おっとどっこい生きている
39
(天国のおじいちゃん、おばあちゃん、いつも見守っていてくれてありがとう。今日はパーティーをしたのよ。哲郎さんの誕生日だったから……)
 私は祖父と祖母に手を合わせながら心の中で報告をする。死んだ人は、生きている孫の心はよくわかるものだ、と私は信じている。
 まぁ、哲郎さんはいい気持ちしないみたいだけど……。
 チーン、といつものように鐘を鳴らす。
「なぁに辛気くせえ音出してんだよ。オレ達はもう寝るんだかんな」
 がらっと襖が開いて、雄也が入ってきた。その後ろからえみりも。
「ごめんねぇ、長風呂で」
 えみりに謝られる筋合いはないんだけど……。
 純也はすやすやと眠っている。
「今日は久々に夫婦だけで入っちゃったもんなー」
「やーだ、アナタったら」
 いちゃいちゃいちゃいちゃ。二人だけの世界。
 ま、いいけどさ。うちのお父さんとお母さんを思い出すな。
「えみりってば、全くスタイル崩れてねぇよ。子供産んだとは思えないよなー。オレ、ムラムラ来ちゃったもん」
「雄也のスケベー」
 これから先の会話はここには書けない(あら? これって、あの忌々しい新聞記事の結びの文章に似てるわね)私には意味のわからないこともたくさん言った。
 ともかく、わかるのは、渡辺夫妻の間に二人目の子供ができるのは、そう遠い未来ではないかもしれない、ということだけだ。
「あら。みどりってば、顔色も変えない。えらーい」
 単にアンタらの話についていけないだけなんですけど。
「ま、耳年増って言葉もあるくらいだからな」
 雄也が失礼なことを言う。そんな言葉ばっかり知ってるんだから。
 放っておこう。二人があがってきたんだから、私もお風呂に行こうっと。
 いつもは一番先にお風呂にするんだけど、今日はいろいろ忙しかったので、えみり達に先に入浴の権利を譲ったのだ。
 あ、私より前に、哲郎さんに入ってきてもらおうかな。あの人、そう毎日体洗う方ではないし。今日ぐらいは身綺麗にしてもらわないと。
「みどりくん! 探したよ! 見てくれ!」
 和室に飛び込んできた哲郎を見て、私は目が点になった。それから、雄也達と三人で笑い出した。
「哲郎ー! なんだよオマエ、その格好はよー!」
 涙目になりながら腹を押さえている雄也に、哲郎は、
「そんなに変かなぁ……」
と、言った。
 確かに、そのいでたちは、珍妙としか言いようがなかった。
「70年代によくいたよなー……あ、ヒッピーだ、ヒッピー」
「ヒッピーは違うと思うけど……」
「もらったプレゼント、一応着てみたんだけど……」
「どれが誰のプレゼントなの?」
「えっとー、このTシャツが秋野くんだろ?」
 写真が大きくプリントされてあるフリーサイズのTシャツの襟がゆるい。細い鎖骨が見えた。
「それから、この短パンが渡辺くん達からだろう?」
「短パンじゃねぇよ。ハーフパンツだよ」
 雄也が不服そうに口を出す。
「ウエストはゴム製なのよね」
 えみりが説明する。
「それから、この帽子は今日子くんね」
 哲郎は黒いキャップをきゅっと直す。
「朝川くんからはハンカチを三枚ももらったんだけど……何?」
 私達が注目しているのは、極彩色の靴下である。
「哲郎……そのド派手な靴下、いったい……」
「ああ。これは頼子くんから……」
「え?! あの子、こんなにセンスないの?!」
 えみりにセンスないって言われちゃ、頼子も立つ瀬がないと思うけど……。我が友ながら、頼子の感覚は時々不可解だ。
「おい、ちょっとグラサン出してみたんだ。かけてみろよ」
 雄也が哲郎に、サングラスを渡した。哲郎も大人しく言う通りにする。
「うわはははは! 超ヘンー!!!」
「怪しい人だー!」
「おい、みどり。駿も呼んでデジカメ持って来させろ! これ写すんだー!!」
「そこまでしなくても……」
「皆してひどいんだから……」
 哲郎は微かに笑っている。私達が楽しそうなら、それでいいらしい。
「この靴下がまたね……ルーズソックスを思い出させるんだ。今時古いよな」
「あら、私がルーズソックス履いてたとき、散々褒めていたのは誰でしたっけー?」
 えみりの口の端がひくついている。雄也は、藪をつついて蛇を出したらしい。
「いや。えみりのは似合ってたよ。うん。白かったし」
 白いから何だと言うのだ。
「あなた達ねぇ。うちの学校にいたら、即取り締まりの対象になったわよ」
「えー、ダレだよ、そんな固いこと言うヤツ」
「私」
「あはは。みどりだったら言いそうねー」
 えみりはハイになっているようだが、大丈夫か? 酒を飲んだすぐ後に、お風呂に入ったのがいけなかったのかな?
