おっとどっこい生きている
40
 校内の廊下でばったり、将人と出くわした。4時限目の音楽も終わったときのことだ。
(将人……)
 私はちょっと後ろめたさを感じた。先日の哲郎の誕生日には、彼はよばなかったから。
 私には珍しく、(悪いことしたな……)という自省が湧き起こった。いくら兄貴の意向だからとはいえ。
 いや、正直に言おう。将人を哲郎の誕生会なんかに招いたら、ずっと前に見た、あの冷たい瞳がまた哲郎の顔に蘇るんじゃないかと、それがちょっと怖かったのだ。
「どうしたの? 将人」
「ああ。秋野、ちょっといいかな?」
「――何?」
「秋野ってさ、教会に行ってるんだって? 家族と一緒に」
 んー、まぁ、正確には家族ではないんだけどね。
 私は、小首を傾げて「それが?」と言うジェスチャーをした。
「日曜学校ってのもあるんだろ?」
「うん。朝にね」
「それにうちの弟も連れて行って欲しいんだ」
「隼人くんを?」
「あいつも『みどりお姉ちゃんに会いたい』っていつも言ってるしさ」
 へぇ〜。そこまで好かれると、ますます可愛く思えちゃうわね。
「将人も来るの?」
「いや、忙しいし」
「わかったわ。じゃ、哲郎さんに話してみる」
「頼むよ」
 将人は来ないのか――安堵と残念な気持ちを、心の中で噛みしめた。
 ――そして今、私は哲郎の部屋にいる。
「そう言うわけで、今度の日曜日、まさ……桐生先輩の弟の隼人くんを教会に連れて行きたいんだけど」
「もちろん、大歓迎さ!」
 哲郎は目を輝かせながら、心底嬉しそうな顔で言った。
 私はほっとした。
「みどりくんと会ってから、いろいろな人が教会に来るようになったなぁ。みどりくんは伝道の器だよ」
 或いはハーメルンの笛吹きかもね――私は思ったが、口には出さないでおいた。
「じゃ、私が隼人くんを連れてくるから、教会でおちあいましょ」
「ああ」
 約束の日曜日、隼人くんを迎えに、桐生家に行った。
 将人は出かけた後だったらしい。隼人くんが小さい体でドアを支えていた。
「おはよう。みどりお姉ちゃん」
「おはよう、隼人くん。今日はせっかくだから、イエス様のお勉強しに行こうね」
 私にはまだ、こんな風に年上風吹かせて、こんなこと言える資格はないんだけどさ。
 そんなこと知らない隼人くんは、思いっきり、「うんっ!」と頷いた。
 哲郎と奈々花が、一緒に教会に来た。やるじゃん!
「奈々花……こんなに朝早くから?」
「うん。この間は哲郎さんが、私に合わせてくれたみたいだから」
 そうか。だから、哲郎はあの日はいつもより遅めに出発したのか。
 あのときは、哲郎さんも、茶碗洗いなど手伝ってくれたっけ。
「ねぇねぇ、見て見て」
 物思いに耽っていた私は、はっと我に返った。
 この間より大きめのバッグから、奈々花は一冊の分厚い本を取り出した。
「じゃんっ! マイ聖書」
「アンタ……それ、買ったの?」
「そうよ。高かったけど、思い切って自腹切っちゃった。旧約聖書は難しいけど、新約はおなじみのお話も多いから」
「旧約と新約の区別がつくだけ、すごいじゃない」
「哲郎さんが教えてくれたのよ。「『旧約』と『新約』って何?」って」
「旧約は名前の通り、アブラハムの子孫に示された古い約束、新約は、イエス様の教え。初めのうちは戸惑うよね」
 哲郎が、優しい目をして言った。奈々花は、はにかみながら口元を綻ばせた。
「ねぇ、みどりお姉ちゃん」
 隼人が、私の手を引っ張った。
「ぼくも聖書勉強したい」
 それは、本当の興味からか、それとも、私達の気をひきたいから言ったことなのかわからないけれど。
「間もなく、日曜学校が始まるからね」
 続々と子供達が入ってきた。
 一緒になって賛美歌を歌い、岩野牧師のお話に耳を傾ける。みんな真剣だった。子供だけに可能な熱心さでもって。隼人も例外ではなかった。私より真剣だったかもしれない。
 日曜学校が終わると、子供達は飴をもらいながら帰って行った。
「隼人くん、礼拝に出る?」
