おっとどっこい生きている なんだか無性に哲郎に会いたくなった。 (どうしてあなたのノイローゼは治ったのですか?) (どうしてあなたは越えられたのですか?) (どうして――神を信じるようになったのですか?) 「きゃっ!」 何かにつまずいたのか、私は自転車ごと転倒した。幸い、大した怪我はしなかったが。 (哲郎――哲郎哲郎哲郎哲郎哲郎) (哲郎――) 底冷えがする。寒い。 「ただいま」 「お帰りー」 「……よぉ」 帰ってきたら、渡辺夫妻と哲郎が玄関に集まってきた。 「お帰り。みどりくん」 哲郎がそう言ったとき――私の緊張の糸がぷつんと切れた。 「哲郎――……」 私は哲郎に抱きついておんおん泣いた。 「渡部くん、えみりくん。今日はみどりくんはご飯を作る余裕がないみたいだから、えみりくんが代わりに作ってくれ」 「えー。みどりの飯の方が旨いぜ」 「そう。じゃあ、雄也の分は作ってあげない」 「そんなぁ。えみり、愛してるぜ。だからさぁ……」 「ふん」 痴話喧嘩している二人を余所に、哲郎は私に話しかけた。 「僕の部屋に来るかい?」 私は頷いた。 涙まじりに、ひっくひっくとしゃくりあげながら、私は、今日の出来事のあらましを哲郎に伝えた。哲郎は、黙って聞いてくれた。時々頷きながら。 「……ごめんね、情けないわね。私。これでも学校じゃ『硬派のみどり』なんて言われてんだけど」 「いやいや。泣きたいときは泣くのが一番だよ。硬派だろうが何だろうが、関係ないさ」 哲郎は、どうしてこんなに優しいのだろう。私も、哲郎の前では素直に泣ける。 「私、まだ子供ねこんなとき、どうしたらいいかわからないの。早く大人になりたい。強く、賢い大人に」 「無理して焦ることもないと思うな。――君は聖書は読んでるかい?」 「……まぁ、ぼちぼち」 「神は試練からの脱出の道も備えてくださるんだよ」 「――哲郎は、いや、哲郎さんは……」 「哲郎でいいよ。何?」 「本当に神を信じているの?」 哲郎は深呼吸した。 「さぁ、これは難しい問題だ。神を信じているといえば信じているが、僕は自分の信仰にいまいち自信がない。踏み絵が現代にあれば、僕はころりと転向するかもね」 「踏み絵を踏んで、隠れキリシタンになって、信仰を密かに広めればいいじゃない」 「と、僕も考えた。でも、それは姑息なやり方だ」 「それも信仰のうちよ。人はみな、十字架を背負って生きているんでしょ? 隠れキリシタンは、踏み絵を踏むことで、自分自身に十字架を背負わせているのよ」 「そういう考え方もあるか……何も、みんな殉教の死を遂げることもないか。でも、君は、新聞部に押しかけて行ったんだろう? その強さがあれば、もしかして……」 そこで、哲郎は、一旦言葉を切った。 「何?」 「いや、君なら、迫害されても負けないだろうと思って。聖書では、昔の預言者達も、この世の者に迫害されたんだよ――義のために迫害される者は幸いです」 「それも、聖書の言葉ね」 「忘れないでくれ。君には神様という偉大な味方がいるということを。見捨てない者達が周りにもいるということを。そして――不肖、この佐藤哲郎も、君のためにいるということを」 それを信じることができたら、どんなにいいか。また、心の中に虚しさがつきまとってきた。 今まで気付かなかった、或いは見ないふりをしていた虚しさが、今度の事件をきっかけに、とうとう私を捉えたようだ。 そのとき、トントン、というより、ドンドン、という少々乱暴なノックが聴こえた。 「なんだろ――ああ、秋野くん」 ドアを叩いたのは、兄貴だった。 「哲郎、ちょっとみどり借りてくぞ」 「渡部くん達が、みどりくんがここだって、教えたの?」 「ああ」 私と兄貴が出て行くとき、扉の隙間から、哲郎の言葉が響いた。 「――太陽は輝き続ける」 私は、兄貴の部屋に連れられた。 兄貴は、厳しい顔をしていた。なんか、いつもと違う……。 「何があった。みどり」 「え?」 「白岡高校の裏サイトを覗いたら、『秋野みどりってサイテー』とか、『俺も秋野とヤリてぇー』だのと言った書き込みがしてあったぞ」 「兄貴、裏サイトなんて見てるの?」 私は、そういうのを書くのも見るのも馬鹿だと思っているから、正直呆れた。 兄貴は、こほんとわざとらしく咳ばらいすると、俺も白岡高校のOBだからな、とか何とか言った。 「それより、騒ぎの元となった新聞の記事、読んだぜ。別ルートから入手したんだ。仄めかしの多い文章だな」 「奴らの狙いなのよ。肝心なところは省いて、読者の興味と想像を駆り立てる。やり方が汚いわ」 私は爪を噛んだ。 「そうか……」 兄貴は、何かを考えている風だった。 「ちょっと、俺に任せてくれ。おまえはゆっくり寝な」 「兄貴、何する気?」 「だから、ちょっとな。おまえ、明日も学校行くだろ」 「そうね。ここで行かなかったら、奴らに負けたことになるもの」 私も秋野家の人間だ。敵に背中を見せる気は、さらさらない。 私は、部屋に戻っていった。 「秋野、オレだけど」 私の部屋を訪ねてきたのは、リョウだった。 「入っていい?」 「――どうぞ」 私は、リョウを部屋に通した。もちろん、ドアは開けたままで。 「新聞、破ったの、オレだよ」 「ありがとう。でも、もう遅いわ」 「――オレ、新聞部やめるよ」 そういえば、リョウは新聞部だったっけ――と、私は考えた。そこで、はたと気がついた。 冗談じゃない! 奴ら、部員を売ったんだ! 「一番先に新聞部に話しかけられたんだよね。オレ、ほんとは軽音部に行きたかったんだけど、ま、どこでもいっか、という気持ちもあってね。明日、退部届出しておくよ」 「新聞には、リョウのことも、書いて、あった、わよね」 込み上げる涙が粒となって、頬を伝い落ちた。 「ごめんね……巻き込んじゃって」 「秋野のせいじゃないよ」 リョウは髪をくしゃっと掻き上げた。 「それに、秋野がもう少しグラマーだったら、考えないこともなかったな。男って、ほんとはオマエが考えているより、怖いんだぞぉ」 「だから、こうやって、ドア開けてるじゃない」 「夢中になってしまえば、そんなこと吹っ飛ぶさ。でも、この家には、駿サンがいるし、哲郎サンがいるし、えみりさんがいるしぃ」 「アンタ、えみりが好みのタイプって言ってたわよね」 「言ってたっけか。まぁ、それは確かだな。優しい人だもん。もう人のものでもさ」 「女性をもの扱いしないでくれる?」 「ああ、ゴメンゴメン。じゃ、オレ、もう行くわ。あの部をやめることだけ伝えたかったから」 リョウは、ズボンに手をつっこみながら、ふらりふらりと出て行った。 (将人――) 将人の今日の態度には、少々凹んだ。慰めが欲しいわけじゃないけど。 田村先生の台詞が、思い出される。 (素直になれないんだな) それが事実なら――私、また将人を好きな気持ちに自信を持っていける。ついでに、田村先生のことも見直すことができるのだが。 おっとどっこい生きている 31 BACK/HOME |