おっとどっこい生きている 哲郎は、食事の前には、いつもこのような祈りをする。 受験に失敗し、家族にも多分見捨てられたこの男は―― 本当に神を信じているのだろうか。 或いは、岩野牧師が、信仰を植え付けたのかもしれない。 というか、あなた方の糧を用意しているのは、この私なんだけどね。 まぁ、でも、考えてみれば、この食事の材料だって、陽の光があったり、水があったりで、必要なものがそろっていることには奇跡を感じてしまう。植物が成長することにも、動物が生きているということにも。本当に創造主というものは、いるのかもしれないわね。 あ、哲郎の考えに染まりかけてる? とりあえず、今日もご飯を食べられることについては、感謝、かな? 災いは、月曜日を狙ってやってくる。 ――私には、13日の金曜日より、13日の月曜日の方が、よっぽど怖い。 「あ、来た来た」 「よくもまぁ、あんなかわいい顔して」 「本当に大胆なんだな」 「あれでも硬派かよッ!」 「くそッ! 俺達、密かに憧れていたのにな」 「?」 なんだか非難されているみたいだけど、よくわからない。 ――謎が解けたのは、壁新聞を見たときだった。たくさんの生徒が押し掛けていたが、私が来ると、モーセが紅海を分けたように、さっと真ん中から分かれた。 『秋野家の男だらけパーティー』 男だらけパーティー? 何のことかしら。記事には、何枚かの写真が載ってある。 『秋野家が、下宿屋をやっているという情報は、もうご存じだろうか。我々新聞部は、秋野家の真実に迫ってみることにした。両親は海外赴任しており、この家には秋野みどりさん(16)、秋野駿さん、渡辺雄也さん、渡辺えみりさん、佐藤哲郎さんの、21歳の男女四人に、雄也さんとえみりさんの息子純也ちゃんが暮らしていた。もう一人、鷺坂稜さん(16)については、知っている方々もいると思う。この少年は、つい先日から、家出同然に秋野家に転がり込んできた。秋野駿さんは放任主義、渡辺夫妻はいわゆる出来ちゃった結婚で、佐藤哲郎さんは四回目の浪人生活に入っている。そこで育ったみどりさんが、果たしてまともな生活を送れているのだろうか。我々は、取材を敢行した』 余計なお世話よ。まともな生活とやらをどうにか営むことができてるのは、この私のおかげなんだからね! 『昨日の正午あたり、秋野家には、いろいろな店から、寿司やラーメンなどが大量に運ばれてきた』 それはえみりの友達の分だってば! 『しかし、みどりさん達は、朝から家を空けていた。代わりに、女性三人が遊びに来ていた模様である。みどりさん達が帰ってくる少し前に出て行ったが。出前は、この女性達のものだったのであろう。だが、たかだか三、四人で食べるには多過ぎるのではないかと思うくらいの量だった。みどりさん達の分も入っていたのではあるまいか』 憶測するのは勝手だけどね。私は寿司など食べ損ねたし、雄也はへそくりと生き別れをしなくてはならなかったわ。 『夕方戻ってきたみどりさんは、佐藤哲郎さんや、鷺坂さん、渡辺雄也さんや純也ちゃんと共に、いったいどこへ行っていたのか。みどりさんは彼らとものすごく仲が良いのではないか、と、取材班の見解は一致した。その夜、みどりさんの兄、秋野駿さんが帰宅するまで、みどりさん達が何をしていたか――我々は敢えてそこには触れまい』 ずるい! 汚い! 卑怯だ! この手口はフェアじゃない! これは、肝心なところには隠し、興味を煽り、何かあったのを匂わす内容となっている。この場合は、何もないのだが。 張り込みもされてたみたいだ。 それに、男だらけパーティーって、品のないタイトルね。 新聞部に抗議に行ってやろうか! 