おっとどっこい生きている
154
「誰から?」
 私は兄貴の部屋の電話を借りていたのだった。――兄貴が訊く。
「お母さん」
 私は簡潔に答える。お母さんが電話するなんて珍しい。お父さんからは毎日に近い程来るけど。
「あら。駿もいるの?」
 お母さんはのんびりした明るい声。えーい! この大変な時だと言うのに!

 ――そこまで考えて、私はそれは身勝手な意見だということに気が付いた。お母さんは何も知らないんだもん。焦りようがないじゃない。
「代わって。みどり」
 私は大人しく兄貴に代わってあげた。面倒事はたくさんよ。もう。
「もしもしお袋。――俺、パパになるよ」
「――え?」
 私は思わず言ってしまった。
 お母さんの意見はわからないけれど、きっといつも通りではいられないだろうな……いや、お母さんは物事には動じない人だから……。
「赤ちゃんのママはね……みどりのクラスメー……」
「ちょっと待ってちょっと待って!」
 私は受話器を兄貴から奪い取った。
「あのね、違うの。本当は兄貴の子じゃなくてね……私のクラスメートの付き合ってた男が彼女を妊娠させたの!」
「……まぁ、そう……」
 お母さんは思ったより穏やかな反応を見せた。
「もう全部言っちゃっていいよね。兄貴」
「――仕様がないな。隠してるわけじゃないし」
 私は、知っている限りの全てを話した。今、由香里が私の家にいることも。
「――そうだったの。可哀想ね」
「でしょう。可哀想でしょ、由香里」
「ママが言ってるのは、相手の男のことよ。きっと、愛することを知らないから、自分の子供も愛せないんだわ」
 お母さんは――どっかズレてる。確かにお母さんの言う通りかもしれないけれど……。
「お母さん! 可哀想なのは由香里でしょ?!」
「そうよ。当たり前でしょう。でもね……その男の子にも優しいところがあったんだと思うの。だから、由香里ちゃんも惹かれたんだと思うわ」
 う……それは、考えてなかったわ……。由香里だけじゃ赤ちゃんはできないものね。由香里が悪くないとは言えない。けれど――男の方にも確かにいいところはあったのかもしれない。
 妊婦をサンドバッグ代わりにするような男でも。その後は親切に由香里に対応してくれたのかもしれない。――やっぱり最低だけどね。ストックホルム症候群みたいなモンか。
「――とりあえず、明日はご馳走にしてあげるわ」
「ありがとう。みどりの料理、ママ大好き」
「兄貴と代わるわね――ほら、兄貴」
 私は受話器を渡した。
「ああ」
 それから、兄貴がお母さんと何を話したかは知らない。けれど――私は使命を果たした満足感に酔っていた。
 そして、将人が由香里の彼氏(ジローって言ったっけ?)のような人でなしでなかったことを神に感謝した。それは、歪んだ優越感かもしれないけど。
 開いたままの扉から、リョウの姿が見えた。
「あ、駿サン電話?」
「どうしたの? リョウ」
 私が代わりに訊いてやる。リョウが小声で言った。
「オレ、ちょっと外に出ていいかな」
「ダメよ。もう遅いもの」
「オレ、駿サンに借金してるんだよね」
「借金?」
 そんなものリョウが兄貴にしてたなんて知らなかった。我が家の生活費を計算してるのは私だけど、そのお金は兄貴が管理しているから。お父さんからの仕送りもあるし、お祖父ちゃんやお祖母ちゃんの遺産もあるし。秋野家は結構裕福なのだ。
「静かにしないか。おまえら」
 ――兄貴、ご機嫌斜めのようね。
「オレの部屋に行こうぜ」
「でも……」
「何もしないから。つか、アンタみたいな鶏がら、抱いても美味しくなさそうだから」
「言ったわねぇ……!」
「静かにしろ!」
 ついに兄貴の逆鱗に触れたらしい私達二人は、「はい」としょぼくれて答えた。

