おっとどっこい生きている
28
「ねぇ、兄貴。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「なんだい? みどり」
「どうして――哲郎さんてば、あんなにうるさく……じゃなかった、布教活動に熱心になり始めたの?」
「この間の特別集会のときに、東京から来た牧師が、『居眠りするなら教会で』という説教をしたのを聞いて、えらく感動したって。で、イエスの教えによって、みんなを救おうという使命感に火がついたらしい」
 使命感なんて、そんな変なもの燃やさないでよ、頼むから。
「それと、雄也達を教会に連れてくることができて、自信つけたのかもな」
 ええっ?! それじゃ、諸悪の根源は私?
「じゃあさ、兄貴はどうやって断っているの?」
「特別なことはしてないさ。ただ、俺はあいつの過去を知っているからさ」
「――哲郎さんの過去って?」
「――みどり。おまえ、口は固い方か?」
「え?」
 田村先生の言っていたことを、将人に告げてしまったことを、思い出した。その他にもいろいろ。
「まぁ、場合と相手によりけり……かな」
「そうか。じゃあ、雄也達には言うなよ。あいつ、ノイローゼになったことあるんだ」
「嘘ぉ!」
 あの哲郎が、ノイローゼ?
「冗談も休み休み言ってよ」
「いやいや。嘘だったら、もっとマシな嘘つくって。受験で落ちてしまってから、あいつおかしくなってさ」
「へぇー」
「んで、家族もてんやわんやになってさ。一時、岩野牧師んところで寝起きを共にしてたんだよな」
 そんな過去があったんだ……。
「だから、あいつがえみりと言い合ってたときも、俺、内心ヒヤヒヤしてたんだ。あいつら、哲郎とは、あいつがニセ学生やってたときに初めて会ったから、知らないのさ」
「でも、こだわりがないようで良かったじゃない」
「まぁ、沈んでないといいけどな。あいつ、後からくるタイプだから」
「うん。私、腕によりをかけて、哲郎さんの喜びそうなメニュー作るわ」
 私は、力こぶを作る真似をした。
「ところで、兄貴はどうして教会に行かないの?」
「俺には、宗教は必要ないからさ」
「? ……なんか、答えになっていないような気もするけど」
「俺、今のままでも充分幸せだからさ。哲郎が完全に立ち直ったら、行ってみてもいいかな、と思ってるがな」
「ふぅん……」
 私は、哲郎の気持ちがわかる気がした。彼のそういった過去は、確かに弱味になるだろう。それを掴んでいる兄貴には、そう強く出られないのではないか。

 翌日、私達は、えみりをおいて、教会に向かった。雄也に純也、哲郎とリョウ、私――兄貴は、本屋に行くと言っていた。
 雄也は、我が子にしきりに話しかけていた。
 生後二週間目に、ちゃんと市役所に届け出たから、純也は、正式に、『渡辺純也』となった。
「なぁ、えみり達は何食べるんだ?」
と言う、雄也の問いに、
「昼ご飯だったら、用意しておいたわよ」
と返事をした。
「そうか。アンタ、いいとこあるな」
 雄也の台詞に、私はちょっと照れた。
「友達、三人来るって言ってたから、人数分、作っておいたわ」
「……果たして、それで足りるかな?」
「え?」
「いや、えみりの友達に、一人大喰らいのヤツがいてさ。それでは足りないかもしれない」
「じゃ、てんやものでもとってもらって……お金は雄也さんが出すのよ」
「ええ?! 俺が?!」
「えみりさんでもいいんだけど」
「どっちにせよ、俺達が負担するんじゃねぇか」
「嫌? 私は関知しないからね。ねぇ、哲郎さん」
「ああ。僕は今回は、みどりくんの味方に回るよ。えみりくんの都合だからね」
「――ちっ、わかったよ。純也。将来こんなケチなヤツらのようには、なるんじゃないぞ」
「私達、ケチじゃないわよ。アンタ達をタダで置いてやってんじゃない」
「それは、駿が寛大なだけだろ。おまえだったら、確実に金取ってた!」
 う……まぁ、否定はしないけどね。
「アンタらさぁ……言い争いなら他のトコでやってくんない? オレ、頭が痛くなんだけど」
 リョウがもっともなことを言ったので、私は気持ちを鎮めようと、空を見上げた。
 ああ、いろんな雲が浮かんでいるなぁ……今日はいい天気だな……。
 リョウのおかげで、少し落ち着いた。