頼子に相談すべきか――ちらっとその考えが浮かんだが、これ以上彼女を巻き込む訳にはいかない。 この間のこと根に持ってんのね! 奴ら! みんなまとめてやっつけてやる! 「部長! 部長はどこなの?!」 私は、勢いよくドアを開けた。 「ああ……やっぱり来ましたよ。秋野。ね、俺の言った通りでしょ。四月バカ」 「誰が四月バカじゃい!」 綿貫正――本当は、四月一日と書いて、『わたぬき』と読むんだけど、いつからか『綿貫』に変えてしまったらしい。 四月一日正って、面白いと思わない? 四月一日が正しいなんてさ。 おっと。テキの名前に感心してる場合じゃない。 「どういうこと?! 壁新聞のあの記事。いくらなんでも、プライバシーの侵害じゃない」 「秋野家の一日にスポットを当てただけだよ俺達ゃあよぉ」 綿貫が凄んでみせる。うっ、確かに鬼の綿貫。一筋縄じゃいかなさそうね。 「頼んでないわよ」 私は素っ気なく振る舞う。 「――リョウのことを記事に載せたのは誰なの?」 「俺。正確には、そのことを許しただけなんだけどね」 こいつは副部長のえーと……。 「俺の名前、思い出せない? 麻生てんだけど」 麻生? 内閣総理大臣の名前じゃない(註:当時は麻生氏は総理ではなかった)。名前負けしてるわね。 だが、こいつの蛇のような目は、ただ者でなさを現わしている。 「誰から聞いたの?」 「直接。本人から」 麻生が、何てこともなさそうに言う。 どうやら、私は、鬼千匹の世界に入ってしまったらしい。 「泣き寝入りするか? 秋野の姐ちゃん。そんな玉ではないだろう。そうそう、俺の知り合いが面白いネタを提供してくれたがな――」 綿貫がふーっと深呼吸した。大人だったら、煙草の煙を吐き出しているところだ。 「あんた、山岸に、桐生に告白しろ、と言ったんだってな。ちゃあんと聞いてるんだぜ。俺の知り合いから。大した玉だよ。んっとに、全く――」 「あなた達ほどじゃないけどね」 私は、自分の体が強張っているのを覚えた。彼らには、威圧感がある。ただの三下とは違う。もしかすると、私は全校生徒の前で発表するときより、緊張しているかもしれない。 「あの記事のおかげで、私達がどれほど振り回されたか、わかってんの?」 私は、声を張り上げた。 「今回の記事は、私達に対する復讐なの? 私達を、そっとしておいてくれないの?」 「復讐なんざ考えちゃいねぇ。桐生との恋愛騒ぎと、秋野家の取材は別さ。俺ぁメディアの世界に入るのが夢でね。こんなところでもこんな真似ごとをしている。俺が目指しているのは、ペンで正義を訴えることじゃない。どれだけ影響力を及ぼせるか、だ」 綿貫がにやりと笑った。 「たとえそれが、ゴシップであってもね」 私はかっとなった。 「あなた、畳の上では死ねないわよ」 「上等だ」 「あなた達には、人生の真実、ってもがわかっていない」 「ほう。では訊くが、人生の真実とは何だ」 「愛よ!」 「愛! こいつは驚いた。白岡高校きっての硬派が愛とは」 「勘違いしないで。愛とは、博愛、友愛、人類愛のことよ」 「その中には、恋愛も入っているだろ? 我々は今まで数々の生徒をターゲットにしてきたわけだが、あんたはお蔵に火がついた途端、のこのこと現れ出たわけだ」 「いつもあなた方のやり方に怒りを覚えていたわ」 「怒りを覚えるだけでは何もしないのと同じだ!」 確かに、綿貫の言う通りだった。今まで黙って見過ごしてきた罰を受けているのだ。 それにしても、どうして今回、よりにもよって痛くもない腹を探られなければならない羽目に陥ったのだろう―― 「リョウの存在だよ」 麻生が、私の心を読んだように言った。 