おっとどっこい生きている 「なんだい? みどり」 「どうして――哲郎さんてば、あんなにうるさく……じゃなかった、布教活動に熱心になり始めたの?」 「この間の特別集会のときに、東京から来た牧師が、『居眠りするなら教会で』という説教をしたのを聞いて、えらく感動したって。で、イエスの教えによって、みんなを救おうという使命感に火がついたらしい」 使命感なんて、そんな変なもの燃やさないでよ、頼むから。 「それと、雄也達を教会に連れてくることができて、自信つけたのかもな」 ええっ?! それじゃ、諸悪の根源は私? 「じゃあさ、兄貴はどうやって断っているの?」 「特別なことはしてないさ。ただ、俺はあいつの過去を知っているからさ」 「――哲郎さんの過去って?」 「――みどり。おまえ、口は固い方か?」 「え?」 田村先生の言っていたことを、将人に告げてしまったことを、思い出した。その他にもいろいろ。 「まぁ、場合と相手によりけり……かな」 「そうか。じゃあ、雄也達には言うなよ。あいつ、ノイローゼになったことあるんだ」 「嘘ぉ!」 あの哲郎が、ノイローゼ? 「冗談も休み休み言ってよ」 「いやいや。嘘だったら、もっとマシな嘘つくって。受験で落ちてしまってから、あいつおかしくなってさ」 「へぇー」 「んで、家族もてんやわんやになってさ。一時、岩野牧師んところで寝起きを共にしてたんだよな」 そんな過去があったんだ……。 「だから、あいつがえみりと言い合ってたときも、俺、内心ヒヤヒヤしてたんだ。あいつら、哲郎とは、あいつがニセ学生やってたときに初めて会ったから、知らないのさ」 「でも、こだわりがないようで良かったじゃない」 「まぁ、沈んでないといいけどな。あいつ、後からくるタイプだから」 「うん。私、腕によりをかけて、哲郎さんの喜びそうなメニュー作るわ」 私は、力こぶを作る真似をした。 「ところで、兄貴はどうして教会に行かないの?」 「俺には、宗教は必要ないからさ」 「? ……なんか、答えになっていないような気もするけど」 「俺、今のままでも充分幸せだからさ。哲郎が完全に立ち直ったら、行ってみてもいいかな、と思ってるがな」 「ふぅん……」 私は、哲郎の気持ちがわかる気がした。彼のそういった過去は、確かに弱味になるだろう。それを掴んでいる兄貴には、そう強く出られないのではないか。 翌日、私達は、えみりをおいて、教会に向かった。雄也に純也、哲郎とリョウ、私――兄貴は、本屋に行くと言っていた。 雄也は、我が子にしきりに話しかけていた。 生後二週間目に、ちゃんと市役所に届け出たから、純也は、正式に、『渡辺純也』となった。 「なぁ、えみり達は何食べるんだ?」 と言う、雄也の問いに、 「昼ご飯だったら、用意しておいたわよ」 と返事をした。 「そうか。アンタ、いいとこあるな」 雄也の台詞に、私はちょっと照れた。 「友達、三人来るって言ってたから、人数分、作っておいたわ」 「……果たして、それで足りるかな?」 「え?」 「いや、えみりの友達に、一人大喰らいのヤツがいてさ。それでは足りないかもしれない」 「じゃ、てんやものでもとってもらって……お金は雄也さんが出すのよ」 「ええ?! 俺が?!」 「えみりさんでもいいんだけど」 「どっちにせよ、俺達が負担するんじゃねぇか」 「嫌? 私は関知しないからね。ねぇ、哲郎さん」 「ああ。僕は今回は、みどりくんの味方に回るよ。えみりくんの都合だからね」 「――ちっ、わかったよ。純也。将来こんなケチなヤツらのようには、なるんじゃないぞ」 「私達、ケチじゃないわよ。アンタ達をタダで置いてやってんじゃない」 「それは、駿が寛大なだけだろ。おまえだったら、確実に金取ってた!」 う……まぁ、否定はしないけどね。 「アンタらさぁ……言い争いなら他のトコでやってくんない? オレ、頭が痛くなんだけど」 リョウがもっともなことを言ったので、私は気持ちを鎮めようと、空を見上げた。 ああ、いろんな雲が浮かんでいるなぁ……今日はいい天気だな……。 