おっとどっこい生きている チャイムを押すと、可愛らしい声が、 「どなた様ですか?」 と、インターフォン越しに訊いてきた。 「秋野と佐藤です」 「少々お待ちください。奈々花ー、お友達よー」 声だけ聞くとどっちが母でどっちが娘だかわかりづらい。今のは母親だったらしい。奈々花の母は、異様に若いのだ。 奈々花が出てきた。 「おはようございます」 今日は哲郎がいるためか、すましている。 衣装も決まっている。ピンクのツーピースのドレスに、飾り襟のついた、はおる為だけのカーディガン。 色素の薄い髪を持つ奈々花にぴったりだ。 そして、彼女は白いハンドバッグも持っていた。 「初めまして。佐藤さん。あなたのことは、奈々花から聞いてます。娘をよろしくね」 奈々花母が出てきて、お辞儀をした。私達は頷いた。 「佐藤哲郎です。こちらこそ、お世話になります」 「おはよう、奈々花」 「おはよう、みどりちゃん」 「さ、行こう――さようなら、おばさん」 「みどりちゃん、教会の人達にも、よろしく伝えておいてね」 奈々花母はそういうと、嬉しそうに、私達を長い間見送っていた。 「今のお母さん? 感じの良い人だね」 哲郎が奈々花に話しかける。いい感じ。 「恥ずかしいわ……」 と言いながら、奈々花は満更でもないようだった。 教会に着くと、リョウがギターを弾いていた。 しかし、もうすぐ礼拝の始まる時間だとわかると、気だるそうに立ち上がりながら、その楽器を閉まった。 しばしの間、ピアノによる奏楽の時間があった。耳に快くて、うっとりと私も聞き入ってしまう。 それは、ほんの短い間。前は、ガチガチになっていて、奏楽もへったくれもなかったが、ピアノによる音の調べに耳を傾けるぐらいには、リラックスするようになったと思う。 この教会は、昔からの賛美歌ばかりでなく、新しい歌もどんどん取り入れていることがわかった。 その中には、「あ、この歌好きだな」と思えるのもあった。新しい発見だと思う。 それだけ、この教会に馴染んできたということか。 隣の奈々花は、伸びの良いソプラノで歌っている。 彼女の右隣には、哲郎。私のちょっとした配慮だ。 奈々花にはいつもお世話になっているから――このぐらいのとりもちはしてあげたい。 今日も、士師記だ。 これは、エフタの娘の話。 父をタンバリンで迎えに出たばかりに、殺されてしまう娘の話。 後ろで、ぐしゅっ、えっ、ぐしゅっと涙と鼻水をすすりあげている女の人がいた。それはえみりだ。 エフタが可哀想とでも思ったのだろうか。 私も気の毒だとは思うが、そこまで感情移入はしない。えみりは、聖書に選ばれているのかもしれない――と、私は思った。 岩野牧師の説教も、冴え渡っていた。 おかげで、話の間に寝るなんてことをせずに済んだ。 聖書を持っていない奈々花は、哲郎と一緒に読んでいる。教会にも、聖書が何冊かあるが(私もそれを使っている)、それを指摘するのは、野暮というものだろう。 ゆとりが出てくると、他の人のことも見えてくる。 説教を書きとめている人々もいる。私もちょっと、書きとめたくなってきた。 こういう話を書いていることからわかるように、私はメモ魔なのだ。メモ帳を取り出して、岩野牧師の説教から、思った事柄を書いていく。いつか、小説に使えるかもしれない。私は、何かを書いていないとだめな質である。まぁ、頼子に言わせると、「素人とか、そういうレベル以前」だそうだが。でも、書いているときは幸せだ。何故なら―― (私は幸せだからだ) 私は幸せだから書く。家族がいて、同居人がいて、友達に恵まれ、恋人がいて、ちゃんと人生の師もいる。 たとえ窮地に立たされても、この人達がいるから、私は負けない。 虚ろな気持ちになっても、堂々とそんな気持ちと戦っていける。 光が眩しい。 そう。信仰の光を、確かに感じたと思った。 