 教会に着いた。子供達は、リョウを見た途端、わっと走ってきた。
「すげぇー! すげぇー!」
「かっこいいー!!」
 リョウはギターケースから肩から外して、傍らに置いた。

 今日の説教では、眠ることはしなかった。
 ただ、わからないことだらけだ。
 どうしてイエス・キリストは、私達の為に十字架にかかった、ということになってんの?
 だって、あの人は、二千年前の人でしょ?
 それに、私達の罪の為って言うけど、私達、十字架について、って、イエスに頼んだりしなかったわ。
 それを岩野牧師に話すと、牧師は困ったように、
「これは、或る人々にとって、一度は経験する疑問だよ。でも、いつかはわかるようになる。いつかはね。言葉で説明は難しいね。でも、できるだけやってみよう」
 そう言って、牧師は、イエスの生涯や十字架について説明し始めたが、やっぱり私にはわからなかった。

 リョウは、あっという間に、子供達の人気者になった。
 マーシャまで、彼に取られてしまった。
 リョウの演奏は、この間演ったときよりも、音がのびのびとしていた。
「象を描いて」とマーシャから頼まれたので、力を込めて描いていた私の耳に、その演奏は、快く聴こえた。
 しかし、私はちょっと、フェアじゃないような感じがした。何故かはわからないが。お茶を挽いているゆえの嫉妬もあったかもしれない。
 それに――ああ、そうか。私は、こんなにくつろいでいるリョウを、初めて見たんだっけ。
 家にいるリョウも、傍若無人に見えたが、こんなに優しそうなリョウは――。
 ああ、ずるい、ずるい。
 リョウも、子供達も。
 リョウは、子供達がいるからリラックスできる。子供達は、リョウが来てくれたから嬉しい。
 だあれも損する人はいないじゃないの。私は面白くないけど。
 哲郎も、慈しむ目で、彼らを眺めている。
「やっぱり、リョウくんには、教会が似合うねぇ」などと、腕組みして呟きながら。
 子供達は、指で弦を弾いたり、リョウに手ほどきしてもらったりしている。
 象の絵が描き上がった。
「マーシャ」
 私が呼ぶと、マーシャはにっこりした。
「ありがとう。みどり」
 彼女は、日本語の達者な、黒人と日本人のハーフだ。平均的な日本の子供達より大柄なこの娘は、いつも明るい。

 家へ帰ると、無残な光景を目の当たりにしなくてはならなかった。
 私が用意した昼ご飯はもちろん、握り寿司、ラーメンなどの食べがらがあった。
「えみり……これは?」
「ああ、友達が食べたの。特に、のりりんが」
 えみりはしれっと言いのけた。
「約束よ。このご馳走の代金は、アンタが払って」
 私は雄也に言った。
「は、はは……しゃーねぇなぁ」
 雄也は泣く泣く、へそくりを取り出した。

 夜も更けた頃、リョウの部屋をノックした。正確には、亡くなったお祖父ちゃんの部屋だ。
 リョウはもう寝ただろうか。
「ああ、なんだ、秋野か」
「ちょっといいかしら」
 私は、一応ドアを開けたままにしておいた。
「何だよ。こんな遅くに。襲われてもしらないぞぉ」
「誰に」
「オレに」
「貧乳に興味はないんでしょ?」
「いやいや。餓えてたら、獲物なんて、どんなヤツだっていいの」
「サイテーなヤツ!」
「まぁまぁ。何か用があって来たんじゃないの?」
「うん。えーと……あのね」
 私は、恥ずかしくなって、つい俯いた。
「ギター、弾いて欲しいの」
「え?」
「だから、今日みたいなギターを弾いて欲しいの。教会での演奏、よかったわ」
「ふぅん。じゃ、ちょっと待って」
 リョウは、窓枠に腰かけると、ポロンと、弾いてみた。
 それから、のびやかな音。空に昇って行って弾ける。一曲終わったけど、何の曲かわからなかった。
「なぁに? 今の曲」
「オレの作曲だよ。名前はまだない」
「『吾輩は猫である』、じゃあるまいし」
「ほんとほんと。今、流れのままに弾いていたら、できたのがこの曲。二度と弾けないけどね」
 リョウは笑った。私も笑った。
 
おっとどっこい生きている 29
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