リョウのおかげで、少し落ち着いた。 教会に着いた。子供達は、リョウを見た途端、わっと走ってきた。 「すげぇー! すげぇー!」 「かっこいいー!!」 リョウはギターケースから肩から外して、傍らに置いた。 今日の説教では、眠ることはしなかった。 ただ、わからないことだらけだ。 どうしてイエス・キリストは、私達の為に十字架にかかった、ということになってんの? だって、あの人は、二千年前の人でしょ? それに、私達の罪の為って言うけど、私達、十字架について、って、イエスに頼んだりしなかったわ。 それを岩野牧師に話すと、牧師は困ったように、 「これは、或る人々にとって、一度は経験する疑問だよ。でも、いつかはわかるようになる。いつかはね。言葉で説明は難しいね。でも、できるだけやってみよう」 そう言って、牧師は、イエスの生涯や十字架について説明し始めたが、やっぱり私にはわからなかった。 リョウは、あっという間に、子供達の人気者になった。 マーシャまで、彼に取られてしまった。 リョウの演奏は、この間演ったときよりも、音がのびのびとしていた。 「象を描いて」とマーシャから頼まれたので、力を込めて描いていた私の耳に、その演奏は、快く聴こえた。 しかし、私はちょっと、フェアじゃないような感じがした。何故かはわからないが。お茶を挽いているゆえの嫉妬もあったかもしれない。 それに――ああ、そうか。私は、こんなにくつろいでいるリョウを、初めて見たんだっけ。 家にいるリョウも、傍若無人に見えたが、こんなに優しそうなリョウは――。 ああ、ずるい、ずるい。 リョウも、子供達も。 リョウは、子供達がいるからリラックスできる。子供達は、リョウが来てくれたから嬉しい。 だあれも損する人はいないじゃないの。私は面白くないけど。 哲郎も、慈しむ目で、彼らを眺めている。 「やっぱり、リョウくんには、教会が似合うねぇ」などと、腕組みして呟きながら。 子供達は、指で弦を弾いたり、リョウに手ほどきしてもらったりしている。 象の絵が描き上がった。 「マーシャ」 私が呼ぶと、マーシャはにっこりした。 「ありがとう。みどり」 彼女は、日本語の達者な、黒人と日本人のハーフだ。平均的な日本の子供達より大柄なこの娘は、いつも明るい。 家へ帰ると、無残な光景を目の当たりにしなくてはならなかった。 私が用意した昼ご飯はもちろん、握り寿司、ラーメンなどの食べがらがあった。 「えみり……これは?」 「ああ、友達が食べたの。特に、のりりんが」 えみりはしれっと言いのけた。 「約束よ。このご馳走の代金は、アンタが払って」 私は雄也に言った。 「は、はは……しゃーねぇなぁ」 雄也は泣く泣く、へそくりを取り出した。 夜も更けた頃、リョウの部屋をノックした。正確には、亡くなったお祖父ちゃんの部屋だ。 リョウはもう寝ただろうか。 「ああ、なんだ、秋野か」 「ちょっといいかしら」 私は、一応ドアを開けたままにしておいた。 「何だよ。こんな遅くに。襲われてもしらないぞぉ」 「誰に」 「オレに」 「貧乳に興味はないんでしょ?」 「いやいや。餓えてたら、獲物なんて、どんなヤツだっていいの」 「サイテーなヤツ!」 「まぁまぁ。何か用があって来たんじゃないの?」 「うん。えーと……あのね」 私は、恥ずかしくなって、つい俯いた。 「ギター、弾いて欲しいの」 「え?」 「だから、今日みたいなギターを弾いて欲しいの。教会での演奏、よかったわ」 「ふぅん。じゃ、ちょっと待って」 リョウは、窓枠に腰かけると、ポロンと、弾いてみた。 それから、のびやかな音。空に昇って行って弾ける。一曲終わったけど、何の曲かわからなかった。 「なぁに? 今の曲」 「オレの作曲だよ。名前はまだない」 「『吾輩は猫である』、じゃあるまいし」 「ほんとほんと。今、流れのままに弾いていたら、できたのがこの曲。二度と弾けないけどね」 リョウは笑った。私も笑った。 おっとどっこい生きている 29 BACK/HOME |