「で? 兄貴に借金とは?」
 ここはリョウの部屋。私は仁王立ちで訊いた。さぞかし迫力があったに違いない。
「こえーんだけど。フクも怖がる。――座ったら? 缶ジュース買ってきたぜ。秋野にやる」
「うん……ありがと」
 ま、ここは退いておくか。私は正座した。リョウが缶ジュースを目の前に置く。
「秋野にも言っておくべきだったよな。――オレ、ケータイ代、駿サンに肩代わりしてもらったんだよね。駿サン『オレが払う』って言ってくれて。お礼は出世払いでいいって。最近のことだよ」
「そうだったの?」
「そうだったの。じゃ、やっぱり駿サン、秋野に話してなかったんだ、そのこと。――今日は久々にストリートライブでも開いて少しでも駿サンに金返そうと思って。オレ、一文無しなわけじゃないけど、やっぱり自分で稼いだ金を渡したくってさ」
 なるほど。リョウの気持ち、わからないわけじゃない。自分で稼いだお金で返せた方が嬉しいもんね。私自分で稼いだことないけど。それにしても……。
「もう――お人好し過ぎるわね。兄貴ったら。リョウもとてもいいヤツだけど」
「まぁ、渡辺一家とか哲郎さんとか、オレとかフクとか家に置いてる誰かさんもかなりお人好しだと思うけどね」
 ぐ……それって私のことよね。仕様がないでしょ。私だってこんな変り者揃いの家に住みたくなんてなかったわよ。
 それに、渡辺一家といえば――私は純也くんのことを思い出していた。
「純也くん、どうしているかしら」
「平気じゃね? えみりサン達に任せておけば」
「そうじゃなくて――純也くんの病気がどうなったか気になって……」
「じゃ、一緒に行く? オレも気になって来たわ。フク、オレちょっと出てくから大人しくしてるんだぞ」
「あ……ありがとう、リョウ」と、私は言った。ナーオ、とフクも鳴く。
「それより、先に飲んじまったら。それ」――リョウはリンゴの缶ジュースを親指で差した。ありがと、と私はまた言った。
 リョウは――見た目は不良だが、実は結構優しい。ジュースを飲み干して渡辺一家の部屋に行くと――。
「あ、みどり! リョウ!」
 えみりは私のことをかいぐりかいぐりしてくれた。それを見ていたリョウも、
「みどりばっかずりー!」
 と言っていたが、えみりが鋭い声で、
「男の子でしょ!」
 と言ったら、
「はい……」
 と、しおしおとなった。私はそれを無視して訊いた。
「純也くん、大丈夫?」
「うん。なんか発疹が薄くなってきたような気がする」
「それは良かったわ」
「由香里ちゃんは?」
「私の部屋で寝てる」
「そう――あの子も幸せになるといいわね」
 えみりがしんみりと言った。
「勿論! 私達、その為だったら何だってするわ!」
 私も言った。由香里達の為なら色仕掛けだってするわ! ほっぺにちゅー止まりでも。ま、兄貴にはその必要はないってわかったけど。
 でも……私はどうしてこんなに由香里びいきになってしまったのだろう。
 その理由は、私にはわかる気がした。
 幸せだからよ! だから、不幸な人を見ると、何か借りを返さずにはいられなくなるのよ。兄貴も多分そうだと思う。哲郎もリョウも由香里も、何かしら不幸を背負っている。渡辺一家はどうかわからないけど。私、彼らが――この家のみんなが好きよ。みんな幸せになって欲しい。
 この家の人達、みんなみんな大好きだから! だから、とても愛に満ちている、新井素子先生とか、河合隼雄先生のお話が大好きなのだわ。新井素子先生の話の方は、時々怖いこともあるけど。
 それから、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんありがとう。

2015.2.17


おっとどっこい生きている 155
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