おっとどっこい生きている
31
「ふぁ〜あ、いい匂いだな。おはよう、秋野」
 リョウが、台所に入ってきた。
「おはよう。食べてくでしょ」
「いや、オレはいいよ」
「ダメ!」
 私は、おたまを持って、ずいとリョウに迫った。
「ご飯は、ちゃんと三食きちんきちんと食べなきゃ! そして、腹八分目、医者いらず!」
 リョウは、私の剣幕に、目を白黒させていたが、
「わかったよ」
と折れた。
 私、まるで、忍たまの食堂のおばちゃんね。
 リョウは、またひとつ大きなあくびをして、頭を掻きながら、食堂へと移動した。

 私達が食卓を囲んでいるとき、兄貴はうかない顔をしていた。
 兄貴があんなに落ち込むなんて。
 私は、一晩寝て、家事仕事したら、すっかり良くなったというのに。
 なんか、兄貴に心配かけてしまったかな……。
 そう思うと、兄貴にわるい気がしてきた。
 哲郎は、何事もなかったように、いつもと同じ表情をしている。兄貴もそうしてくれた方が、よほどありがたいのにな……。
「みどりくん。君のこと、祈ってるからね」
 私の去り際に、哲郎が言ってくれた。
 やはり、神を信じている人は違うのかな……。

「リョウ、一緒に行かない?」
「――アンタ、自分の立場、わかってんの?」
「立場って?」
「……だめだこりゃ」
 リョウは頭を抱えた。どうしてかしら。
「あ、もしかして、あの噂のこと? やましいところなんかないんだから、堂々としてりゃいいじゃない」
「オマエはそれでいいかもしれないけどさー……桐生サンがどう思うだろうなぁ。オレは別段構わないけどさ」
「将人? どうして将人がそこで出てくるの?」
「……オレ、桐生は、アンタのこと持て余すと思うぜ」
「だから、どうして」
「アイタタ……自覚ねぇんだもんなぁ」
 将人がどうしたというのよ。さっぱりわけがわからない……。そりゃ、昨日は、私に対して冷たかったけど。
 誤解を解けば、きっと元通りになる……はず。
 あれ? そういえば、私、普段から、桐生将人のことを『将人』と呼ぶようになっていたわ。その方が、私にとっては自然だったから……。

『秋野みどりさん。至急、校長室まで来てください』
 私の朝の学校生活は、美和のこんなアナウンスから始まった。
 私が校長室に行くと、風紀委員会の担当の佐々原先生と、委員長の西川先輩、教頭の松下先生も、一緒に部屋にいた。
 押し出しのいい、校長の池上先生が口を開いた。
「生徒会の方から連絡があった。君に風紀委員会の副委員長を辞めてもらいたいと。言うも憚られる、あの、例の噂が流れて、君に取り締まられるなんて真っ平だ、という意見が多いんだ」
「そんな……私を副委員長に任命したのは、先生方ですよ」
「悪かったと思っているよ。しかし、僕は、君のことを信じているからね」
と、佐々原先生。
「あれは、デマなんだろう?」
「そうなんです! 全くの嘘っぱちです!」
 私はつい、大声を上げてしまった。
「生徒を信じるのは、我々教員の役目だ」
 松下先生が言った。
「私は、秋野みどりという個人を、大切にしていきたい。娘の友達であるという前に。私は昔から秋野を知っているが、あんなことをする子じゃない、ということはわかっている。頼子も、秋野を助けたい、と言っていた」
 頼子……嬉しい! あんたは友達甲斐のある人だわ。
 ああ、文芸部の部員達、松下先生、哲郎……みんなみんなありがとう。
 私は、ぽろっと涙を流した。
「私も、松下先生と同意見だ」
 校長先生は言った。
「だから、泣くのはやめたまえ」
「違うんです。これは……悲しいのではありません。私には、たくさんの味方がついていると思うと……」
「秋野くん。僕からもお願いするよ」
 西川先輩が口を開いた。
「風紀委員会には、君の協力が必要だ」
「あ……ありがとうございます」
「今度のことは、何かの間違いだよ。いずれ、みんな忘れるから」
 松下先生が、慰めてくれた。
 つるしあげを食らうのかと思っていたけど、先生方や風紀委員長は、私を励ますために呼んだのだ。
「はい! はい! これからも一生懸命がんばります!」
「以上だ。解散!」
 校長先生のその言葉をしおに、みんな校長室から出て行った。