「リョウは、不良だと思われている。渡辺夫妻だって、あのミバだ。性的に乱れてても、おかしくはない、と思わせるんだな」 そういえば、雄也達の写真もばっちり写っていた。どうやって撮ったのだろうか。 「あの純粋な人達と、アンタ達と一緒にしないで!」 「まだある。佐藤哲郎の存在だ」 「哲郎が……何?」 「調べてみたら、哲郎は勘当も同然の状態だ。おまけに四浪。これは、世間的におかしな目で見られても、仕方のないことなのではないかな。――悲しいことにね、みどりちゃん。高校生だって、人並に世間体を重んじるものなんだよ」 「じゃあ、哲郎さんがクリスチャンだってこと、記事に書けば良かったじゃない。三浦綾子先生や、たくさんの優れた人達のおかげで、日本のクリスチャンに対する風当たりは、そうひどくはないはずよ」 「ところが、そうもいかないのさ。まぁ、クリスチャンは神を信じ、性的に潔癖、という先入観があるから、意図的にそのことは省いたがね」 「汚い奴!」 私は怒鳴った。哲郎は、こんな奴らに名誉を汚されたのだ。 「アンタらなんか、ゴミよ! ヘドロよ! 地獄に堕ちちまえ!」 「おっと――そんな荒い言葉、使うんじゃないよ。可愛い顔に似合わないよ」 「ま、そんなおまえさんだからこそ、叩き甲斐があるというもんだがな」 私は明らかに、完全に弄ばれていた。何か一言でいいから、一矢報いてやりたかった。 だが、私の口から出た言葉は―― 「あなた方に神の裁きがありますように!」 そして、勢いよく扉を閉めて出て行った。 あなた方に神の裁きが――思わず口にしてしまった。 けれど、哲郎の影響だけとは思えない。映画かどこかで見るような台詞だ。 私はクリスチャンではない。 信じるものを持たない虚しさが、しんと、心の中に降りてきた。 「秋野部長! ああ、私、信じてますからね!」 部室に行くと、友子が、いきなりひとの手を取るんで驚いた。 「あのね、みどり……」 頼子が口元に手を当て、耳元で囁いた。 「秋野家で乱交パーティーがあったって噂がたってるわ」 やっぱり。 「困ったことがあったら私に言って。文芸部はあなたの味方よ」 「ありがとう……」 けれど、この人達も、どこまで力になるか……私は人間不信に陥っているようだった。 ――新聞は、誰かの手によって破られていた。 部活が終わった後、私は剣道部の部室へ寄った。 「将人!」 できるだけ大声で呼んでみた。だが、将人は、気付かないのか、面頬を被ったまま、自主トレに励んでいた。 なんか、寂しい、な……。 こんな弱気になる私じゃなかったのに。私は、思わず滲んだ涙を、手の甲で拭った。 みどりの馬鹿。わかっていたことじゃない。 友達を信じ切れないのに、将人にだけは信じて欲しいなんて、虫が良過ぎるわね……。 私は待っていたが、将人は、すっかり暗くなったとき、 「わるい。秋野。先帰ってて」 と言い残し、そのまま練習の続きを行った。 将人が、いつもより素っ気ない気がした。広い背中も、他人を拒んでいるような感じだった。 「何かあったのかぁ?」 そう言ったのは、田村先生だった。 「いえ、何も」 「秋野。顔に書いてあるぞ。寂しい、ってな」 「え?!」 「まぁ、素直になれないんだな。ガキのお遊びだね。全く」 ガキのお遊びとは、何を指しているのだろう。私と将人の恋愛か、綿貫達のマスコミごっこか。 田村先生は、大人だから、私達のやることが片手落ちで、未熟なのもわかるのかもしれない。 だったら、早く大人になりたい。馬鹿にされないためにも。 悔しさが、私を一時、虚しさから解放してくれた。 おっとどっこい生きている 30 BACK/HOME |