おっとどっこい生きている リョウや綿貫を信じたとは言ったが、私は一応、あの壁新聞に目を通した。 新聞の前には、既に誰もいない。 記事には、哲郎が敬虔なクリスチャンであること、雄也が家族思いであること、秋野家が普通の下宿屋であること、そして、リョウが真面目に新聞部で働くことを約束した、ということなどが書かれてあった。 『我々は、秋野みどりに対するある噂のもとになってしまったことを、本人並びに周りの方々に、陳謝いたします』 この一文で、その記事は終わっていた。 これで、私の汚名は一応晴れたわけだ。 裏サイトのことまでは知らない。兄貴に訊けばわかるだろうが、そこまでして知る気にはなれない。 「がんばってね……リョウ」 私はそっと呟いた。 綿貫にも改心してほしい。というか、初心に戻ってもらいたかった。 新聞委員会ではフォローできない記事を、新聞部で書いて欲しい。もちろん、スキャンダルや、人を傷つける中傷記事でなく。 しかし、私達は、もうそれどころではなかった。中間テストが近づいているのだ。 綿貫達も、受験の用意で忙しいであろう。それを蹴ってまで、記事に情熱を注ぐのであれば、本当に無頼派なんだと見直すところだが。 ただ、この件に限ったことではなく、将人と私の交際の取材をあっさり諦めたところなどを見ると、彼らは、案外権威には弱いのであろうか。先生に注意されたのかは知らないが。 まぁ、いい。ちょっと脱線したが、ここで取材騒ぎに、一旦幕を引く。 「ねぇねぇ。みどりちゃん。これ、何て読むの?」 美和が訊いてきた。 「ああ。これはね……」 ふぎゃあ、と、赤ちゃんの泣く声が聞こえる。 「おう、よしよし。泣かないでね、純也くん」 私は……今、とても後悔していた。 私達――頼子、奈々花、今日子、美和、私、リョウは、テスト勉強にいそしんでいる――はずだった。 だが…… 「えーと、この式の解は……と……どう解けばいいんだっけ」 「いやぁ、難しそうだなぁ。俺には解けそうにねぇなぁ」 「さすが白岡高校。まがりなりにも進学校なだけのことはあるわね」 「まがりなりにも、とはなんだ。俺の母校だぞ」 「あたし達は、もっと簡単な高校だったからねぇ」 うるさい……。 実は、この部屋には、兄貴、えみり、哲郎、雄也――純也までいる。 「はいはい。みなさん。ここらでちょっと、何かお腹に入れませんこと?」 つねさんが、部屋の扉を丁寧に開いて入ってきた。 「わっ、つねさん、ありがとうございます!」 今日子が、少しわざとらしく感謝を述べた。 「いえいえ。私が手伝えるのは、このぐらいしかありませんからね」 こんなうるさいところで、勉強なんかできるか! この家にみんなを呼んだことを、私は悔いた。 えっ? 賑やかで、少しは嬉しいんじゃないかって? そんなことないわよ! 私は純也をあやしていた。 「みどり……勉強と赤ん坊の相手を同時にするのは大変だろ。その子、俺に貸せよ」 「ええっ?! 兄貴が?!」 私は驚いて、思わず大声を出してしまった。 「まぁ……駿ちゃんも、ついに赤ちゃんアレルギー克服? 嬉しいわ。お赤飯炊かなくっちゃね」 「生理が始まったわけでもあるまいし」 兄貴は、そう言いながらも、えみりの台詞に、満更でもない様子だ。 「つねさんが何か作ってくださるそうよ」 今日子がおっとりと言った。 「おえー。駿が生理かよ」 雄也が、冗談っぽく茶化した。 「静かにしろよ。おまえら」 兄貴が声を張り上げる。純也が、それを聞いて、また泣いた。 奈々花は、古典が苦手なので、そういうのが得意な哲郎に、勉強を教わっている。まるで、そこだけ別世界のようだ。 「哲郎さんて、教え方上手ですね。頭の中にすらすら入ってくる」 「いやいや。君の理解力がいいからだよ」 「なんか、いい雰囲気よね。あの子達」 えみりがとんと私の肩をどやしつけた。 「どう? 気にならない?」 「別に」 私は、今日子と一緒に、数学の問題にとりかかった。 「それにしても、今の高校生達って、何やらされてんのかしら。私のときは、英語版『幸福の王子』を和訳しなさいって問題出したヤツがいたけど」 「へぇー。全部?」 「まさか。