 私が訊くと、
「もちろん!」
という、元気な答えが返ってきた。
「あはは。小さいながらも、なかなか感心な子だね」
 近くにいた岩野牧師が、独特の笑いをしながら言った。
「はじめまして。ぼく、桐生隼人といいます」
 隼人は深々とお辞儀した。こんなところにも、躾の良さが表れているのね。
「私は岩野孝明です。どうぞよろしく」
 ふぅん。岩野牧師って、孝明って言う名だったのか。
 岩野牧師は、隼人に向かって屈んでみせ、頭を撫でた。
 隼人は、牧師に子供扱いされたことがかえって嬉しいらしく、満足そうに笑った。牧師には、人の心を惹きつける何かがあるのだ。それは年齢だけのものではない。
「今日は、わかりやすいところを説教するからね」
「ぼく、説教はやだなぁ。いつもお父さん達にされてるから」
 あ、と小さな声を上げて、隼人は口元を押さえた。どうやら、年上の人には友達と話すように話してはいけない、と教えられているらしい。
「ん? どうしたの?」
「ぼく、けいご使わなかった」
「いいんだよ。ぼく」
 牧師は、また隼人の頭を撫でた。
「みどりさんが連れてきたんだね」
「はい。友人に頼まれて」
「友人て?」
「学校の……」
「みどりちゃんの彼氏よね」
 奈々花が割って入った。
「わかった。オーケイオーケイ」
 牧師が再び笑った。
「みどりさんの友達は、教会には来ないの?」
「部活がありますから」
「ほう。運動部?」
「はい。剣道部です」
「ずいぶん熱心だね。日曜日もやるなんて」
 私から見たら、牧師達も充分熱心だと思うけどなぁ。
 そのとき、渡辺夫妻達が入ってきた。
 礼拝が始まった。
 隼人は、楽しそうに歌を歌い、神妙な顔つきで、岩野牧師の話を聞いていた。だが、聖書にはあまり目を通さない。無理もない。初めての礼拝で寝てしまった私よりは立派だ。
 岩野牧師の説教はわかりやすい。隼人にも理解できるように喋っている。
「これ、たたかいのお話なの?」
 小声で訊いてきた隼人に、そうよ、と言っておいた。
 旧約聖書って言うのは、「つまり敵はみんなぶっ殺せ」と言う話でしょ? と、聞いたことがある。またずいぶん物騒で極端な話だが、ちょっと諾いかねないほど、戦争ばかりやっている。
 礼拝が終わったら、ご飯を食べる。隼人も食べたいと言うので、みんなで一緒に。自分で作る必要のないご飯は、なんと美味しいことか!
 いや、頼まれれば作るけどさ……。
 リョウのギターが活躍した英語礼拝も終了すると、お茶の時間だ。
 この教会のティーバッグで淹れたお茶は、舌が肥えているはずの私でも、特に不満はない。不思議だな。なんでだろ。教会のあったかい雰囲気が、お茶の味にも影響するのかな。
 隼人はマーシャとはしゃぎながら鬼ごっこをしていた。キャッキャッと歓声を上げながら。
 描写が不十分なのは、仕方がない。私は、あまり文才があるというタイプではないのだから。
 しかし、おかげでお茶をのんびりと楽しむことができた。
 リョウは傍らでギターを爪弾いていた。純也は和室で眠っている為、渡辺夫妻はフィリップと愉快そうに会話をしていた。意外な特技だけど、この二人、英語は上手なのよね。でも、考えてみると特に意外でもないのかも知れない。洋楽で耳を鍛えている夫婦なのだから。
 帰るとき、隼人は名残惜しそうにマーシャと別れの挨拶を告げていた。
「隼人くん、マーシャ好き?」
 手を繋ぎながら、桐生家へ向かう途中、私は訊いみた。
「うん。大好き!」
 隼人はにこにこしながら返事をした。
「また教会にきたい!」と勢いよく宣言する。
(おやおや。哲郎が聞いたら大喜びするわね)
 その哲郎は、奈々花達と一緒に、地域集会に出かける途中だ。多分、そうだろう。
 頑張れ。奈々花――哲郎。
 それから、隼人の小さな恋も応援してあげたい。
 
おっとどっこい生きている 41
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