おっとどっこい生きている
2
 一瞬、何と言われたかわからなかった。
「お父さん、今日は四月一日じゃないのよ」
「知ってるよ」
 お父さんはにこにこ。
「トンガに赴任って、何なのそれ! 聞いてないよ!」
 兄貴がよく、「聞いてないよぉ」という石器時代のギャグを飛ばすけど、まさにそんな感じ。
 ていうか、トンガって何?! どうしてお父さんがそんなところへ行くの?!」
 私がそう言うと、お父さんは、相変わらずにこにこしながら答えてくれた。
「僕の会社には、トンガにも支社がある。知ってるね。今回そこで、BBWに関する研究プロジェクトが発足するんだ」
「BMW(ベンべー)?」
「それは車だ。いいかい。みどり。BBWというのは、ビッグ・ビューティフル・ウーマンの略だ。トンガの美しさの基準は、太っていることさ。これが成功したら、誰でも簡単に、美しく太るようになれるんだ」
「ふぅん」
 なるほどいいことかもしれない。痩せ薬が氾濫しているこの頃、携帯持っている友達からも、
「『これを使えば痩せる!』というダイレクトメールが何通も来るんだよー」
と、迷惑がられている。つまりは、それだけ痩せたい人が多いわけだ。
 でも、美しく太ることが世間に認められるならば、無理して痩せる必要もないわけだ。体に負担がかからないならば、太っていようが痩せていようが、関係ない。人間的魅力で勝負できるというわけだ。太っていることに、劣等感を味わわずに済むんだ。
 行き先がトンガというところが少々気になるけど、単身赴任というのはよくある話。自分でも珍しく、喜んで父を送ろうと思っていた。
 ところがである。
「それでねぇ。お母さんも行くことになったのよ」
 暖簾を分けて、お母さんが現われた。
「ええっ?! 何それ?! 未成年の娘を置いて、両親共々トンガに行くってわけ?! 信じらんないッ!!」
「あら、大丈夫よ。お兄ちゃんがいるじゃない」
「兄貴なんて当てにならないよ」
「大丈夫。みどりちゃんしっかりしてるから、家のことはお願いね」
「わざわざお願いされなくても、家事は私がやってるじゃない」
 そうなのだ。働くことがそう苦にならない私は、この家のおさんどんを一手に引き受けている。父や母や兄貴がのほほんと暮らしていられるのも、全て、私のおかげなのだ。
 そこまで思って、私はふっと不安になった。
「お母さんさぁー……料理とかできるわけ? 二人だけで暮らしていける?」
「あら、失礼ね。みどりちゃん。お母さんこれでも、花嫁修行のときには、習ったことあるのよ」
「その頃から、全く進歩していないんじゃない?」
 お母さんの作る料理は、はっきり言ってまずい。
「お父さんは喜んで食べてくれているわ」
「そりゃあ、お父さんは味音痴だから。それにしても、お母さんまで行くことないんじゃない? それとも、夫婦同伴で来いってお達しなわけ?」
「違うわ。お父さんだけじゃ寂しいだろうと思って、お母さんもついていくことにしたの」
「ついていくことにしたって――」
 お母さんは無邪気そのものの顔をしている。
「それに――お父さんをBBWに取られたらイヤだもの」
「美沙子……どんなに僕の周りにBBWがいても、僕の妻は、君一人だよ!」
「あなた!」
 お父さんとお母さんは、駆け寄り、互いに必死とかき抱いた。
 あー、あほらし。
 押し問答がしばらく続いたが、結局二人は三月末日、トンガに発って行ってしまった。二人とも、説得を耳に入れるようなタイプではない。
 こうなったら仕方がない。一刻も早くこの状態に慣れることだ。
 と言っても、格別の努力は必要しないだろうと思う。両親がいなくなったのは、寂しいことは寂しいが、兄貴もいることだし。兄貴は二十歳過ぎてるから、保護者の代わりも立派に務めてくれる――はずだ。

おっとどっこい生きている 3
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