おっとどっこい生きている 私は祖父と祖母に手を合わせながら心の中で報告をする。死んだ人は、生きている孫の心はよくわかるものだ、と私は信じている。 まぁ、哲郎さんはいい気持ちしないみたいだけど……。 チーン、といつものように鐘を鳴らす。 「なぁに辛気くせえ音出してんだよ。オレ達はもう寝るんだかんな」 がらっと襖が開いて、雄也が入ってきた。その後ろからえみりも。 「ごめんねぇ、長風呂で」 えみりに謝られる筋合いはないんだけど……。 純也はすやすやと眠っている。 「今日は久々に夫婦だけで入っちゃったもんなー」 「やーだ、アナタったら」 いちゃいちゃいちゃいちゃ。二人だけの世界。 ま、いいけどさ。うちのお父さんとお母さんを思い出すな。 「えみりってば、全くスタイル崩れてねぇよ。子供産んだとは思えないよなー。オレ、ムラムラ来ちゃったもん」 「雄也のスケベー」 これから先の会話はここには書けない(あら? これって、あの忌々しい新聞記事の結びの文章に似てるわね)私には意味のわからないこともたくさん言った。 ともかく、わかるのは、渡辺夫妻の間に二人目の子供ができるのは、そう遠い未来ではないかもしれない、ということだけだ。 「あら。みどりってば、顔色も変えない。えらーい」 単にアンタらの話についていけないだけなんですけど。 「ま、耳年増って言葉もあるくらいだからな」 雄也が失礼なことを言う。そんな言葉ばっかり知ってるんだから。 放っておこう。二人があがってきたんだから、私もお風呂に行こうっと。 いつもは一番先にお風呂にするんだけど、今日はいろいろ忙しかったので、えみり達に先に入浴の権利を譲ったのだ。 あ、私より前に、哲郎さんに入ってきてもらおうかな。あの人、そう毎日体洗う方ではないし。今日ぐらいは身綺麗にしてもらわないと。 「みどりくん! 探したよ! 見てくれ!」 和室に飛び込んできた哲郎を見て、私は目が点になった。それから、雄也達と三人で笑い出した。 「哲郎ー! なんだよオマエ、その格好はよー!」 涙目になりながら腹を押さえている雄也に、哲郎は、 「そんなに変かなぁ……」 と、言った。 確かに、そのいでたちは、珍妙としか言いようがなかった。 「70年代によくいたよなー……あ、ヒッピーだ、ヒッピー」 「ヒッピーは違うと思うけど……」 「もらったプレゼント、一応着てみたんだけど……」 「どれが誰のプレゼントなの?」 「えっとー、このTシャツが秋野くんだろ?」 写真が大きくプリントされてあるフリーサイズのTシャツの襟がゆるい。細い鎖骨が見えた。 「それから、この短パンが渡辺くん達からだろう?」 「短パンじゃねぇよ。ハーフパンツだよ」 雄也が不服そうに口を出す。 「ウエストはゴム製なのよね」 えみりが説明する。 「それから、この帽子は今日子くんね」 哲郎は黒いキャップをきゅっと直す。 「朝川くんからはハンカチを三枚ももらったんだけど……何?」 私達が注目しているのは、極彩色の靴下である。 「哲郎……そのド派手な靴下、いったい……」 「ああ。これは頼子くんから……」 「え?! あの子、こんなにセンスないの?!」 えみりにセンスないって言われちゃ、頼子も立つ瀬がないと思うけど……。我が友ながら、頼子の感覚は時々不可解だ。 「おい、ちょっとグラサン出してみたんだ。かけてみろよ」 雄也が哲郎に、サングラスを渡した。哲郎も大人しく言う通りにする。 「うわはははは! 超ヘンー!!!」 「怪しい人だー!」 「おい、みどり。駿も呼んでデジカメ持って来させろ! これ写すんだー!!」 「そこまでしなくても……」 「皆してひどいんだから……」 哲郎は微かに笑っている。私達が楽しそうなら、それでいいらしい。 「この靴下がまたね……ルーズソックスを思い出させるんだ。今時古いよな」 「あら、私がルーズソックス履いてたとき、散々褒めていたのは誰でしたっけー?」 えみりの口の端がひくついている。雄也は、藪をつついて蛇を出したらしい。 「いや。えみりのは似合ってたよ。うん。白かったし」 白いから何だと言うのだ。 「あなた達ねぇ。うちの学校にいたら、即取り締まりの対象になったわよ」 「えー、ダレだよ、そんな固いこと言うヤツ」 「私」 「あはは。