普段リアリストのように思われていたし、私自身もかなりそう思っていたけれど――神様の存在を否定することはできない。 神様の存在を肯定することもできないなら、神様の存在を否定することもまた、無理なのだ。 思いがけなく、敬虔な気持ちになってしまった。教会は、人々の意識を変える。 (でも――) この間の騒動で、感じた虚しさは、単純には癒えない。 いつか、そう、いつかでいいから、ほんの少しでも、キリスト教がわかったとしたら―― 私は幸福になれるのだろうか。 とても時間がかかりそうに思えるけれども。 不意に、兄のことが思い浮かんだ。 兄貴は、怖いのではないだろうか。キリスト教が、それを信じて救われることが。 いや、救われないことが怖いのかも。 自家撞着してしまった私は、隣の奈々花に目を向ける。 必ずいつかは対峙しなければならない信仰の問題――奈々花は、今は哲郎しか見ていないが、教会に通っているうちに、悩みや救いや、愛の意味について、疑問を持つ日が、来るだろう。 (キリスト教で、解決できるのか?) 私の想像の中で、兄貴が、そう口にしたような気がした。 哲郎が完全に立ち直れたなら、俺も教会に行く――確か、そんなようなことも行ってたっけ。 ということは、哲郎は、まだ完全に立ち直っていないんだ。 昔の哲郎を知らない私には、よくわからないけど。 哲郎は明るい。明るい方を向いている。 兄貴は、今のままで幸せだとも言っていた。ということは、世の中には、キリスト教が必要な人と、必要でない人がいるのだろうか。 仏教はどうだろう? 神道は? イスラム教は? 何かを信じている人は強い、と本で読んだような気がしたが。 現在は、神のいない世界だ。いや、私達がそう信じているだけかもしれないが。 神のいない世界は虚しいものだろうか……。私は思う。 自分の力だけでこの世を生きていく人生も、それはそれで立派だと思う。けど。 出会ってしまったら。 神の光にほんの少しでも触れてしまったなら。 ――その人の人生は、全く違ったものになっていくだろう。 どんどん士師記と離れてしまった。ここで一旦筆を置く。 礼拝の後、作ってもらったご飯を食べ、哲郎と岩野牧師(この日が誕生月だったのだ)の誕生祝いが行われた。 本格的に、なんとケーキが現れた。 皆でハッピーバースデーを歌い、哲郎がロウソクを吹き消した。 「おめでとう、哲郎!」 「ハッピーバースデー、テツロー!」 「ありがとう。皆」 大柄な女性が、哲郎を抱き締めてこめかみにキスをした。 「奈々花、あれは変に疑っちゃだめよ」 私が、隣の席の奈々花に耳打ちした。 「うん。外国では、あれが当たり前の挨拶なのよね」 余裕たっぷりに、奈々花が言った。 前に、失恋したことで、屋上から飛び降りようとした女の子とは思えない。奈々花は着実に成長し――そして、自信満々になった。 奈々花の発言を裏付けするように、さっきの女性は、岩野牧師にもお祝いを言い、チュッチュッと音を立てた。 「哲郎さん。私とみどりちゃんからプレゼントがあるんだけど」 「いいっていいって。私のことは」 「でも、みどりちゃんがアイディアを出してくれたから」 そうなのだ。 私達は、学校からの帰りに、善林館というところで、聖書カバーを買った。そこは、キリスト教に関する書籍から、グッズ(?)まで売っているところである。 「この聖書もちょっと痛んできたなぁ、カバーが欲しいなぁ」と、いつか哲郎自身がぼやいていた。 哲郎は時々、私達の前で黙読していたので(本当は声に出して読んでみたかっただろうなぁ。私だったら、気に入った本があれば、そうしたいもの)、聖書のサイズもわかっている。あまり大きくはない。ほんの好奇心から、手に取って読んだこともあるが、字も小さかった。 意外と値が張ったが、奈々花と共同でお金を払った。 「ありがとう。