おっとどっこい生きている
19
「あーっ! カワイイッ!」
 えみりが素っ頓狂な声を上げた。今度は何?
「このネックレス、行くときはしてなかったわよね。彼氏に買ってもらったの?」
「ど、どうでもいいでしょ? そんなこと」
「あーっ! やっぱりズボシだー!!」
 えみりがにやにやしながら肘で突付く。
「みどり〜、そんな安物のネックレスなんかで買収されるんじゃないぞ〜」
 びっくりした。兄貴が階段から覗いていた。
「何よ買収って。二人とも私をからかって!」
 そのとき、哲郎が通りかかった。
「ねぇ、哲郎。見てよこれ、みどりの彼氏がプレゼントしてくれたのよ」
 哲郎と私の目が合った。私は一瞬、どきっとした。
 が、哲郎は、そんな私にはお構いなしに、
「ふぅん」
とだけ言って、通り過ぎ、外へと出て行った。
 ずきん。
 あれ、何だろ。この気持ち。
 哲郎に不思議と罪悪感を感じる。さっきまでそんなことなかったのに。
 あの目のせいだ。
 哲郎は、あんな目をしたことなかった。どこか冷たい、他人を見るような、そんな感じ。
 いったい、何が原因なのかしら。

 今日、私は哲郎に初めて夜食を作った。鍋焼きうどんだ。
 ちょっと寒いから、身も心も温かくなるような、そんな料理を食べさせてあげたかったのだ。
 哲郎の部屋は、二階のお父さんの書斎だ。勉強には励みやすいだろうと、兄貴が勝手に決めた。
「哲郎さん、夜食持ってきたわよ」
「ああ、そこ置いといて」
 礼のひとつも言わない。私は内心気分を害した。
 やっぱり、今日の哲郎はおかしい。
 哲郎は、机にへばりついて、勉強に集中しているらしい。
 怒ったって何もならない。私は深呼吸すると、「勉強がんばってね」と言って、ドアを閉めた。
「よぉ」
「あ、兄貴……」
「哲郎のご機嫌取りか?」
「そんなんじゃないけど……」
 私は、一旦言葉を切ってから、話題を変えた。
「ねぇ、兄貴。哲郎さんて、どうして四浪もしてるの?」
「……この話はここではちょっと……下に来い。みどり」

 兄貴と私は、応接間に来た。
「あいつはね、東大の法学部を目指しているんだ」
「なんで?」
「将来は弁護士……というのが親御さん達の希望だったみたいだけど……哲郎は牧師になりたいみたいなんだ。あいつがいつか、そう洩らしていたよ」
「じゃ、なんで東大にこだわるの?」
「あいつも意固地なところがあるからなぁ。あいつの頭で入れないところじゃないと思うから、余計にさ。今年は、絶対確実に合格する!と思ってたんだぜ。自分も、周りも」
 私は頷いた。
「実はあいつ、今年の春から仕送りが打ち切られているんだよ。みどりには詳しく話さなかったけど」
 道理で、うちの他に、新しい下宿を探そうとしなかったわけだ。
「それで、ここに置くことにしたわけ?」
「うん。あいつとはウマが合うし、ちょっと気がかりでもあったしな」
「気がかり?」
「ああ。弁護士なら弁護士、牧師なら牧師でいいけど、今の哲郎は、ただの浪人生だしな」
「さっさと牧師になっちゃえばいいのに」
「自分の中で区切りがつくまで、弁護士の勉強の方もがんばるって」
「でも、牧師の方が、哲郎さんには似合いだと思うわよ」
 私は思った。初対面のときの哲郎。シェンキェヴィチの『クオ・ヴァディス』を読んでいた哲郎。何事も見通すような、達観したような、澄んだ目……。
「実は、俺もそう思うんだ」
 兄貴がぽりぽりと頬を掻いた。
「でも、まぁ、これは本人の問題だしな。傍がどうこう言うことではないさ」
「そうだね」
「じゃ、もう寝るか。そうそう。気のある素振りは、哲郎を戸惑わせるだけだぞ」
「気のある素振りなんて、してないわよ」
「あいつに、夜食を持っていったことなんて、今までなかったじゃないか」
「あ、あれは……哲郎さん、元気なかったみたいだから」
「元気がないのは、誰のせいですかねぇ」
 兄貴は立ち上がって、私の頭をこんと叩いた。
 子供扱いされた……。
「哲郎さんのことなんか、何とも思ってませんからね!」
「はいはい。わかったわかった。本命は桐生って奴か?」
「ほっといてよ!」
 兄貴は舌を出しながら、扉を閉めた。
「全くッ!」
 我が兄ながら、しょうもない奴……。

おっとどっこい生きている 20
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