おっとどっこい生きている
34
 文芸部の顧問の村沢先生が、
「テストも終わったし、近いうちに、『宮沢賢治記念館』に行きましょう」
と言った。
 確か、GWにも、そこへ行くことになっていたのだが――先生が風邪をひいてダウンしてしまったのだ。
 それが悔しい村沢先生である。今度こそ行こうと、やたら張り切っているのだ。
「宮沢賢治ねぇ……どう思う?」
 頼子が私に話をふった。
「『よだかの星』は、泣けたわ。あと、『セロ弾きのゴーシュ』と、『注文の多い料理店』が好み」
「アンタって、そういう話、好きだわよね」
 頼子が、ふんと鼻を鳴らした。
「私、宮沢賢治はあまり……『銀河鉄道の夜』もどこがいいんだかわかんない」
「じゃあ、誰が好きなの?」
「太宰治がいいわ」
「『人間失格』の? アンタって暗いわねぇ、頼子」
「ほっといてちょうだい。それに、彼の『トカトントン』は、上質なユーモア小説だと思うわ」
「ユーモア小説と言うなら、やっぱり『おバカさん』よ。遠藤周作の」
 先生に勧められ、『私はおバカさんになりたい』という感想文を書いたことがある。
 ああ、惜しい人を亡くした……。
「北杜夫も忘れちゃいけないわね。どくとるマンボウもの」
「遠藤周作と北杜夫って、仲良かったらしいわね」
「対談も面白かったわよ。でも、北杜夫だって、純文学してるわよ。遠藤周作と同じに」
「『楡家の人々』? あれは北杜夫だっけ?」
「そうよ」
「『沈黙』は、遠藤周作よね。キリシタンのことについて書いた小説」
「最後どうなるんだっけ?」
「忘れたわ」
 哲郎は知ってるかもしれない。いつか訊いてみよう。
 私達が、日本の文学について、ああだこうだ談義していると、奈々花が入ってきた。
「ねぇ、みどりちゃん。ちょっといい?」
「ん? 何?」
「話があるの」
「わかった。頼子、悪いけど……」
「任せて。プランはきちんと立てるから。たとえ、そんなに宮沢賢治に興味がなくてもね」
「頼むわ」
 頼子はウィンクして答えてくれた。

 奈々花と私は、屋上に来ていた。
(まさか、また飛び降りるつもりじゃないでしょうね……)
 という不安もなきにしもあらずだったが、今は、奈々花を信じる気持の方が強かった。
「で、話って?」
「佐藤哲郎さんのことよ」
 ああ、奈々花の話はそれか。
「私、あの人のこと、好きになっちゃったみたい。桐生先輩にふられたからって、哲郎さんに乗り換えるのは、虫が良すぎるかもしれないけど」
「そんなことないわ! むしろ、前の恋愛ひきずっているより、前向きでいいと思う」
「そうかしら……でも、尻軽女って、思わない?」
「思わないわよ。私にも責任あることだし」
「みどりちゃんには、哲郎さんに会わせてもらったことで、感謝はしてるわ。前のことは、もう忘れた」
 しかし、奈々花は、少し寂しげな表情をしている。
「ねぇ……哲郎さんて、どんなことが好きなのかしら」
「――教会に行くのが好きよ」
 私は、哲郎の熱心な伝道を思い出しながら、呆れた声を出した。
「それから?」
「そうねぇ……彼は、神様と結婚してるようなものよ」
「相手が神様なら、生身の人間は敵わないと思う?」
 奈々花は、挑戦的な眼差しで、こちらを見た。
「やめてってば。私は神様じゃない」
「私、負けないわ。たとえ相手がブッダでも、アラーでも」
 それ、キリスト教じゃないってば!
「哲郎さんはクリスチャンよ」
「私もクリスチャンになる!」
「あのねぇ、そういうことは、もっとちゃんと考えてから……」
「考えたわ。哲郎さんがやっていることに、間違いなどないに決まっているもん!」
 あーりゃりゃ。『恋は盲目』って言うけどねぇ。
「彼は、何度も受験に失敗してるわよ」
「だから何なの?! そういう目で、人を計ってるの? だとしたら、みどりちゃんとは友達やめる!」
「だから、なんでそうなるのよ!」
「成績で人の価値を計るなんて!」
「だから、誰もそんなことしてないでしょ?!」
「私、哲郎さんは、立派な人だと思うわ」
「それを認めるについては、私もやぶさかではないわよ」
「……ほんと?」
「ほんと」
「じゃ、私の恋に協力してくれる?」
「うんうん。応援するわよ」
 奈々花と哲郎なら、似合いの恋人同士になるだろうな、と考えながら、私は言った。
「じゃあ、これからどうすればいいかしら?」
「一緒に教会に行ってみればいいんじゃない?」
「わかったわ。みどりちゃんも入ってるの?」
「そうよ。もうメンバーに入ってるもの」
 私は、溜め息をついた。
「あ、前もって確かめておくけど、哲郎さんが、実はみどりちゃんを好き、なんてことはないわよね」
「ない、と思うわ」
 けれど、この点については、少々自信がない。だって、哲郎って、たまにこっちを真剣な目で見ていることがあるんだもの。
 将人のことがなくても……あり得ないとは思うけどね。
「そんなことがあったら、私、好きな人を続けてみどりちゃんに取られることになるわね」
「私は、将人だけで手一杯よ。体が二つあるわけじゃないんだから」
「うん。みどりちゃんが二人いなくてよかったと思うわ。それに――」
「それに?」
「私がみどりちゃんより、もっといい女になればいいだけのことだから」
 うっ、奈々花が眩しい。
 今日の日差しのせいかもしれないけど。
 私は、ごしごしと目をこすった。
「どうしたの? みどりちゃん」
「ううん。何でもないわ」