ちょうど、カバーがあったらな、と思ってたとこだったんだ。これも、神様が用意してくださったプレゼントなんだね」 いやいや。それはアンタが呟いていたからだし、第一、プレゼントしたのは、奈々花と私よ! それに――哲郎にプレゼントをあげたいって言ったのは、奈々花よ。 感謝するなら、奈々花にしなさい。 「奈々花くんとみどりくん、二人に働きかけて、この贈り物を用意してくださったんだね。神様は」 そうそう。わかってるじゃない。何でも神様ごとにしてしまうのがあれだけど。 リョウは、近くで、 (女ってわかんねぇなぁ) という顔をしている。 えみり達はパチパチと無邪気に手を叩き、純也くんは、きょとんとした顔で、えみりの膝に座っていた。 「秋野くんもくれば、本当に嬉しいのにねぇ」 哲郎は、いささか残念そうに独り言つ。 あのねぇ、足りないもの言ってたら、きりがないのよ。 「わたしからも、これ」 マーシャが、哲郎に絵を渡した。どうやら、哲郎と岩野牧師を描いたらしい。 「ありがとう。これはね、ここに飾っておこうね」 そう言って、哲郎は、なんだかいろいろ貼ってあるボードを指差した。マーシャは喜んで頷いた。 「それから……このかっこいい僕と岩野牧師の絵に、ほんのちょっとした穴を開けてもいいかい?」 ちょっとした穴、というのは、画鋲の穴のことだろう。マーシャは、また頷いた。 「ネェ、アナタ、ナンテイウナマエ?」 奈々花に、フィリップという名の白人男性が話しかけた。 「ナナカ・ヤマギシです」 奈々花がちょっと緊張しながら喋るのがわかる。 「ボク、フィリップ。ヨカッタラトモダチニナリマショウ」 「え……ええ」 私は、この男を嫌いではない。物事を率直に言うが、本人に含みはないのだ。 「アナタ、ダレカスキナヒトイマス?」 うーん。含みがなさ過ぎると言うのも、問題だなぁ。 「え……ええ」 「ダレ?」 「フィリップ……あなた……」 私が止めようとしたときだった。 「佐藤……哲郎さんです」 哲郎は、ケーキを口に運ぶ手を止めた。 「哲郎、このレディが、あなたのこと好きだって」 片言は書くの疲れるから、普段の書き言葉に戻そう。 「そうか……僕も、奈々花くんは好きだよ。友達として」 そうよ。哲郎……アンタに選ぶ権利はないわよ。こんなに可愛くて、性格も良い子が、奇特にもアンタのこと好きだって言ってくれてるんだから。 「友達、として?」 「うん、僕には好きな人が他にいるから」 えーーーーーーーーっ?! そこで振っちゃう! 振っちゃうの?! アンタみたいな四浪の馬面、奈々花を逃したら一生、それでも惚れてくれるおっちょこちょいというか、殊勝な女の子は現れないわよ! 「誰? 誰?」 えみりが興味津々で訊いた。 「内緒」 「その人とだったら、結婚してもいいと思ってる?」 「それも内緒」 哲郎……ここまで言って勿体ぶって……馬面のくせに!(関係ないけど) 「ふぅん。やっぱり……」 そう言って、えみりと、雄也(あら、アンタいたのね)と、リョウの視線が、一斉に私に集まる。 何だってのよ、もうッ! 私には、将人がいるんだからね! 「みどりちゃん……」 奈々花が、何でもないように、にこっと笑う。その気遣いが、今は、辛い……。 「ま、今の僕にはイエス様が一番だから」 長い髪を振りやって、説教台の後ろの窓に掛っているステンドグラスに目を遣った。 「信仰を共に持てる人と結婚できますように、って、祈ってはいるんだけどねぇ……」 哲郎は、気のせいか、寂しそうな横顔を見せた。 子供達がはしゃぎ、大人達は、めいめい、友達と話しこんでいる。私達だけが、青い、透明な水底の中だ。 哲郎……アンタって、ひどい人ね。神様相手じゃ、どんな人間も勝ち目ないじゃない。 エフタの娘の話でも泣かなかった私の頬に、一筋涙が伝った。 おっとどっこい生きている 37 BACK/HOME |