みどりだったら言いそうねー」 えみりはハイになっているようだが、大丈夫か? 酒を飲んだすぐ後に、お風呂に入ったのがいけなかったのかな? (おじいちゃん、おばあちゃん、騒がしくしてごめんなさい) おじいちゃん達は、あの世で苦笑しているに違いなかった。 「そういや、奈々花ちゃんからもらったプレゼントは何だったんだ?」 と、雄也が訊く。 「秘密」 秘密って……そうか。哲郎には、奈々花のプレゼントはきっと特別なものなんだ。だから、秘密――と。 良かったね。奈々花。 「秘密、だって。隅に置けないな。このヤロー」 雄也も同じような感想を抱いたらしい。 純也は眠ったままでいる。疲れたのだろうか。それとも単に騒音に慣れてるだけ? 雄也とえみりの子供だけのことはあるなぁ……。 「じゃ、私、もう行くから。哲郎さんお風呂入るでしょ?」 「いや、僕は別に――」 「入るわよねぇ」 何日入ってないと思ってるのよ。不潔なのは許さないわよ。 そんな感情が顔に出ていたらしかった。 「わかった、みどりくんの言う通りにするよ――渡辺くん、サングラス返すね」 「いいっていいって。持って行きな。どうせたくさんあるんだし」 廊下に出ると、哲郎が感に堪えたように言った。 「今日は楽しかったなぁ」 「まぁね」 「ねぇ、みどりくん。僕はね、生きていて良かったと思っているよ」 「当然でしょ」 「人間ていろいろあっても、結構強かなものだと思うよ。もうこれが人生の最後だ、と思ったときでさえも」 「…………」 それは、ノイローゼになったときのことを思い出して話したのだろうか。 「だから……君達には感謝してる。ありがとう」 ぺこっとお辞儀をされた。 不覚にも。 私はその瞬間、じわっと来た。 それは、死線をくぐり抜けた者だから感じる重みかもしれない。 なんでこんな話を私にしたのかはわからないけど。 「みどりくん。お風呂の前に、秋野くんと話していいかな? 彼は僕の恩人だから」 え? 哲郎の恩人って、岩野牧師じゃないの? 兄貴が何か、哲郎を世話したとでも言うの? 「哲郎さん、それって――」 「ああ。僕、中学の時いじめにあってたわけ。あからさまに無視されてたりしたんだ。秋野くんだけが、普通に接してくれた。本人はもう忘れてるかもしれないけどね」 「哲郎さん!」 「みどりくん……?」 「ごめんなさい! ごめんなさいごめんなさい!」 あなたのこと、わかってあげられなくて、ごめんなさい。 以前、この家から追い出そうと一瞬でも思ったこと、ごめんなさい。 私は哲郎のシャツにしがみつき顔を埋めた。 兄貴……。 ただの苦労知らずだとばかり思ってて、ごめんなさい。 兄貴には兄貴の事情や世界があったんだね。 哲郎にも、哲郎の事情があったように。 きっと、哲郎は、いじめた奴ら見返す為に、勉強に励んだんだろうね。だから、大学に落ちたとき、ノイローゼになったんだ。 そんなとき出会ったのがイエス・キリストだったんだね。 私は信仰とかまだそういうの、よくわからないけど。 哲郎が救いを求めた気持ちは、少し知ることができたような気がする。 ちょっと、哲郎や兄貴に歩み寄れたような気がする。 まだまだうかがいしれないことばかりだけれども。 私、もう哲郎さんの信仰、馬鹿にしない。 そりゃ、理解できないこともあるけれど……。 「哲郎さん。私、強く生きる。だから、アンタも強く生きて!」 顔を上げて、哲郎の、私の涙でぐしゃぐしゃになったTシャツから手を離し、バンと彼の肩を叩いた。 「強くなってるよ。みどりくんは。本当に」 「ありがと……新品なのに汚れちゃったね。シャツ」 私は鼻を啜りあげた。しょっぱい味がした。 「洗えばいいよ……って、僕らのいつもみどりくんが洗濯してくれてるんだよね」 「そうね。取り敢えず出しといて」 「わかった」 「それよりも……兄貴に見つからないうちに早く脱いでね」 「なんで?」 「笑われるのイヤでしょ?」 だが、遅かった。兄貴が居間から出てきたのだ。 さすがに兄貴も驚いたようだった。 確かに、今の哲郎は帽子の下から覗いた髪もばさばさだし、サングラスはかけてるし……で、不審者に見えなくもないわね。 廊下に兄貴の大哄笑が轟いた。 おっとどっこい生きている 40 BACK/HOME |