おっとどっこい生きている
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「あの……」
 私は様子を伺うように小さく呟いた。
 リビングには今、由香里、由香里の父、由香里の母、えみり、兄貴、私がいた。
 雄也は純也の世話、リョウには部屋にいてくれるよう頼み、哲郎には悪いけどちょっと遠慮してもらった。
 それにしても、この重い空気――。誰も喋ろうとしない。
 私は立ち上がった。
「わ……私、お茶淹れてくる」
 そう――つまり、私は逃げたのだ。情けない話だが。それでも硬派のみどりか!とお叱りを受けそうだが。
 私は自分が意外とプレッシャーに弱いことに気付いた。
 それに、私も喉が乾いたし――。
 ゆっくり時間をかけてお茶を淹れる。お茶は五人分。私は自分で淹れたのを後で飲もう。あんな場所でお茶なんて飲めないもん。
 私は私以外の人数分のお茶を用意した。
 重圧感には弱いが、興味はある。好奇心旺盛なのね。私。由香里本人にしてみれば、面白半分で首突っ込むな、と言いたいところだろうけど。少なくとも、私が由香里の立場だったらそう思うな。
 高部さんや兄貴達がぼそぼそと喋っている。お茶を運ぼうとした私の耳に彼らの声が入ってきた。
「聖栄教会では、『小さないのちを守る会』という組織?というか、ボランティア?というか、そういうところを紹介してもらって――」(注:『小さな命を守る会』というのは実際にあります)
 この?マークばかり飛ばして話しているのは由香里だ。
「赤ん坊を産むのをサポートしてくれたり、もし赤ん坊を育てられない時には、子供のいない夫婦のところへ預けてもらったりとかできるんですよ」
 兄貴も熱を入れて語る。
 ところが、由香里の父の気にしていることはもっと違ったところにあるらしく――。
「ああ、もうおしまいだ……教会にまで知られてしまっては――」
「あなた」
 由香里の母の声も聞こえる。娘が妊娠してるのになに世間体気にしているのかしら。この人達。
「お茶が入りました」
 由香里の両親のところにはどん!と勢いよく、お茶がこぼれるくらい勢いよく湯呑みを置きたかったけど、自分を抑えてことんと静かに置く。
 ――えみりは怖い顔をしていた。
「けれど、僕はその選択肢は選びません」
 兄貴が朗々と言った。
「僕は、この高部由香里さんの子供のお父さんになります」
 偉い! よく言った! 兄貴!
 私はブラーヴォと心の中で拍手を送った。赤ん坊が苦手だった昔の兄貴からは考えられない言葉だわ。
 きっと、純也くんの存在も大きかったのね。きっと。すっかり子供に慣れたんだわ。
「な……何を……?!」
「僕は、高部由香里さんが好きです。結婚してもいいと思っています」
「ちょっと待って、駿ちゃん」
 えみりが口を挟む。
「由香里ちゃんの妊娠を知ったのはつい昨日のことよね」
「ああ」
「由香里ちゃんの子供のパパになるって、いつ決めたの?」
「数時間かけて考えたよ。みどりにも言われたしね」
 う……そりゃ確かに言ったかもしれないけどぉ……。
 それに、兄貴の部屋行った時、兄貴はのんびり新聞なんか読んでたじゃない。由香里との結婚、真剣に考えているようには見えなかったけど。
 でも、兄貴の選択には、私、力いっぱい賛成する。そりゃもう、ものすごく。
「駿さん!」
 由香里が叫んだ。
「わ……私、駿さんが好き! 大好き!」
 うん。その気持ちよくわかるよ。妹じゃなかったら、私だって惚れてた。
「みどり……私の義妹になってくれる?」
 由香里がこちらを見た。
「いいわよ。ばんばん手伝ってもらいますからね。うちには居候がたくさんいるし」
「うん! うん!」
 由香里が斜向かいに座っていた私の手を取った。
「待って」
 由香里の母だ。影が薄いと思っていただけに、口を開いてびっくりだ。
「近いうち、牧村さんを呼んで話をしましょう」
「そうだな。――もう遅いな。夜分遅くにすみませんでした」
 由香里父――高部健一って言ったな――がのろのろと立ち上がる。
「美味しいお茶だった。ありがとう」
「あ……いえ……」
 ただ家事に逃げ込んだだけなんですけど――由香里の父さんはそんなに悪い人ではないのかもしれない。
 別にお茶を褒められたから見直したんではないわ。ほんとよ。
 大切な娘が結婚もしてないのに妊娠したとあっては、とち狂うな、という方が酷かもしれない。
「お父さん……私、この家にいていい?」
「ここはおまえにとっては居心地のいい家なのだね」
「うん!」
「秋野さん――娘を宜しくお願いします」
 高部さんが深々と頭を下げる。後頭部が少し寂しい。
「はい。ただ……今はここには突発性発疹症の子供がいるので、由香里さんは一旦家に帰った方がいいと思われます」
 兄貴が言った。由香里は、残念そうに「わかったわ」と頷いた。
 そうだね……発疹を軽く見てはいけないのかもね。私達。私は友達から聞いたアガサ・クリスティの『鏡は横にひび割れて』を思い出していた(注:『鏡は横にひび割れて』のエピソードは、 風魔の杏里さんから聞いた話です。Tomokoは読んだことはありませんが)。
 えみりは――険しさは取れたが、まだ渋い顔をしていた。
 どうしたのかしら。えみり。純也君のことの他に何か心配事でも?
「まだ、結婚するとは決まってないでしょう。高部さん」
 えみりが言う。
「確かに駿ちゃんは来年社会人だし、結婚したっておかしくはないと思うけど――」
 私も夫と子供をもってるしね。えみりはそう付け足した。そして続ける。
「牧村サンがどう出るか、まだわからないでしょう?」
「ええ。ですから、牧村さんとも話し合いをしなければなりませんね。これさっきも言いましたけれど」
 高部さんはそう言った奥さんに視線を遣る。
「ジローが……」
 由香里は不安げにきょろきょろした。そりゃ、もうあんな男とは会いたくもないだろうなぁ……と、恋愛経験の乏しい私でもそう思う。
 が、由香里はきっと顔を上げた。そして、やがて決意したように口を開いた。
「わかりました。ジローに会います」
「明日になったら、牧村を呼ぶ。私の家にだ」
 由香里の父が宣言した。
「君も来てくれないか。秋野くん」
「駿でいいです。でも、後でみどりにつんぼ桟敷にした、と怒られないかなぁ」
 兄貴が頭を掻く。
 うん。確かに、私はつんぼ桟敷に置かれるのが嫌だった。けれど、私では責任を担いきれないこともある。私は弱い人間だ。
 だから――。
「行ってきて。兄貴」
 私は昂然と顔を上げて言う。
「だけどねぇ……明日は両親が来るんですよ。トンガから」
「トンガ?!」
 高部夫妻は顔を見合わせた。無理もない。
「秋野夫妻とは昔、少しだけ親交があったのだが……そうか。トンガか。あの夫婦らしい」
「え? では、私のことも知ってらしたんですか」
 私は驚いて質問した。
「君が生まれた頃にはもう絶縁してたよ。私の方から一方的にだけど。けれどもねぇ……あの秋野さんの息子が由香里にプロポーズか……秋野さんが聞いたら何て言うかな」
「そんなこと、ゆうべは一言も言わなかったじゃないですか! それに、僕の記憶にも高部さんは残ってませんよ!」
 兄貴が叫んだ。だって、兄貴、それは兄貴の子供の頃の記憶だからあやふやなんじゃないの……?

2015.4.6


おっとどっこい生きている 157
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