょっと……というところか。あいつは、さすがに剣道部の主将だけのことはある。尤も、それだけでもないみたいだがな」 将人が人の知らないところで練習していることを、私は知っている。 汗と共に流した涙の数も……て、見てきたわけではないがちょっと使ってみたい言い回しだったのだ。 「川島、秋野も出入り自由にしていいか?」 「ああ、いいとも。女の目があった方がみんな発奮すると思うからな」 おおおお!と、声が上がった。 「な、何?」 「雄叫びだよ。ここには女っけがないからなぁ」 「でも、秋野はそうそうは来れないぞ。結構忙しいんだからな」 将人が釘を刺したら、途端に声が小さくなった。 「時間があったらきます」 「秋野……さんですか。下の名前は?」 「みどりよ」 「みどりさん、また来てください」 「わかったわ」 『川島道場』を出ると、私は家に帰って、祖母と祖父に手を合わせながら今日の出来事を報告し、ついでに父と母にも言った。 「楽しそうで良かったわね、みどりちゃん」 電話越しの母はうきうきとした口調だった。 「実は、お母さんね、これからお父さんとデートなの。行ってきていい?」 「はいはい。行ってらっしゃい」 私は、溜め息を吐いて電話を切った。 もう結婚して二十年以上経つのに、あれだけラブラブなのも、大したもんだ。 私も、将人と――なんてね。想像しただけで照れる。 「みどり……」 「あ、兄貴?」 兄貴が浮かない顔をしている。 両親がこの家からいなくなってから、様々な顔を見せるようになった兄貴だけど、こんなに元気がないのは珍しい。 「リョウが言ってたぞ。おまえ、綿貫に告白されたんだってな」 「なんだ。リョウのお喋り」 「その綿貫があんなことを……でも、今回は桐生だからな」 「なに? 何の話?」 「いや、俺の勘違いかもしれない。別人かもしれないし」 兄貴は首を振り振り、そこを去って行った。 不意に、私はある台詞を思い出した。 (麻生が造反した) その台詞が、不気味に私の心の襞に浸透していった。 おっとどっこい生きている 42 BACK/HOME |