おっとどっこい生きている
37
「奈々花さん、あっちで岩野牧師にお祈りしてもらいましょう」
 フィリップが言うと、奈々花は大人しく従った。
 私は、それを何とはなく聴いていた。確かこんな内容だったと思う。
「それでは、奈々花さん、私の後について祈ってください。――天の父なる神様」
「天の父なる神様」
「イエス様を信じることができますように」
「――イエス様を信じることができますように」
「今まで知っていて犯した罪」
「今まで知っていて犯した罪」
「知らないで犯した罪のことを」
「知らないで犯した罪のことを」
「お赦しください」
「――お赦しください」
「悔い改めます」
「悔い改めます」
 知らないで犯した罪? そんなもの、どうやって悔い改めることができるのよ。
 ――帰り道、私達は、黙々と歩いていた。
 哲郎はいない。地域集会や、夜の礼拝にも出るのだそうだ。よくやるよ。勉強はどうするんだろう。
 えみり達も参加したそうにしてたから、多分そうしたんじゃないかな。
 だから、今は、私と奈々花の二人しかいない。
「哲郎さんには、結婚したい相手がいるのね」
と、奈々花はこちらを睨んだ。
「あー……そうみたいね」
 いささか思い当たらない節もないではない私は、適当に返事して、お茶を濁した。
「今だったら、みどりちゃん相手でも、勝てそうな気がするのに……」
 奈々花が静かに呟いた。
 あのね、奈々花。恋愛はパワーゲームじゃないのよ。
「ライバルはイエス様ね」
 そう言って、奈々花は、ぐいと、目元を擦った。
『親分はイエス様』――確かに昔、そんな映画があった。
 元ヤクザのクリスチャンにとっては、敬愛し、ついていく対象であったにしても、恋敵となると――これは、厳しい。
 奈々花には、わかるんじゃないかな。昔、敬虔な修道女に恋した男の気持ちが。
 もっといい男はいるんじゃない?――奈々花だけの為の恋人が、未来で待っているかもよ――だめだ。慰めにもなりゃしない。
 正直言って、彼女、あんまり男運がないなぁ……と他人事のように思ってしまう。私が言うのもなんだけど。
「ねぇ、みどりちゃん家、聖書ある?」
「聖書? まぁ、一度買ってはみたけど」
 ちゃんと旧約から読み始めてみたんだけど、確か、申命記で挫折した記憶がある。
「私も聖書買う。ちゃんと一から勉強する」
「奈々花――そんなに哲郎に合わせることないんじゃない?」
「自分の為よ。哲郎さんのこともあるけど」
 そして、奈々花が、力無く笑った。
「どんなことが書いてあるか、知りたいの」
「ふぅん……」
 私は曖昧に頷いた。
 聖書のことについて、このまま知らぬ存ぜぬではいけないだろう。毎日少しでも読むことにしようか。
 それに、聖書は世界最高の文学と言われているし。文芸部の秋野としては、チェックしておかなきゃ、恥よね。
「わかった。私も聖書、読んでみる」
「え……? てことは、みどりちゃん読んだことないの?」
「読破したことはないわ」
「なぁんだ。ちょっとほっとした」
「なんで?」
「みどりちゃん、いろんなこと知ってるんだもん。頼ちゃんもそうだけどさ。私、知識のことでは、二人に引け目感じてたの」
「私、そんなに物知りじゃないわよ。――偏っているんだから」
「でも、聖書に関しても詳しいと思ってた」
「まぁ、天地創造の話とか、福音書の話は、知ってるけどさ」
「じゃあ、皆で勉強しましょうよ」
「勉強するって、どこで?」
「教会で」
「時間あるの?」
「確か、さっき神学校の話が出てたわ」
「……私も行くのね」
「よろしく」
 奈々花は、ぱんっと手を合わせた。
「神学校って、いつだったっけ?」
「プリントがあるわ。――水曜の午後八時半だって」
「いいけど、学校の勉強も忘れるんじゃないわよ!」
「ラジャ!」
「頼子達はどうする?」
「頼ちゃん達にも来て欲しいな」
「んー、でも、あの人、無神論者っぽいわよねぇ……」
 まぁ、私もそうなんだけどさ。
 しばらくは暇だから、奈々花に付き合うとするか。
「今日子ちゃんは来てくれるわよね」
「今日子は優しいから……あら?」
「どうしたの? みどりちゃん」
「いつの間にか、私達のグループが神学校に参加するかしないか、って話題になってるじゃない?」
「そうよ。イエス様に勝つには、まずその教えを知らなくては。反論はそれから」
「頼子には、『アンタ達だけでやれ』って言われそうだわ」
 そして、これが私の本心でもある。
 これ言ったら怒られそうだけど、奈々花、イエス様のこと勉強したいんだったら、一人でやんなさい。
 ――と、どうしてこの台詞を言わなかったかというと――聖書の勉強に興味がなくもなかったのと、それから――将人のことで、私は心の隅で、すまなさを感じているからだった。尤も、これは、奈々花には口が裂けても言えないことだけど――だって、その気持ちには、優越感に似た感情も混じっていたからだ。
 哲郎のことだってそうだ。哲郎が、私を好きなんじゃないかと思う度に、またしても、奈々花を、哲郎を――人を軽んずる気持ちが出てくる。
 ああ、この感情を消しゴムで消せたら……!
(イエス様――か)
「どうしたの? みどりちゃん」
「え? いや、なんでもない」
 私は、思わずぶんぶん首を振った。
 私に祈りの言葉があったら――私が祈りを知ってたら――。
 私に力があったなら!
 栄光あれ! 生まれてから一度も罪を犯さなかった人に!
 栄光あれ! 物事の解決を導いてくれる方に!
 栄光あれ! 多くの魂を捉える存在に!
「奈々花……」
 私は震える声で言った。
「心配なの。いつか――私が私でなくなってしまいそうで。クリスチャンになったら、今までの自分、消え失せてしまいそうで」
「そんなこと気にしてたの?」
 奈々花に後光が射して見える。
「そんなちっぽけな自分は、消えてしまった方が良いのよ」
「いやッ!」
 私は、奈々花から目を逸らした。
「私、いい人間じゃないし、陰口だって叩くのよ。少しはわるいこともしたわ。清らかじゃない人間だから――救われる資格はないのよ」
 何者かが――私にこの台詞を言わせた。
 救われたい? 私はそんなことを思っていたの?
「……ちゃん、みどりちゃん」
 奈々花の声で、はっと我に返った。
「良かった……みどりちゃんで……」
 彼女は――泣いていた。
「――良かったって、何が?」
「みどりちゃんが親友で、良かった……」
 不意に、頭の中で鐘の音が鳴った。
「哲郎さん……今、わかりました。私も、イエス様を信じたい……信じます……」
 奈々花が、手を祈るときのように組み合わせながらそう言った。
 
おっとどっこい生きている 38
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