「ねぇ、アンタ、校長室で怒られてたの?」
 げっ! 由香里……!
「違うわ。私を激励してくれたのよ」
「あーら、隠さなくてもいいのよ。今日は、リョウとご出勤だったんだって? ずいぶんモテること。私も、騒がれてもいいから、アンタくらいモテてみたいわ」
 嫌味だわ。こいつ。
「アンタのこと、相手にしてくれる人がいればね。尤も、その性格直さなきゃ無理だと思うけど」
 私は応戦してやった。
「ふふん。安い挑発ね」
 由香里は、自信満々に、豊かな胸をそらす。
「私も、結構人気あるのよ。アンタと違って、胸もあるし」
「胸は大きくても、脳みそは少ないわね」
「なんですって?!」
「ほら、安い挑発に乗ったじゃない」
「――なんとでもいうがいいわ。私は、アンタみたいなあばずれとは違うわよ」
「あばずれなんて単語、よく知ってたわね」
「バカにしてるの?!」
「あー、やめやめ。こんな喧嘩してたら、こっちまで同じレベルに下がってしまうわ」
 その後も、由香里はなんやかや言ってたが、私は無視して、相手にしないことにした。

 私が、そう行きたくもないが、今のうちに行ってこようかと、お手洗いを目指していたときだった。
「みどり」
「あ……兄貴?!」
 私はつい、驚きの声を上げてしまった。
「大学は?」
「用が終わったら、戻る」
「シュンさん、オレが止めても聞かなくってさぁ」
 体格の良い兄貴の後ろから、カトンボみたいなリョウが顔を出す。
「兄貴、どこへ行く気?」
「新聞部」
 兄貴はそう言い置くと、すたすたと歩いて行った。
「オレも行く。どうせ退部しようと思ってたとこなんだ」
 リョウもついて行った。もちろん、私も。

「よぉ。また来たな。秋野。――そっちの男はなんだ。高校生には見えんがな」
 綿貫が言うと、兄貴が答えた。
「秋野駿。この学校のOBだ。これでも、元新聞部の部長だ。『新聞部の秋野』と言えば、少しは顔だったんだぞ」
「ああ、秋野――駿か。秋野みどりの名前を聞いたとき、どっかで耳にした名字だな、もしかして、とは思ったが――そうか、アンタだな。園芸部のひまわりが咲いただの、学校の近くの猫が子供を産んだだの、下らん記事を書いていたのは」
「くだらん記事でも、おまえらの書く記事よりはよっぽどマシだ!」
 獅子吼とはこのことを言うのであろう。鬼の綿貫ですら、一瞬気圧されたようだった。
 兄貴にこんな一面があったなんて。
「行くぞ、みどり、リョウ」
「あ、待って」
「オレ、退部しに来たんだけど……ま、後でもいっか」
「綿貫」
 兄貴が振り返りざま、こう言った。
「関口先生に関する記事は、悪くなかったぞ」
 そして、私達は、新聞部の部室を後にした。