一部分よ」 「『幸福の王子』って、どんな話だっけ」 えみりは、くたっと机に横向きに頭を置いているリョウと話している。リョウったら、勉強もそっちのけで。赤点取っても知らないから。 「『幸福の王子』の作者のオスカー・ワイルドって、同性愛者だったのよね」 頼子が、何気なく、といった感じでぼそっと呟いた。しかし、みんな、それを聞いて、しーんとなった。純也の泣き声だけが響く。 「ほんと?」 えみりが、おそるおそると言った感じで、頼子に近付いて尋ねてみる。 「ほんと。有名な話よ。映画だって観たことあるし」 「いつから?」 「三十過ぎあたりから。アルフレッド・ダグラス卿と」 「えと……その話、詳しく教えてくれない?」 頼子の病気がまた始まった……と私は思った。 森茉莉の一連の小説、或いはルキノ・ヴィスコンティの映画、萩尾望都や竹宮惠子の漫画など――これらは私が読んでも面白かったが――をこよなく愛している。私は、そんなこの友達に、ちょっとついていけないときがある。 尤も、こういった話に食いつくくらいだから、えみりも同じ病気なのかもしれない。 「なんだよ。ホモの話のどこが面白いんだよ」 「アナタは黙ってて」 「へーい」 えみりの台詞に、雄也は肩を竦めた。 確かに、今はBLとかいうものが、市民権を得たような感じだけど――頼子のは、それより前の、少年愛とか言われている時代の作品の方が面白かったと言っている。どこが違うんだか、私にはわからない。 「はいはい。つね特製、かわりご飯のお握りですよ……って、何かしら? さっきまでとは、様子が違うようですけれど」 「え? 何でもねぇよ」 同性愛の話聞いてました、なんて言ったら、つねさんは卒倒するだろう。 雄也も、母親を気遣っているのね。意外と優しいんだ。 リョウは、机に頭を乗せて、ノートや教科書を枕に、本格的に眠り始めている。 奈々花は、ちゃんと勉強してるよね……とそっちを見たら―― なんと、奈々花は、哲郎にうっとり見惚れている。 恋でもしたのかしら――まさかね。 つねさんが座を外すと、頼子は再び同性愛談義をえみりを相手にしていた。 美和も、仲間に入りたそうに、そわそわしている。 あのね、頼子。アンタは、頭もいいし、家には先生もいるからいいけど、美和は赤点すれすれなのよ。これ以上気を散らしてどうすんのよ。 奈々花は奈々花で、哲郎相手にぼーっとしているし。 真面目に勉強しようとしているのは、今日子だけだ。しかし、それは、限りないマイペースさ加減のおかげなのだろう。周りの様子なんて、全然気にしていない。 雄也は、兄貴の膝に乗っかっている純也に、ちょっかいを出している。 いいんだけどね、いいんだけどね、私にも一言いわせて――。 やる気あるのか! アンタら! 叫び出したかったけど、それは流石に抑えた。私も少しは大人になったな、うん。 今度からは、やっぱりファミレスでやろう。気は進まないけど、ここでやるよりはマシだろう――と思う。 何か頼まなくちゃいけないかもしれないが、ショバ代――私も、このぐらいの業界用語は知っているのだ――だと思えば、我慢もできる。 とにかく、今日だけは仕方ないからここでやるとしても、明日からは、別のところだ。そう提案すると、 「なんでー?!」 と、ブーイング。リョウもびっくりしたらしく、急に起き上がった。 いいもんね。どんなに憎まれても、慣れてるもんね。 「せっかく楽しんでたのに」 「いつもここで勉強やってたじゃない!」 「勉強は楽しくちゃダメなの! みんな、気もそぞろって感じよ! 来年には、大学受験、という、怖ーい魔物が待っているんだから!」 「いやん、今日子ちゃん、助けて」 美和が隣の今日子に抱きつく。 「はいはい。一生懸命に勉強すれば、美和だって大学に受かるわよ」 今日子は、なにげにきつい。 「だから、みどりの言う通りにしましょ。私達は今、みどりの家を借りてるだけなんだし」 「私だって、本当はこんなこと言いたくないわよ。でもね、みんな勉強どころじゃないみたいじゃない?」 私が言うと、 「どこがー?!」 「私達、ちゃんとやってるわよー」 「みんな真剣よねー」 の大合唱。 ああ、自覚がないのはおそろしい……。 おっとどっこい生きている 33 BACK/HOME |