 私と奈々花が廊下を歩いていると、リョウがやって来た。
「ああ、秋野。探してたんだ」
「の、割りには、必死さは感じられないんだけど」
「これも性分よ。わだぬき部長が呼んでるぞ」
 わだぬき……上手いこと言うわね、リョウ。
「わかった。部室でしょ?」
 私は、奈々花と別れを告げ、リョウと一緒に新聞部の部室に向かった。

「よぉ、リョウ、秋野」
「何の用?」
「麻生が造反した」
 単刀直入に、綿貫は言った。
「造反て?」
 私は思わず訊き返していた。
「俺から離れたがってんだよ。あいつが。んで、おまえさんの嫌いなゴシップ記事いっぱいの新聞を今まで通り作りたいんだってさ。そこで、新聞部は半分に分かれてる。麻生派と、僭越ながらこの俺、綿貫派とにだ」
「え?」
「おまえのせいだぞ。秋野」
 そんなこと言われても。
「何故新聞部の内部事情を教えてくれるの?」
「それはなぁ……」
 綿貫は、ほんの少し、目を眇めた。
「俺が、おまえのこと、気に入ったからだ!」
「え……?」
 な、なんて言ったの? 今。
「つまり、俺はおまえが好きになったってことだ」
 えええええ!
「まぁ、兄貴に泣きついたところは残念ながら買うことはできないが――神の裁きがありますように、だっけ? そこで、おまえさんに痺れたのよ」
「はぁ……」
 なんでそんな台詞に感じたのかわからない。哲郎と同じキリスト教オタクなのかしら?
 いや、哲郎と一緒にしちゃ悪いわね。彼は、曲がりなりにも、クリスチャンなのだから。
 この話、聞いたら、哲郎はどんな反応を示すだろう。聞かせてやりたくなったわ。
 でも、兄貴に泣きついたと言うのは……。確かに、哲郎に相談に乗ってもらったときは、泣いたりもした記憶があるけれど。
「もちろん、俺も、将人とおまえさんのことも知ってる。もう二度と卑怯な手は使わん」
「あ、あの、さっきの話だけど」
 私は、誤解を解こうとしてどもった。
「私、兄に泣きついたわけじゃないわよ。ただ、兄は……」
「そうか……秋野駿氏の独断で乗り込んできたわけか」
 綿貫は立ち上がった。
「便所だ。秋野兄弟共々、気に入ったよ」
 そして、私とリョウを置いて、バタンと扉を閉めた。
 リョウは、今まで、思考停止していたらしく、私達の会話に、一言も口を挟まなかった。
 
おっとどっこい生きている 35
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