「関口先生に関する記事って、なんすか?」
 リョウが、私の代わりに訊いた。
「口で言うより、読んだ方が早い。情報処理室はこっちだったな」
 情報処理室に着くなり、兄貴は、マウスとキーボードを巧みに操って、データを引き出した。
「ほら、これだ」
「どれどれ」
 私もリョウも、パソコンの前に殺到した。
『さようなら関口先生』――へぇ、わりに平凡な見出しね。
『関口源五郎、と言えば、知らない人は少ないであろう。この白岡高校の名物先生だ』
 関口源五郎――私も名前だけは聞いたことがある。
『今年で引退して、田舎に引っ越す関口先生のために、担当されていた三年三組の生徒達が、駅に集まって、『仰げば尊し』を歌った。関口先生は、一人一人の生徒の気持ちを掴み、能力を見出すことにかけては、天下一品であった。そんな先生を、みんな慕っていた。厳しいところもあったが、生徒に手を上げるようなことは絶対にしなかった。関口先生の優しさは、厳しさに裏打ちされていた』
 そう上手い文章でもないけれど、関口先生に対するあたたかい感情が伝わってくる。
『先生には、誕生日に生徒からゲンゴロウを贈ってもらったという、微笑ましいエピソードもある』
 ゲンゴロウをもらって嬉しい人がいるのかどうかはともかく、確かに微笑ましい。
『赤点を取って、留年間際の生徒の勉強を、最後まで見ていたともいう。その人も無事卒業し、駅で手を振るとき、一番大きな身振りで、別れを惜しんでいた』
 へぇ、いい先生だったんだな。
『我々新聞部も、関口先生に幸あれ、と願わずにはいられない』
と、こんな文章で結ばれていた。
「もしかして、この文章を書いたのって……」
「そう。今の新聞部部長、綿貫正だ。一年の頃のな」
 信じられない! スキャンダルばかり追っかけてるような部に堕落した原因を作ったあの部長が、こんな愛情溢れた記事を書くなんて。
「……オレ、もう少し、新聞部にいようかな」
 リョウが、ぽつりと言った。
「そして、昔の新聞部に戻すんだ」
「おう。是非ともがんばってくれ!」
 兄貴がリョウの手を握った。
「正直、新聞部の仕事なんて、興味なかったんだけどね」
「じゃあ、なんで君は新聞部に入ったの?」
 兄貴がリョウに訊くと、
「一番最初に声をかけてきたから」
 ――リョウらしい答えが返ってきた。

 美術の課題をなんとか仕上げた後、図書室に向かおうと廊下を渡る途中、将人に出会った。他には誰もいない。
 困ったな。どういう顔したらいいんだろ。
 昨日のことは、もう引きずっていないつもりだが、気にしていないと言えば、嘘になる。このまま避けるのもあれだし。
「秋野!」
 私のためらう気持ちを知るはずもない将人が近付いてきた。
「将人……」
「昨日は……」
 将人の台詞は一旦そこで途切れる。数秒後、彼は言った。
「――ごめんな。俺、秋野のこと、信じてやれなくて」
「いいわよ、もう」
 私は、多少なおざりに返事をした。
「俺、リョウに嫉妬してたんだ」
「リョウに?」
 私は吹き出した。
「何がおかしいんだ!」
「だって、リョウに、あのリョウに……」
「だってそうだろ? 秋野と同じ家に住み、秋野の手料理を毎日食べて……それから……」
「心配しなくても、リョウとの間には何もないわよ」
「そうじゃなくてさ……」
 将人は、言葉を紡ぐのに、迷いを見せていた。
「俺、こんな風に人を好きになったのって、初めてなんだ。初恋は、はしかみたいなものだっていうけど……」
 あら。初恋ははしかって、奈々花と同じこと言うのね。
「そうね」
 私は踵を返して、二、三歩、歩いてから背中を見せたまま言った。
「――私もはしかにかかったみたい」
「みどり!」
 将人が私を抱きしめる。
「みどり!」
 それしか言えなくなったように、将人は、私の名前を連呼する。私の心臓の鼓動は早くなった。将人も私も、それからは、口にする言葉がなくなってしまったように、無言でしばらくそうしていた。ふわふわと、心は落ち着きなく彷徨う。
 甲高い笑い声が聞こえる。正気に返ったらしい将人は、私から体を離す。
 もう少し、このままでいたかったのに……名残惜しい。
「いきなり抱きついたりして迷惑じゃなかったか? つい嬉しくなっちまって」
「迷惑なんかじゃないわ。私も嬉しかった」
 将人の顔が赤くなった……ような気がした。
「俺、部活行くよ。また会おうな」
「わかった。じゃあね」

 トンガの両親からの電話が来た。ずいぶん久しぶりのような気がする。
「みどりちゃん、風邪ひいたんだって? 大丈夫?」
 兄貴だな、と私は思った。昨日は、電話に出られる状態じゃない、と思って嘘、ついてくれたんだ。
「もう治った。ありがとう。すっかり元気よ」
 電話での会話は久々に弾んだ。お父さんもお母さんも、私のことを気にかけてくれていたらしい。
 家族って、いいもんだな……。

 翌日、掲示板には、また新しい新聞が載っていたようだった。
「みどりちゃん、見ないの?」
 美和の質問に私は答えた。
「私、リョウと四月一日(わたぬき)を信じているから」

 予想通り、それから、嫌がらせや陰口は、ぱたっと止んだ。
 
おっとどっこい生きている 32
BACK/HOME