(おじいちゃん、おばあちゃん、騒がしくしてごめんなさい)
 おじいちゃん達は、あの世で苦笑しているに違いなかった。
「そういや、奈々花ちゃんからもらったプレゼントは何だったんだ?」
 と、雄也が訊く。
「秘密」
 秘密って……そうか。哲郎には、奈々花のプレゼントはきっと特別なものなんだ。だから、秘密――と。
 良かったね。奈々花。
「秘密、だって。隅に置けないな。このヤロー」
 雄也も同じような感想を抱いたらしい。
 純也は眠ったままでいる。疲れたのだろうか。それとも単に騒音に慣れてるだけ? 雄也とえみりの子供だけのことはあるなぁ……。
「じゃ、私、もう行くから。哲郎さんお風呂入るでしょ?」
「いや、僕は別に――」
「入るわよねぇ」
 何日入ってないと思ってるのよ。不潔なのは許さないわよ。
 そんな感情が顔に出ていたらしかった。
「わかった、みどりくんの言う通りにするよ――渡辺くん、サングラス返すね」
「いいっていいって。持って行きな。どうせたくさんあるんだし」
 廊下に出ると、哲郎が感に堪えたように言った。
「今日は楽しかったなぁ」
「まぁね」
「ねぇ、みどりくん。僕はね、生きていて良かったと思っているよ」
「当然でしょ」
「人間ていろいろあっても、結構強かなものだと思うよ。もうこれが人生の最後だ、と思ったときでさえも」
「…………」
 それは、ノイローゼになったときのことを思い出して話したのだろうか。
「だから……君達には感謝してる。ありがとう」
 ぺこっとお辞儀をされた。
 不覚にも。
 私はその瞬間、じわっと来た。
 それは、死線をくぐり抜けた者だから感じる重みかもしれない。
 なんでこんな話を私にしたのかはわからないけど。
「みどりくん。お風呂の前に、秋野くんと話していいかな? 彼は僕の恩人だから」
 え?
 哲郎の恩人って、岩野牧師じゃないの?
 兄貴が何か、哲郎を世話したとでも言うの?
「哲郎さん、それって――」
「ああ。僕、中学の時いじめにあってたわけ。あからさまに無視されてたりしたんだ。秋野くんだけが、普通に接してくれた。本人はもう忘れてるかもしれないけどね」
「哲郎さん!」
「みどりくん……?」
「ごめんなさい! ごめんなさいごめんなさい!」
 あなたのこと、わかってあげられなくて、ごめんなさい。
 以前、この家から追い出そうと一瞬でも思ったこと、ごめんなさい。
 私は哲郎のシャツにしがみつき顔を埋めた。
 兄貴……。
 ただの苦労知らずだとばかり思ってて、ごめんなさい。
 兄貴には兄貴の事情や世界があったんだね。
 哲郎にも、哲郎の事情があったように。
 きっと、哲郎は、いじめた奴ら見返す為に、勉強に励んだんだろうね。だから、大学に落ちたとき、ノイローゼになったんだ。
 そんなとき出会ったのがイエス・キリストだったんだね。
 私は信仰とかまだそういうの、よくわからないけど。
 哲郎が救いを求めた気持ちは、少し知ることができたような気がする。
 ちょっと、哲郎や兄貴に歩み寄れたような気がする。
 まだまだうかがいしれないことばかりだけれども。
 私、もう哲郎さんの信仰、馬鹿にしない。
 そりゃ、理解できないこともあるけれど……。
「哲郎さん。私、強く生きる。だから、アンタも強く生きて!」
 顔を上げて、哲郎の、私の涙でぐしゃぐしゃになったTシャツから手を離し、バンと彼の肩を叩いた。
「強くなってるよ。みどりくんは。本当に」
「ありがと……新品なのに汚れちゃったね。シャツ」
 私は鼻を啜りあげた。しょっぱい味がした。
「洗えばいいよ……って、僕らのいつもみどりくんが洗濯してくれてるんだよね」
「そうね。取り敢えず出しといて」
「わかった」
「それよりも……兄貴に見つからないうちに早く脱いでね」
「なんで?」
「笑われるのイヤでしょ?」
 だが、遅かった。兄貴が居間から出てきたのだ。
 さすがに兄貴も驚いたようだった。
 確かに、今の哲郎は帽子の下から覗いた髪もばさばさだし、サングラスはかけてるし……で、不審者に見えなくもないわね。
 廊下に兄貴の大哄笑が轟いた。
 
おっとどっこい生きている 40
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